「……悪いな、マッシュ」
 背中から聞こえる声にふふっと笑い、なんてことないさ、と軽く答えるマッシュの足は口調の通りに弾んでいた。
 後ろから両肩に添えられた手の温もり。背中全体にかかる体重の重みと、耳のすぐ傍で感じる控え目な息遣い。それが時折申し訳なさそうな溜息となり、マッシュの笑顔も苦笑に変わる。
 マッシュは背中に兄のエドガーを背負って山道を駆けていた。
 とはいえエドガーには目立つ怪我も、普段と違う様子もない。ただ、瞼をずっと下ろしていること以外は。
 大した敵もいないはずだと訪れた山にて、うっかりエドガーが『暗闇』の攻撃を受けてしまった。回復薬は用意していたものの、状態異常を治すアイテムはほとんど持って来ておらず、魔法が使えるメンバーは別行動。
 このまま探索を続けるのは危険だと判断し、視界不良になったエドガーをマッシュが背負って山を降りることになったのだ。
「気にすんなよ、兄貴。これくらい何でもないよ」
 マッシュが本心からの言葉を告げると、エドガーはしかし、と前置いてボソリと呟く。
「……重いだろう」
 気恥ずかしそうな兄の声色にマッシュは軽く吹き出した。
「全然」
 それなりに体格の良いエドガーを背に乗せても、まるで苦にならない。
 こんなに軽々と兄を背負えるようになった喜びと、二人でひとつになったかのような密着具合が浮き浮きとマッシュの胸を躍らせていた。


 取り急ぎ最寄りの町に辿り着いた二人だったが、小さなその町の道具屋は夕方に早々と店じまいをしており、エドガーとマッシュは仕方なく宿に泊まることを選んだ。
 このまま仲間たちのところに戻るよりは、時間がかかっても安全策を取りたい──エドガーはそう説明したが、マッシュの手助けなしではろくに歩けもしない状態であることに引け目を感じていたのだろう。
 流石に町中でエドガーを背負うのは目立つからと、町の入り口からはさりげなく手を繋いで歩いた。最初は照れ臭そうにしていたエドガーだったが、小石を踏む程度でも大きく身体がフラついたことをきっかけに、今は大人しくマッシュの手を握り締めている。
 頼られている事実と、繋いだ手の温かさがマッシュの頬を自然と綻ばせた。
 宿にて指示された部屋に入り、手を引いたエドガーを支えながらベッドに座らせて、マッシュは優しく肩に手を置いた。
「お疲れ様。まだしばらく不便だけど、とりあえずはゆっくり休んでくれよな」
「ああ……、すまん。お前に迷惑をかけるな」
「水臭いこと言うなよ」
 エドガーの肩を小気味好く叩いたマッシュは、二人分の荷物を部屋の片隅に置きに行く。しゃがんだ瞬間、自分の身体から汗と土埃のにおいを感じてマッシュは軽く肩を竦めた。
 まずはシャワーでも、とベッドを振り返ると、目を閉じたままの兄が僅かに持ち上げた手を頼りなく彷徨わせている姿が視界に映る。
 自分を探しているのだと気付いたマッシュは、慌てて傍に駆け寄った。
「兄貴」
 触れる前に呼びかけると、エドガーの表情がほんのり和らいだ。
 何も見えない不安は想像しているより色濃いのかもしれない。マッシュはエドガーの腕に触れながら隣に腰掛けた。
 エドガーが僅かに体重を預けて来る。さり気なく受け止めながら、マッシュはエドガーの力の抜き具合から眠気の到来を感知した。
「兄貴、先に風呂……」
 言いかけて、はたと気付く。
 何も見えない状態で、エドガーは一人で風呂に入れるだろうか?
 見えなくても手探りで何とかなるだろうという楽観的な声と、滑りやすい浴室は危険だという尤もな声が心の中でぶつかり合う。
 本音はそのどちらも建前で、風呂の介助という行為に邪な気持ちが見え隠れしているのが事実だった。
 仲間たちもいない、寂れた宿に二人きり──
「マッシュ?」
 黙り込んだマッシュを心配するような声でエドガーが呼びかける。ハッとしたマッシュは、小さく首を左右に振って頭を冷やした。
 ──いいや、何も見えなくて不安になっている兄に不埒なことをしてはいけない──
「兄貴、疲れただろ? 風呂入って来いよ、必要なら俺手伝うから」
 努めて明るい声でそう告げて、マッシュは見えないと分かっていながらエドガーを見つめて微笑んだ。
 エドガーは少し考える素振りを見せて、小さく頷いてから遠慮がちに首元に指先を当てる。
「……じゃあ、早速頼んでもいいか……?」
 その瞼は閉じていたにも拘らず、隣のマッシュを軽く見上げる仕草に上目遣いの青い瞳が甘えるように揺れた幻を見て、マッシュは思わず喉を鳴らした。


 エドガーの装備は数が多く、且つ複雑である。
 胸当てを締めている紐を解くと、緩んだ合わせ目から下着と素肌が覗く。
 胸当て、肩当て。両腕の籠手もひとつひとつ、次いで片足ずつブーツを引き抜く。
 ベッドに腰掛けるエドガーから差し出される脚を支えながら、マッシュは腹の底から悶々と湧き上がる劣情を必死に抑え込んでいた。
 されるがままのエドガーはまるで人形のように、マッシュに身を任せている。身体を動かさないエドガーから重厚な装備品をひとつずつ剥がしているという行為が、奇妙な背徳感を煽ってマッシュの胸を騒がせた。
 身体を護っているものを、この手で全て取り払う。絶対の信頼があるからこそ任された優越と、その信頼を揺るがす良からぬ妄想。
 マッシュは奥歯を噛み締める。
 取り外しの面倒な装備を全て外し終え、二箇所で結っていた髪を解き、下着とまではいかなくとも軽装になったエドガーの手を引いて、浴室へと案内をした。
 ちらりと覗いたバスルームは狭く、床も滑りにくい石材が敷かれていることを確認したマッシュは、この先は見えなくとも何とかなるだろうと判断し、そっとエドガーの背中に触れて優しく押し出した。
「ここからバスルームだよ。分かる、よな? 後は、一人で……」
 マッシュが最後まで言い終わらないうちに、振り返ったエドガーが探るようにマッシュへ手を伸ばしてきた。その指がマッシュの胸に触れると、まるで不貞腐れたかのように爪を立てて緩く引っ掻いてくる。
「手伝ってくれるって言っただろう」
 小さく唇を尖らせたエドガーの頬が薄っすら赤い。
 閉じた瞼の先に揃う睫毛が長いことに気を取られながら、マッシュは狼狽えて頭を掻いた。
「あ、う、うん、でも、必要ならって……」
「必要だ」
 エドガーがマッシュに身体を向けて一歩前に踏み出した。
 距離が思った以上に近かったのか、それとも最初から飛び込むつもりだったかは怪しいところだが、前のめりになったエドガーの身体をマッシュが慌てて抱き留めると、エドガーは難なくマッシュの腕の中に収まった。
 思わずギュッとエドガーを抱き締めてしまったマッシュは、胸に顔を寄せるエドガーが小声で囁いたのを聞き逃さずに済んだ。
「何も見えなくて、お前しか感じられない……もう、限界だ……」
 吐息混じりのエドガーの声に甘い目眩を感じ、マッシュの膝がかくりと折れかけた。慌ててエドガーを支え直しながら、照れ臭さに目を瞑ったことで、マッシュはエドガーの言葉の意味を理解する。
 胸の中の温もりと、解かれた髪から立ち昇る香り。薄い布地越しに伝わるエドガーの鼓動がマッシュの胸をノックして、自然と荒くなっていた息遣いにエドガーの深く長い吐息の音が混じった。
 闇の中、感じられるのはエドガーの存在だけ。この世界は二人だけのもの。
 一度短く息を吐き出したマッシュは、目を閉じたまま手探りでエドガーの顎を掴み、軽く上を向かせる。唇を寄せたが触れた場所は恐らくは頬骨の辺りで、肌を辿ってエドガーの唇の端を探し当てた時、待ち切れないとでも言いたげにエドガーから唇を押し当てて来た。

 闇を共有して強く抱いたエドガーの身体は、山道で背負っていた時より熱く感じた。

(2018.12.04)