耳の側を擦り抜ける風の音に混じって、砂利や小枝を踏み締めて駆ける足音が小気味好く響いている。
 頬に当たる冷たい風と、大きな背中から胸へ伝わる温かな体温。肩に添えた手にほんの少し力を込め、そっとうなじに顔を近づければ、短い尾のように結ばれた金髪の束から日向の匂いがした。
 ──マッシュに背負ってもらったのはこれが初めてかもしれない。
「……悪いな、マッシュ」
 独り言のつもりで呟いた言葉は、すぐ傍にある耳に届いてしまったらしい。肩が揺れたのはマッシュが小さく笑ったためだろう。
「なんてことないさ」
 軽い口調で返ってきた声は風に混じって溶けていく。
 目を閉じたまま、エドガーは気恥ずかしげに唇をほんの少し尖らせて、自分を背負って走るマッシュにすっかり身を預けていた。

 ほんの数秒、気を抜いた一瞬でまともに食らった状態異常の攻撃は、エドガーから視界を奪っていった。
 『暗闇』を受けたエドガーの目には何も映らず、闇の中に放り出されたに等しい状況となった。運が悪かったのは、エドガーとマッシュの二人だけで行動していたことと、二人が状態異常を治すアイテムを持たず魔法も習得していなかったこと。
 舗装されているはずもない山道の途中で目が見えなくなったエドガーは、まともに歩くことさえできなくなった。これでは探索は無理だと判断して下山することになったのだが、真の闇に包まれた状態では足を一歩踏み出すのも勇気がいる。
 見かねたマッシュがエドガーを背負って山を下りてくれたのだった。
 もうすぐ町に着くという頃、流石に背負われたままでは人目につくことを案じてエドガーはマッシュの背から下りた。その代わりに手と手を繋ぎ、優しく握り締められた手を引かれて前に進むことに、エドガーの胸がざわざわとさんざめく。
 何も見えない。光の粒すら見当たらない。失われた視覚の代わりに、繋いだマッシュの手の温もりが道標になってくれている。
 マッシュの手だけが頼りである今、ここまで無条件に信頼し切って身体を預けられる存在はマッシュしかいないのだと言うことを、エドガーは改めて思い知らされた。
 如何に親しい仲間たちでも、マッシュほどには全てを任せることはできないだろう。
 マッシュが手を引く方向へただ従ってついて行くことが、こうも安心できるものだとは──エドガーは頬の内側が仄かに熱を持ち始めたのを感じて、マッシュに気付かれないよう俯きがちに歩いた。
 町は小さく、唯一の道具屋は日の入りより早く店じまいを済ませていた。
 マッシュが店主を呼ぼうかと閉まったドアを叩こうとするのを止め、エドガーは今日はこのままこの町で休むことを提案した。
 不便ではあるが寿命が縮む訳でもない。見知らぬ町の道具屋に迷惑をかけるのは忍びなく、しかしこの状態で飛空艇までの道のりを歩くのは厳しいだろう。ずっとマッシュに背負われるのも気恥ずかしかった。
 取り急ぎの宿で空き部屋を確保し、マッシュに案内されて中に入る。ベッドと思われる物体が脚に当たったところで、マッシュが優しくエドガーの腰を支えた。
 ドキンと胸が音を立てる。
 ダンスを踊るように手と腰に触れたマッシュは、軽く力を込めてエドガーをその場に座らせた。ストン、と腰を下ろしたエドガーは、そこで一瞬離れてしまったマッシュの温もりが再び肩に降りたことにホッとする。
「お疲れ様。まだしばらく不便だけど、とりあえずはゆっくり休んでくれよな」
 マッシュの優しい声が耳に届くと、自然と身体から力が抜けるのがよく分かる──エドガーは声の方向に顔を向け、申し訳なさそうに笑った。
「ああ……、すまん。お前に迷惑をかけるな」
「水臭いこと言うなよ」
 恩着せがましさのない朗らかな口調で、マッシュが軽くエドガーの肩を叩いた。
 そのままふわっと手に羽が生えたように、肩を飛び去った温かさが名残惜しくてエドガーはつい身を乗り出しかけた。
 ガサガサと物音がする。マッシュが立てている音だということは分かるが、どの辺りの位置にいるのか距離感が掴めない。
 軽く手を持ち上げて空気を掻いてみた。空を切る手にマッシュの気配は感じられず、急に心細さが増したエドガーはマッシュを求めて更に手を伸ばす。
「兄貴」
 不意に声をかけられて、腕に何かが触れた。マッシュだと判断すると同時に安堵が胸に押し寄せて、エドガーは小さく息をつく。
 ベッドが軋み、温もりがエドガーの身体の左側に寄せられた。マッシュが隣に座ったことで左半身が触れ合う状態になり、エドガーは密かに心を弾ませる。
 視界を奪われるというのはこんなにも不便で不安なものなのか──身体の何処かが触れていなければ安らぎを得られない事態を呪い、同時に今二人でいる相手がマッシュで良かったと胸を撫で下ろす。
 マッシュでなければ寛ぐことなど出来はしなかっただろう。少しだけ体重をマッシュに預けようかとエドガーが首を傾けた時、
「兄貴、先に風呂……」
 そのまま眠ってしまうとでも思ったのか、慌てた様子で声をかけてきたマッシュがそこまで告げて口ごもった。
 それから沈黙が続く。次に続く言葉を待つうちに、エドガーは黙り込んだマッシュの表情が分からないことが不安になって来た。
「マッシュ?」
 思わず声をかけると、隣でマッシュが身動ぎする気配を感じる。空気が動いたことに小さく安堵していると、先程の沈黙がなかったかのようにマッシュは明るく口を開いた。
「兄貴、疲れただろ? 風呂入って来いよ、必要なら俺手伝うから」
 なんて事の無い提案に正直拍子抜けしたエドガーは、少し考える素振りを見せた。
 この目では娯楽は楽しめないし、マッシュの言う通り風呂を済ませて早めに休んだ方が良いかもしれない。目が見えなくとも浴室に連れて行ってもらえば手探りで身体を洗うくらいはできるだろうし、と入浴の手順を思い浮かべて、ふと眉を顰めたエドガーは首元に指を当てた。
 装備している防具は留め具が複雑な場所にある。戦闘中に外れたりしないようきつめに締めている箇所も多く、この目の状態では時間がかかるかもしれない──懸念事項を伝えるべく顔を上げたその先に、マッシュの顔が映らないことを物寂しく思いながら、エドガーは申し訳なさそうに口を開いた。
「……じゃあ、早速頼んでもいいか……?」


 カサ、カサ、と小さく紐が擦れる音にマッシュの浅い呼吸の音が混じる。
 時折首に触れるヒヤリとした感触はマッシュの指。やけに冷えたその指から、マッシュの緊張が伝わってくる。防具を外す、ただそれだけのことでマッシュが緊張する理由に、エドガーも勘付き始めていた。
 留め具が緩むと自然と口から息が漏れる。身体が身軽になる度に、空気に触れる肌の面積が大きくなっていく度に、鼓動がジワジワと速度を増していく。
 次に何処に触れられるのか、趣旨とは外れたふしだらな期待がチラチラと脳裏を掠めては、それを頭の中で抑え込んでいた。
 マッシュはひとつひとつ丁寧に、焦れったいくらい優しく防具を外してくれていた。胸当て、肩当て、両手の籠手も。マッシュの手で少しずつ外気に晒される肌が小さく粟立つのに、その皮膚の内側が火照ったように熱い。
 身を守るための防具が外されていく。その動作の全てを自分以外の人間に任せている。こんな無防備な姿を晒せる相手はマッシュしかいない。
 マッシュは時折喉に詰まったものを取り払うように小さく咳払いをし、あの大きな手と長い指でエドガーの防具と、身体に触れた。
 頼んではいなかったブーツさえマッシュの手によってゆっくりと引き抜かれた瞬間、えも言われぬ甘やかな激情がぶるりとエドガーの背筋を駆け下りていった。
 普段の夜だって、こんなに優し過ぎるほど柔らかにエドガーの肌に触れてはいないはずだった。見えないことで感覚が研ぎ澄まされているのか、マッシュの冷たい指が肌を掠っていく度、そこに火がつけられていくような気分になる。
 マッシュが今どんな顔でこの身を暴いているのか、たまらなく見たいのに闇が晴れることはない。聴こえる息遣いと揺らぐ空気からマッシュの表情を想像するが、闇に浮かぶ青い瞳が愛しげにエドガーを見つめる様はただの願望でしかないのかもしれない。
 何も見えない。感じるのはマッシュの気配だけ。
 もっと違う場所に触れて欲しい。もっと、熱い部分へその指を。
 この熱のこもった身体からいっそ全てのものを取り去ってくれないだろうかと、エドガーが心の内で密やかに願った時。
 ふいに手を取られ、不自然なほどにエドガーの腰がびくりと揺れた。
 軽く取られた手は、しかしそのまま掬い上げられて口づけを落とされるなどということはなく、やんわりと引かれて立ち上がることを促されたエドガーは、そのまま恐らくバスルームへ誘導されていることに隠しきれない落胆を見せた。
「ここからバスルームだよ。分かる、よな? 後は、一人で……」
 あろうことかエドガーの背中を急かすように押したマッシュに対し、エドガーははっきりと不満を顔に表していただろう。
 胸の燻りをどうにも消すことができなかったエドガーは、手探りで伸ばした手に触れたマッシュの肌を、物欲しげに爪で引っ掻いた。
「手伝うって言っただろう」
 頬が熱い。顔色に出てしまっているかもしれない。
 それでもエドガーは幼く突き出した唇を引っ込められず、マッシュがこの手を握り返してくれることを願った。
 空気が動く。マッシュが何か身動ぎしていることは分かるが、それがどんな動作なのか分からず不安と期待がエドガーの中でごちゃ混ぜになった。
「あ、う、うん、でも、必要ならって……」
「必要だ」
 まだたっぷりと戸惑いと躊躇いを含んだ声に焦れて、即座に言い返したエドガーはマッシュがいる方向へ一歩詰め寄った。
 その爪先がマッシュのブーツに当たり、勢いを抑えきれず前のめりになったエドガーの身体がすっぽりと大きな熱に包まれる。
 エドガーを受け止めた腕が思いの外強い力で薄着の身体を抱き締めて来たことで、エドガーは胸に宿る熱いものがしっかり炎となったことを認めなければならなかった。
 厚みのある胸に頬を寄せ、慣れ親しんだ匂いを吸い込んだエドガーは、自分でも驚くほど甘ったれた声で呟いた。
「何も見えなくて、お前しか感じられない……もう、限界だ……」
 懇願に近いその言葉を、マッシュはどんな表情で受け止めてくれたのか。
 短い呼気の音が聞こえた後、辿々しく触れてきた指がエドガーの顎を掬い上げ、頬に柔らかなものが押し当てられた。そのまま焦れったく肌を這う感触が待ち切れず、エドガーは自分から唇を寄せてマッシュに口付ける。
 肌に触れ合うマッシュの胸が忙しく上下していることに気づいて小さく微笑む。
 ──ああ、ここにも同じ熱が育っていた──
 闇の中で赤く光を放つ炎を互いの胸に見つけたエドガーは、激しくマッシュを打つ鼓動を唆すように、もう一度爪で炎の在処を掻いた。

(2018.12.10)