愛用のナックルを丁寧に磨き、鼻歌など歌いながら穏やかに過ごしていた昼下がり。 ドアをノックする音に何ら疑問を持たず、マッシュがどうぞ〜と軽い調子で答えたのに反し、何かにつっかえているはずもないドアがやけに重々しく開いた。 剣呑な気配に思わず顔を上げたマッシュの目と、ドアの隙間から神妙な顔つきでこちらを覗いているエドガーの目が合う。 「兄貴?」 「……おう」 歯切れの悪い返事をして、観念した様子でエドガーは滑り込むように室内に入って来た。ドアを閉める前に軽く廊下を見渡して、まるで人目を憚るように。 背中で手を組み、どこか落ち着かない様子のエドガーの頬は何らかの興奮で微かに上気している。 床に胡座をかいて足の間にナックルを置いていたマッシュは、重苦しく歩いて来た兄を見上げてニコリと笑った。 「椅子、使っていいよ。座って」 「ん……」 マッシュが指差した椅子を目の動きだけで確認したエドガーは、しかし椅子に足を向けようとはしなかった。マッシュの前に立ったまま、眉間に薄っすら皺を寄せて何事か困ったように視線をあちこちへ巡らせている。 マッシュが不思議そうに首を傾げると、ようやくエドガーはらしくなく上ずった声で尋ねてきた。 「あー……、ティナたちから、もらったか? チョコレートの……」 「ああ、チョコクッキーとチョコタルト? うん、さっきもらった。セリスとリルムと三人で作ったんだってな」 「そ、そうか、今日は、その……」 「バレンタインだもんな? わざわざみんなの分作ってくれるなんてな〜。でも、俺食べてないんだ」 「え?」 エドガーの眉が不穏に寄せられる。 「子供の頃は大好きだったけどさ、今はそんなにたくさん甘いもの食べらんないし。三人でどっさりくれるからさあ」 明らかに狼狽しているエドガーは、頼りなげに背中を緩く曲げてマッシュを見下ろし、恐る恐る口を開いた。 「お前……、甘いもの、苦手だったか……?」 「ん? いや、そんなことないよ。ただ、たくさんはもういらないかなって」 「で、でも、クッキーは小振りの袋だったし、タルトだって一切れだっただろう?」 「それでも結構な量だろ」 「そ、うか……」 明らかに顔色が悪くなったエドガーに気づいているのかいないのか、なんてね、と呟いたマッシュは大きな口で豪快に笑う。 「まあ、ホントは食べる前にガウがヨダレ垂らして見てたからあげちまったんだけどな」 「え……」 エドガーの口元が一瞬安堵に緩みかけた。 「でも甘いものあんまりたくさん食べないってのもホント」 「う……」 再びエドガーの表情が曇る。 背中側で手を組んだままのエドガーの二の腕が微かに震えていた。 先程までほんのり赤らんでいた顔を青く染めたエドガーを下から覗き込み、足の間にあったナックルを脇に避けたマッシュは、悪びれない笑顔でエドガーの背後を気にかけながら首を傾けた。 「……ところで、その背中に隠してるチョコ、俺にくれるんじゃないの?」 爆発したように、顔に留まらず首まで真っ赤になったエドガーが絶句する。 「な、んで、」 「え、部屋に入って来た時から箱見えてたぞ? その包装、サウスフィガロで人気の店のだよな、俺あそこのチョコレート大好き」 晴れやかに笑って両手を広げ、催促するように向けられたマッシュの手のひらへ、震える唇を噛み締めながらエドガーがチョコレートの箱を叩きつける。 手のひらが痺れるほどの衝撃にも拘らず、マッシュは目尻を下げてだらしなく頬を緩めた。 「これ、本命?」 「知らん!」 「兄貴からもらえるかなーって思ってたから、先にもらったやつ一口も食べずにガウにやったんだよ」 「知らん知らん!」 「俺も兄貴にチョコレートケーキ作ってあるよ」 「……それは食べる!」 そっぽを向いたエドガーの赤くなった耳を嬉しそうに眺めながら、マッシュは手の中にある青いベロアのリボンが掛けられた箱を大切そうに撫でた。 気難し屋の恋人と、チョコレートのように甘い時間を過ごすのはもうしばらく後のこと。 |