今口をつけているグラスにおかわりのワインを注いだ頃から、向かいに座るマッシュの目尻がとろんと下がって来ていることには気づいていた。
 エドガーはさりげなく時計に視線を走らせる。夜更かしが常であるエドガーにとってはこれからが本番と言っても過言ではないが、まだ空が白けたばかりの時刻に目を覚ます弟には辛い時刻なのだろう。
 マッシュが握るグラスの中身は半分よりやや少ない。これで最後にしようと声をかけることをエドガーが決めた時、恐らくは同じことを考えていたのだろう、マッシュはそれまでのペースを無視する勢いで残ったワインを一気に飲み干した。
「そろそろ寝るよ。目が開かなくなってきた」
 苦笑混じりのマッシュの言葉に微笑み、小さな欠伸を大きな手のひらで受け止める様に目を細める。身体は随分と大きくなって、こうして酒を酌み交わす歳になったというのに、向かいで目を擦る弟はいつまで経っても子供のような存在に感じてしまう。
 泣きべそをかいて自分の背中を追いかけ回していた少年はもういない──しかしエドガーはまだ、この逞しい男を前にしてもあの頃の面影を重ねて見ている節があった。
 見た目は大きく変わっても、中身は同じ人間である。甘ったれの可愛い弟は今もそのままエドガーの中に在った。
 几帳面に後片付けをしようと手を出すマッシュに首を振り、まだ一人で飲むからとエドガーは自らグラスにワインを注いだ。そして瞬きの回数が多くなったマッシュを軽く手であしらう。
「眠いんだろう。お子様はもう部屋で休みなさい」
 少し口調が揶揄に寄り過ぎたためか、マッシュの眠そうな目が不機嫌に据わる。その素直な感情表現にエドガーが思わず吹き出したせいで、余計にマッシュの眉間に皺が寄った。
「お子様はよしてくれよ。年は兄貴と同じなんだぞ」
「ああそうだな、全くもってお前の言う通りだ」
「馬鹿にした言い方やめろよ」
「馬鹿になどするものか。まあ、お前が将来きちんとレディをベッドに誘えるのか心配にはなるが」
「兄貴」
 マッシュが頬を膨らませる。その仕草のひとつひとつが幼い頃と変わらないせいで、エドガーの苦笑が止まらない。
「さあ、良い子は寝る時間だ。それともおやすみのキスがないと眠れないか?」
 くつくつと笑いながらグラスに唇をつけた時、マッシュがスッとソファから立ち上がった。そして二人を隔てるローテーブルを脇に押し退けて、無言で近づいてきたマッシュはエドガーが口をつけていたグラスをひょいと取り上げる。
 何をするんだと抗議の声を上げる前に、マッシュがテーブルにグラスを置いたその手でエドガーの顎に触れた。人差し指と親指で掴まれた顎先を、自らの意思ではなくくいっと上に持ち上げられ、エドガーの胸の奥がきゅっと窄んだと同時に身体が硬直する。
 気づけばエドガーの目の前に迫ったマッシュの眼差しは、先程まで眠気を堪えて垂れていた様子が嘘のようにスッキリと澄んでいた。部屋の灯りを背負って影を帯びた顔が徐々に近づいてくるのを、エドガーは事態の把握が遅れた呆けた表情で見守ってしまった。一度瞬きをした青い瞳に金色の睫毛が重なる様が綺麗だと思った瞬間、唇はやんわりと塞がれていた。
 どちらも目を開いたままだった。
 緩く押し当てられた唇が優しく肉を食むように、強張った唇を摘む。思わず一回り大きく開いた目を、涼しげなマッシュの瞳の青が射抜いた。
 抉じ開けるような強引さはない、しかしかくも唇は柔らかいものであったかと知らしめる静かで紳士的な口付けは、恐らくはほんの数秒程度だったのだろう。
 気づけばぼんやりと霞んだ目で、離れた唇の名残を惜しむように半開きにした口のまま、エドガーは立ち上がるマッシュを見上げていた。
 マッシュは無に近い表情でエドガーを見つめ、不意に口角を上げて大人びた笑みを浮かべる。
「おやすみ、兄貴」
 良い夢を、と嘯きながらテーブルに置いたグラスを再びエドガーの手に握らせて、マッシュは軽やかに身を翻した。思わずエドガーが顔を向けると、ドアノブに手をかけたマッシュは不敵でありながらも優しい微笑みで振り返り、手を振ってドアの向こうへ消えてしまった。
 しばらく絶句したエドガーは、困惑そのままに固まっていた。無意識に動かした手の中、揺れたワインがガラスの壁を叩いた感触にハッとして、反射的に中身を煽る。思ったより量が多かったワインが一気に喉を通り過ぎた後、酒に強いはずの身体が内側から燃えるように熱くなった。
 今のは、何だ。状況が理解できない。寝惚けていたのだろうか。そうだ、確かに眠いと本人が言っていた。だからお休みと告げたではないか。──まさかあれがおやすみのキスとでも言うつもりだろうか?
 乱暴にグラスを置こうとして空を切る。マッシュがテーブルを退かしたことを思い出し、赤い顔で舌打ちしたエドガーはそのままグラスを床に転がした。
 自由になった手で口元を覆うと、先程の感触が蘇ってくる。いたたまれなさに唇を噛み、両手で顔を掻き毟るようにして頬の熱を誤魔化した。
「ね、眠れやしないぞ……。どうしてくれるんだ……」
 初めて見た弟の男の気配に戸惑うか細い呟きは、誰もいない部屋の無音の空気にさえ掻き消えた。

(2019.6.22)