ひょっこり執務室に顔を出したマッシュは、エドガーが向き合う机の上をチラリと覗いて何事か考える素振りを見せ、小さな溜息と共に応接セットへ向かってソファにどかりと腰を下ろした。
 何か用があるのかと弟の行動を見守っていたエドガーは、ソファに座ったきりじっと動かないマッシュの後頭部を奇妙な目で見つめ、訝しんで首を傾げる。
「なんだ。何しに来た」
 思わず掛けたエドガーの声にチラリと振り向いたマッシュは、若干バツの悪そうな表情で小さく唇を開いた。
「待ってる」
「ん?」
「兄貴が王様終わるの、待ってる」
 エドガーは相槌も打てずに目をぱちぱちと瞬かせる。
「その横に詰んでる書類、これから片付けるやつだろ。それ終わったら、ちょっとだけ……俺に時間、頂戴」
 丸くした目をマッシュから机上の書類に向けたエドガーは、ようやく合点がいったとばかりに何度か小さく頷いた。
 成程、マッシュの衣装が着慣れた軽装ではなく、首の詰まった正装に近い衣服であるということは、ここに来る前に何かしらの面倒な仕事があったということだ。
 マッシュが国政に関わるようになったのはごく最近。のんびり修行だけをして日々を過ごす生活が居心地悪くなったのだろう、気にするなと宥めはしたがマッシュの表情が晴れるわけでもなく。
 エドガーとしては、無理に仕事と名のつく作業を担わなくともこの城はマッシュの生まれ育った家なのだから、ただこの国に居るだけの現状を何も引け目に感じる必要はないと考えていたものの、それで本人が納得するはずがないことも何かやらねばと焦れる気持ちも充分に理解できた。
 気まずさからこのまま城を離れるなどと言い出されては大変だと、マッシュの教育係として大臣を側につけ簡単な政務を任せるようになった。
 元々マッシュは子供の頃から頭の回転が速かった。その割に要領が良い子ではなかった。あの頃のままに成長したマッシュは、大臣の教え通りに事をこなすものの、慣れない政務に力を注ぎ過ぎて心身共に疲弊しているようだった。
 今も軽くこちらに向けた顔色が優れない。目の下に薄っすらクマができたマッシュなど、戦いの最中では見ることはなかった。
 マッシュの思惑を理解したエドガーは、微かな苦笑いを浮かべながら書きかけの書類への記入を急ぎ、最後のサインを記し終えるとペンをペン立てに戻す。
 そして腰で椅子を押しながら身体ごとマッシュに向けて、控え目に両手を広げて微笑んだ。
「……では、王様を五分休業しよう。おいで」
 その言葉にハッと顎を上げたマッシュは、ほんの少し眉尻を下げた照れ臭そうな顔をして、それでも素直に立ち上がってひょこひょことエドガーの元へ歩いて来た。
 椅子に座ったまま胸を開いたエドガーの前でマッシュは片膝を床につき、心臓のある位置に顔を押し付け腕をエドガーの背に潜り込ませてくる。ぎゅう、と胸にしがみつかれて、エドガーは目尻を下げて頬を緩めた。
 身体は大きくなっても甘えたがりの弟は昔のまま。疲れた時に頼ってくるだなんて可愛らしいではないかと、まるで熊のぬいぐるみを抱き締めるようにマッシュの頭頂部に顔を寄せて心地良く目を閉じた。
 優しく胸に抱くことでマッシュが癒されるのなら、五分程度王様をサボったところでバチは当たらないだろう。それにこうしていると、暖かさで自分自身も癒される──マッシュの髪に顔を埋めてエドガーが逞しい背中をそっと撫でた時。
 胸の真ん中に額を擦りつけていたマッシュの顔の位置が、じりじりと上がって来た。鎖骨に鼻を押し付け、やがて肩に頬が擦り寄せられて、気づけば首筋に唇が柔らかく当たっている。
 おや、とエドガーの思考が思わず停止する。これは少々行き過ぎた戯れではないか? 目を開き、疑問を口に出せないままに固まっていると、マッシュは啄ばむような口づけをエドガーの首から耳から頬にまでたくさん降らせ、お互いの鼻先が触れる距離でジッと青い目を真正面から合わせて来ていた。
 甘ったれた上目遣いの奥に切なく揺れる大人の男の色気が覗いて、キュウと胸を窄ませたエドガーが導かれるようにもう一度目を閉じると、普段より乾いた唇が焦れったいほどゆっくりとエドガーの唇を塞いで来る。
 押し当てられた唇の隙間から、ほんの少しだけ差し込まれた舌先がエドガーの歯の表面を撫でた。触れたところから少しずつしっとりと濡れていく口づけは長く、控えめだった舌が段々と遠慮を無くして上顎を撫でた瞬間、ゾクリと肌を粟立てたエドガーは掴んでいたマッシュの背の布地を固く握り締めた。
 一度空気を吸い取られるように音を立てて離れた唇が、角度を変えてより深く降りて来る。こうなるとエドガーも黙って硬直している場合ではなく、いつの間にか椅子の座部に膝を乗せてエドガーに覆い被さっているマッシュに向かって懸命に顎を上げ、その太い首に縋り付いて激しい口づけに応えずにはいられなかった。
 癒してやろうと胸を貸したはずが、甘ったるいキスに煽られて夢中にさせられているとはどういう状況だろう。ましてやここは執務室。いつ家臣がドアをノックするか分からないこの部屋で、こんなにも情熱的で不道徳なキスに溺れているという事実が、余計にエドガーの情欲を掻き立てた。
 いいじゃないか、自分だって肩の凝る事務処理に追われて溜息の出ない日はない。少しくらい王様稼業を休業して、熱い口づけに耽ることでこんなにも互いに癒されるのだから、寧ろ効率が良いのでは──
 唇を重ねるだけでは物足りなくなって、その先を強請るように絡めた舌をより深く引き込もうとした時、ところがどうしてマッシュの舌が奥に引っ込んでしまった。うっとりと閉じていた瞼を抉じ開けてしまうほど驚いたエドガーは、その眼前で名残惜し気に眉を垂らす情けないマッシュの顔を呆然と眺めた。
「……五分、経っちまった」
 残念そうなマッシュの呟きにハッとしたエドガーは、自分があからさまに落胆した顔を晒していたことに気づいて薄っすら頬を赤らめる。
 何という、律儀で素直で融通の利かない男だろうか! ──下唇を緩く噛んだエドガーは、どうしてもマッシュの首に回した腕を解くことができなかった。
 軽く顔を背けて小さな咳払いをひとつ、それから横目にマッシュを見据え、決まり悪く尖らせた唇を開いて呟く。
「……延長、してもいいぞ。王様休業」
 聞こえるかどうかのギリギリの声量でも、マッシュはしっかりと拾ってくれたらしい。目を輝かせたマッシュは、エドガーに同じく顔を紅潮させてゴクリと喉を鳴らした。
「……どのくらい?」
 マッシュの期待を込めた囁きは掠れ、エドガーの背中をぞわりと擽ったいものが撫でて行く。ぎこちなく視線を泳がせたエドガーは、その逸らした目線で机上の書類を睨んでボソリと零した。
「……、一時間」
 その言葉を聞くや否や、マッシュは返事もせずにエドガーの身体を抱え上げ、荒々しく大股でソファまで急いでその癖酷く優しくエドガーをその上に下ろし、素早く向かったドアの鍵を掛けてから乱れた呼吸で戻って来た。
 そのはち切れんばかりの感情を隠そうともせずに自分の元へ向かって来るマッシュを待ち侘びて、エドガーは五分ぽっちじゃ癒しの足しにもならないと心の中で言い訳をする。──本音を言えば、本日はこのまま王様を閉店してしまいたい──そこを何とか踏み止まっての一時間、寧ろ褒められるべきだと開き直って。
 再びマッシュの腕にその身を捉えられたエドガーは、あと一度くらいなら再延長も許されるだろうかなどと考えながら、大きな身体を受け止めた。

(2019.10.21)