「一ヶ月かあ……」 紛れもなく独り言である呟きとはいえ、空になった二脚のカップと少しだけチョコレートが残った皿を乗せた低いテーブルを囲んで、囁き声も聞こえる距離で呟き主のマッシュと向かい合うエドガーはその言葉を聞き流すことが出来なかった。 苦笑をこぼし、ソファから立ち上がったエドガーはティータイムの後片付けを進めるマッシュを優しく見下ろす。 「なんだその気の抜けた声は。しっかり任務を遂行してもらわないと困るぞ」 やや戯けた口調で窘めるエドガーを上目遣いに見上げ、マッシュは軽く寄せた肩を小さな溜息と共にストンと落とした。 「長いな、って思ってさ」 「やることはたくさんある。あっという間に過ぎるだろう」 「そうかもしれないけど」 不貞腐れたように唇を尖らせて、マッシュはカップをトレイに乗せながら余っていたチョコレートをひとつ摘む。口の中で転がすことで膨らむ頬を眺めながら、エドガーはやけにゆっくりと瞬きをして唇を薄く開いた。 「モブリズにはまだ人手が必要だ。お前には同行する兵たちの管理も任せている。報告書に一ヶ月子供たちと遊んで終わりましたなんて書いてきたら、ただじゃあ済まんぞ」 軽い口振りではあったがほんの少し語尾を強調したエドガーに対し、クロスを畳み終えたマッシュが顔を上げて数秒目線をじっと合わせる。僅かな無言の後、マッシュは軽く口元に笑みを乗せて頷いた。 「勿論、務めは果たしてくるよ」 「頼んだぞ」 マッシュが片付けを終えたのを見届け、エドガーもまた品良く微笑んで執務机へと顔を向ける。一歩踏み出しかけた爪先は、続くマッシュの言葉で一瞬宙に浮いた。 「ティナに会うのも楽しみだし」 すぐに打つべきだった相槌は喉に絡まり、エドガーは唇を薄く開いたまま詰まり気味の呼気を小さく吐き出す。 ともすれば不自然な間が空くかと思われたが、マッシュがそんな気配など感じもしなかったように言葉を続けた。 「兄貴も一緒に行けりゃなあ。前の時もティナが会いたがってたんだよ」 エドガーは瞬きをする程度の僅かな時間に目を細め、浮いた足を地につけた頃にはいつも通りの穏やかな眼差しで口を開いていた。 「俺も残念だ。お前に代わりにそこに座ってもらいたいくらいにね」 「それは困るけどさ」 「くれぐれもよろしく伝えてくれ。レディに会いに行くんだ、花束の一つでも用意しろよ、それくらいは気を利かせろ」 「全然考えてなかったよ。そういうのは兄貴と違って得意じゃないんだぞ」 「これから覚えて行くんだな」 「面倒だよ……だったら次は兄貴も行こうぜ」 「暇が出来たらな」 さらりと答えたエドガーは、そのまま足を進めて執務机に添えられた椅子の背に手を掛ける。腰を下ろして小さく息を吐くと、マッシュに向かって上げた顔は引き締まった王のそれだった。 休息の時間が完全に終わりを告げたことを理解したのだろう、マッシュもティータイム用に持ち込んだ茶器を全てトレイに乗せ、チョコレートが二つ残った皿のみを手に持ってエドガーが向かう机上に置いた。思わず目を丸くしたエドガーへ、はにかんだ笑みを見せたマッシュは踵を返して戸口へと向かう。 「俺も明日の支度して来るよ。また夕食の時に」 「ああ、しっかりな」 片手にトレイ、もう片手を軽く上げて振ったマッシュは笑顔で部屋の外へと消えて行った。同じ顔で手を持ち上げマッシュに応えていたエドガーは、ドアが閉まった二秒後に目をスッと細める。 深く長い溜息をついた。無意識に強張っていた身体の緊張を解くように、しかし四肢の脱力とは裏腹に涼やかだった眉間に微かな皺が寄る。 長い戦が終わり、モブリズに残って子供達と生きる道を選んだティナを国を挙げて支援し始めてから早数年。指導者がいない若者ばかりの町であるため──表向きにはそれで通しているが、最たる理由はまさしくティナがいるからに他ならない。 世界から魔導の力が消えたとは言え、ティナが幻獣の血を引く存在であることに変わりはない。旧帝国の残党に関するきな臭い噂は絶えず世界の統率者の元に届けられ、エドガーはティナを何らかの形で悪用せんと試みる者がいつ現れるかと警戒を続けて来た。 人間として生きる彼女の中に眠る力を狙う者への牽制、それがフィガロがモブリズに目を掛ける真の理由だった。 エドガーはマッシュとティータイムを過ごす直前と同じく羽ペンを手に取る。書きかけの書類にサラサラと続きを記しながら、伏せ目がちに文字を睨むその眼差しはどこか落ち着きがなく見えた。 息を殺すに近い張り詰めた空気を漂わせ、エドガーは黙って手を動かし続ける。無音の世界に少しずつ呼気の音が混じり始めた頃、文字を追っていたエドガーの視点はじわじわとブレ始めて宙に浮いたようになっていた。 定期的にフィガロから兵と物資を送り町の復興を助けることで、ティナの人間としての新しい人生を守る。密やかに暮らして行きたい彼女にとっては必ずしも良い方法ではないのかもしれない。しかし大々的に行わなければ本来の目的が果たせない。ティナの心に負担をかけることは本意ではないため、計画には細やかな気配りが必要だった。 とりわけ人選には気を配らねばならなかった。 同行する兵士達に的確な指示を出せる統率者であり、子供達が多い町に威圧感を与えない、そして万に一つも旧帝国と通じる可能性が皆無である人物。自身が赴けば問題は発生しないが、この多忙の身で長期間国から離れることは今のエドガーには選択できない。 人を見る目に絶対の自信を持っているエドガーであっても、慎重にならざるを得なかった。もしもがあってはならない──絶大な信頼に応え得る人物はエドガーの中にただ一人しかいなかった。 初めてマッシュにモブリズ行きを打診した時、実直で責任感の強い弟は任せてくれとエドガーの前で胸を叩いてみせた。 モブリズの復興、ティナの護衛、全てで結果を出すことを約束してマッシュはこれまでに五回海を渡った。行く度に滞在期間が延びていることに多少の引っ掛かりが無い訳ではなさそうだったが、それでも先程のように文句も言わず任に就いてくれている。 それにマッシュでなければならない理由はもう一つあった。 ふと、ペン先から黒いインクが滴り落ちて書面に染みを作る。 一瞬ハッと目を見開いたエドガーは、すぐに不機嫌そうに瞼を下ろして染みを睨み、溜息を吐きながらペンをペン立てに戻した。 書きかけの紙を乱雑に丸め、新しい紙を用意するために彷徨った手が、思考を遠くに飛ばすと共にその動きを止めて空に浮く。そのまま数秒後に力なく下ろされた。 染みを見つめる青い瞳に靄がかかる。焦点の合わない目は何かを捉えている訳ではなく、視界に存在しない幻影をぼんやりと眺めているかのようだった。 かつて愛を知らないと悩み苦しんだ少女は大人の女性に成長し、慈愛の心を手に入れた。今はまだ子供達を庇護する立場だが、いずれ違う形の愛の存在にも気づく時が来るだろう。 あんなにも純粋で人の心に寄り添うことができる素晴らしい女性が、子供たちへ無償の愛だけを与え続ける生涯で良いのだろうか。身近にある優しさに胸を鳴らし、守られる喜びに身を委ねることで得られる安らぎがあることを知るべきではないか。 一人の女性として幸せになって欲しい。保護者気取りで何年も見守ってきた立場の人間として、心からそう願う。あの気高い女性を包むに相応しい相手と、もうひとつの愛を育んで生きてもらいたい。 誰でも良い訳ではない。真っ直ぐに澄んだ眼差しを正面から見返せる清廉さを備え、彼女の持つ優しさと強さを受け止めてそれ以上に返すことができる相手でなければ諸手を挙げて賛成することは出来ない。 傍にいれば自ずと気づくだろう。人の心の機微に添い、損得を考えずに誰かのために行動することを厭わない男が近くに居ることに。 爛漫な性格でありながら細やかな心遣いを見せ、自然と周りの人間を笑顔にさせる。強い正義感を常に胸に置き、悪いものは悪いとはっきり示すことができる人間は意外に少ない。たとえ行動が空回りしようとも、受け取る側に不快な思いを残さない天性の人徳がある稀有な存在。 感情豊かで激しやすい面があるのは否めないが、単純に気が短い訳ではない。情に厚く、人の喜びや悲しみや怒りを素直に受け止めて正面から返してしまうほど純粋なだけだ。目まぐるしく変わる表情の、とりわけ抜けるような青空にも似た笑顔にこれまで何度救われてきただろう。 マッシュならば。 マッシュならば、何の不安もなく任せられる。マッシュなら、決して傷つけることなく、あの逞しい腕でただ一人の人を生涯守り抜くことができるだろう。それはきっと呆れるくらい一途に、泣きたくなるくらい直向きに。 異性に対して積極性がないところは長所でも短所でもあるが、どれだけ奥手な男でもティナという女性の素晴らしさは傍にいれば分かるはずだ。共に旅をしていた頃の子供の姿ではない、対等な立場の人間として自然と惹かれていくだろう、己に甘えを許さず鍛え上げたその身体で守るに相応しい相手だと。 そのままモブリズで暮らすと言い出しても止めるつもりはない。十数年前に交わした自由の約束は反故にした訳ではないのだ。懸念していたティナの未来に寄り添うことを選ぶのなら、これほど喜ばしいことはない。 絵に描いたような幸せな夫婦になれるだろう。ティナは過去に何度か仲間たちに振舞ってくれた焼菓子を小振りのテーブルに運び、匂いに釣られて修行から戻ってきたマッシュの足元には彼と同じ青い目の可愛らしい子供が纏わりつく。軽々と子供を抱えるマッシュが笑顔を向けるとティナも美しく微笑み返す光景が容易に浮かぶ。 『そう』なるのが一番いい。 そうなることが、彼らにとって何よりの幸せになる。 似合いの二人だと思う。だからこの任はマッシュでなければならなかった。身内の贔屓目を抜きにしてもあれほど誠実で信頼できる男はいない。 あの朴念仁はなかなか関係を進展させられていないようだが、いい年をした男なのだから気持ちに気づけば腹を括るだろう。改まった報告を受けるのはあと何度目の任務の後になるのか、果たして今回の一ヶ月後か──…… あの優しい眼差しで将来を誓った相手を見つめ、想い、華奢な身体を胸に抱いて、照れながらも愛を囁く、それは決して遠くない未来に見なければならないシーン。ケフカを討つ旅で再会して以来、常に傍に在った暖かな陽だまりのような存在が、守るに相応しい相手の隣に立つ日がやって来るのだろう。 血の繋がりだけでマッシュは随分と尽くしてくれた。城に戻ってからもそこに居るだけで心の安寧をもたらしてくれた。澄んだ真っ直ぐな瞳、低く穏やかな声、肌寒い夜に大きな手のひらで肩に触れてくれた温もり。優しい言葉ひとつで胸のつかえを取り除き、明日もあの笑顔に逢えると思うだけで驚くほどすんなり眠りにつくことができた。 十年もの間離れて暮らしていながら、子供の頃と変わらず自然と隣に立ってくれた。会わない間に良くも悪くも大人になった立場に欠片の失望も見せず、無条件に信じて慕ってくれた。あの小さかった手足が見違えるほどに逞しく成長するには、気の遠くなるような努力が必要だっただろう。城の外での苦労は計り知れないが、それをおくびにも出さず恨み言の一つもなく、ただただ真摯に支えてくれた暖かな眼差し。 陽に焼けた髪、無骨な指、広い背中、汗の匂いに混じって仄かに香るエドガーの香水の移り香──…… それら全てが手の届かない場所へ行ってしまう。 ガシャンと耳障りな音でハッと目を開いたエドガーは、伏すように両腕を投げ出したために倒れた瓶からインクが黒く広がる無残な机上を呆然と見下ろした。 床でクルクルと回る陶器の入れ物の傍にチョコレートが二つ落ちている。甘い香りを放つ艶やかな黒に歪んだ目を向けたエドガーは、インクで汚れた手を固く握り締めて項垂れた。 ──いつの間に、こんなに好きになっていたんだろう。 垂れた頭はしばしの間ピクリとも動かなかった。 |