大きな身体を任せるには多少不安を感じる小振りのソファに遠慮なく凭れ、後方の窓を仰ぐように振り返ったマッシュは星の輝く夜空を見上げて溜息をついた。 「また溜息ついてる」 笑い混じりの声に顔を向け、湯気が立つカップを二脚持ったティナを認めて苦笑を返す。ソーサーなどない、手渡しで差し出されたカップを受け取ったマッシュは、中身が何かを確認することなく一口呷った。 「エドガーに会いたいの?」 揶揄を一切含まずに当たり前のように尋ねながら隣に腰を下ろすティナの横で、マッシュは口に含んだ紅茶を吹き出さないよう慌てて手を添えた。もごもごと噎せながら、液体でありながら喉に詰まりかけた紅茶を飲み下し、ふーっと大きく肩で息を吐く。 「大丈夫?」 まるで悪びれずに首を傾げるティナをほんの少し睨みながら、マッシュは僅かに汚れた口元を手の甲で拭った。 「いきなり兄貴の名前出すから」 「だって、マッシュが寂しそうにしてる時はいつもエドガーのこと考えているでしょう?」 微かな笑みを湛えてはいるが、至って真面目に返すティナに降参したマッシュは、薄っすら赤くなった頬を誤魔化すために唇を軽く尖らせた。そして改めてカップに口をつけ、今度はゆっくりと熱い紅茶を含んで飲み込む。 「どうしてるかな、って思ってさ」 「もうすぐ一ヶ月だもんね」 「ちゃんと飯食ってるかなあ」 「ふふ、子供に言う台詞みたい」 今度は素直に笑ったマッシュは、温められた吐息を短く吐き出して何処か遠くを見るように目線を彷徨わせた。時折思い出したように瞬きで揺れるマッシュの睫毛を横目で見ながら、ティナも控え目にカップの紅茶を一口飲む。それから少しの間を空けて、顔を上げたティナは小さくもはっきりとした声で問いかけた。 「エドガーに……想いを伝えないの?」 反射的に口を開きかけたマッシュは、しかし喉まで出かかった声を押し殺し、しっとりと引き締めた唇の裏側を軽く食んで眉間に微かな皺を刻む。 ティナがふざけていたり面白半分で尋ねている訳ではないことをよく理解しているマッシュは、返す言葉を慎重に選んでいた。 ティナはもうずっと前からマッシュの隠された想いを知っていた。 人が世の中で円滑に生きるための立場や建前を知らずに育ったティナには、愛情にタブーがあることが分からない。それ故に色眼鏡なく接することで、他の人間では気づき得なかったマッシュの僅かな感情を読み取って結論を出した。 マッシュはエドガーのことが好きなのね、とこれっぽっちも可笑しなことではない口振りで尋ねられた時、マッシュはティナの真っ直ぐな視線から誤魔化しで顔を背けることができなかった。しかし、墓まで持って行くつもりだった気持ちを吐露した瞬間に知らず強張っていた肩から力が抜けたのも事実だった。 誰かに話を聞いてもらうことで軽くなる心もあるものなのだと、それ以来マッシュはモブリズを訪れる度にエドガーに対する恋の話をティナにぽつぽつと聞かせている。ティナはマッシュの想いを茶化したりしない、口の硬い理解者だった。 黙ったままのマッシュに業を煮やしたのか、ティナはもう一口紅茶を含んでから気難しげに眉を寄せる。 「……分からないわ。どうして伝えてはダメなのか」 マッシュはティナに軽く顔を向け、苦い微笑みを見せる。初めてティナに見抜かれた日にも同じことを言われたなと思い出しながら、今度はどう返すかまだ言葉を探しあぐねていた。 あの時はあれこれと取り繕った。男同士であること、兄弟であること、エドガーが王であること……誰もが仕方ないと納得するだろう言い訳のどれも、彼女には理解出来なかった。何故それが理由になるのかティナには本心から分からなかったのだ。 「……私。みんなと旅をして、モブリズの子供たちと出会って、愛するって気持ちがどういうものか分かるようになったと思ったわ。でも」 若干声を落としたティナの目は、カップの中で揺れる波紋を苦々しく見つめている。 「全ての人を同じ強さで愛することは出来ないことも知ってしまった。どうしても許せない人もいる……。みんなと過ごして、誰かを愛することが出来るってどれだけ特別で大切なことなのか、とても強く……感じたの……」 マッシュは目を細め、無言のまま頷いた。 マッシュを振り返ったティナは、マッシュが僅かに怯むほど真っ直ぐな眼差しで視線を合わせてきた。それは何とか言い訳を探そうとするマッシュの胸の内まで覗き込むような目だった。 「その特別な気持ちを、ずっと隠したままでいいの? この先他に愛する人が現れないかもしれないのに?」 嗾けるつもりのない、純粋な疑問を口にしただろうティナを前に、マッシュはほんの少しだけ表情を曇らせる。しかしすぐに自嘲気味な笑みと共に小さく息を吐き、ゆっくりと首を横に振ってみせた。 「他の誰かを好きになることなんてないよ。兄貴だけだ」 「だったら……」 「俺は、兄貴が幸せならそれでいいんだ」 ティナの追求を遮るように呟いたマッシュは、哀しそうに眉を下げるティナに飽くまで微笑む。少し乾いていた唇をカップに寄せて湿らせ、気持ちを切り替えるように顎を上げて天井を眺めた。 「俺の幸せは、兄貴の幸せだから。兄貴が笑っていてくれたら、それだけで俺はいいんだ」 「……マッシュ」 「兄貴が幸せなら、……俺じゃなくていいんだ。兄貴を幸せにしてくれる人なら、俺は」 「……マッシュが、エドガーを幸せにするのではダメなの……?」 マッシュが瞬きをする。 気づけばマッシュに向かって身を乗り出していたティナは、欠片も冗談めかした素振りを見せずに心からの疑問をマッシュに問いかけていた。彼女の真剣さを眼前にすることで、マッシュは余計に胸の中に空いた穴を風が通り抜けて行くような感覚に襲われて、頼りなく笑うことしかできなかった。 「俺じゃ無理だ」 「どうして?」 「……俺は兄貴の弟だ。悲しませたくない」 「どうして悲しむと思うの?」 「そういうものなんだ」 この言い方は卑怯だと分かっていながら、あえてマッシュはティナから逃げた。「そう」だと言われてしまえばティナはその真偽を見抜けず黙るしかない。 力なく頭を垂れるティナの髪飾りを見下ろしながら、マッシュは心の中で詫びた。マッシュ自身、正当な理由など本当は無いことを承知していた。男だから、血が繋がっているから、そう言った世間で言う常識というものを盾にして、現実から目を背けていたかった。 ──だってもしも、あの優しい微笑みが己を見て歪むようなことがあったら。 嫌がられたら、気味悪がられたら、拒絶をぶつけられるだけならまだいい、この想いのためにあの人が胸を痛めて一人で苦しむようなことがあったら。 死ぬまで守ると密かに誓った存在から疎まれる日が来てしまったら。涼やかな声で二度と名前を呼ばれることなく、姿すら目にすることが出来なくなったら。 愚かしくも、今の関係から形が歪に変わることがただただ怖いのだ──緩く唇を噛んだマッシュは、すでに湯気が立たなくなった紅茶の表面に薄っすら映る渋い表情を睨みつける。 離れている間は、噂を聞くだけでも胸が躍った。再会してからは顔を見て言葉を交わせる喜びに震えた。長い旅を終えて城で暮らすようになり、だんだんと欲張りになっていく自分に気づいていた。 顔を見たい。声を聞きたい。誰よりも近くで支えたい。こうして離れている時間が酷く長く感じるのは、日に日に想いが大きくなっているからなのだろう。 食事の時に交わす何気ない会話と穏やかな眼差し、午後のティータイムで見せるほんの少し疲れた笑顔、眠る前のおやすみの優しい囁き。遠くから眺めているだけで良かったはずが、もっと傍にいたい、触れてみ たいと貪欲になっていく。でも、肩を冷やさないようにとストールを掛ける時、あの艶やかな髪にひっそりと触れていることに気づかれるのは怖い。 これ以上想いを膨らませたくはない。希望と裏腹に好きな気持ちは止められない。 せめて迷惑にだけはならないよう、抱えた想いを決して表に出さないよう努めた。ティナに伝えた言葉の通り、想い人には尊ぶべき立場がある。いずれ妃を娶って世継ぎを儲けるだろう兄を困らせることはしたくない。 幸せになって欲しい、その思いに偽りはない。誰より幸せになって、笑顔が翳ることがないよう心から願っている。 その時隣にいるのは自分ではないだろう。それでもいい。兄にとっての一番でなくとも、自分の中には兄に勝る存在はない。その決意を握り締めて、黙って守り支えたい。 だから、この想いは胸にしまったままでいい。 すっかり冷めてしまった紅茶の残りを一気に呷ったマッシュを、ティナは寂しそうな目で見つめていた。少し迷った素振りを見せ、それからマッシュを気遣うように上目遣いに小首を傾げながら、柔らかさの中にも芯のある声で静かに呟いた。 「エドガーは……マッシュに愛されていることを知ったら、きっと喜ぶと思うわ」 思わずマッシュは口を開いた。が、次いで言葉は出なかった。 咄嗟に浮かんだのは否定の言葉だったが、それを口にしたくないという気持ちが遮った。戸惑って半開きの口を僅かに動かしたマッシュは、心の奥底に無理やり眠らせている小さな希望を胸に認めて、無言の微笑みを返す。 その時、扉から小さな物音がした。同時に顔を上げたマッシュとティナの視線の先、細く開いた扉の向こうで眠そうに目を擦る少女がぼんやりと立っていた。 「まあ、起きちゃったの?」 即座に立ち上がったティナの声は優しい。少女は相変わらず両手で交互に目を擦りながら、小さくおしっこと呟いた。ティナはマッシュを振り返って目配せし、マッシュも事態を把握して笑顔で手を上げる。 ティナが少女手洗いに送りに行った後、静かになった部屋でマッシュは空のカップを両手に包み、いつしか前のめりに丸くなっていた背をソファの背凭れにどしりと預けた。そしてティナが来る前と同じように、窓を仰いでガラス越しに星を数える。 よく眠れているだろうか。砂漠の夜は冷える。帰ったらまた身体を温めるハーブティーを就寝前に届けよう。朝は目覚めのコーヒーにミルクを添えて。昼過ぎのティータイムはお気に入りのチョコレートに合う紅茶を淹れよう。 いつもいつまでも穏やかに健やかに、幸せに笑っていて欲しい。心からそう願う。本当に、ただそれだけで良かった、のに。 ──いつの間にこんなに好きになっていたんだろう。 瞬きの合間に見える星は、小さくも煌びやかに夜の空を飾っていた。 |