城から持ち込んだ仕事も区切りがついたことだし、茶でも一杯もらおうかと向かった飛空艇のキッチンにて、ドアノブを握った時だった。 何やら中から声が聞こえて来る。一人の声は聞き間違うはずもない、血を分けた弟のマッシュと、あと一人……柔らかで可愛らしいこの声は恐らくティナだろう。 楽しげな気配に二人の会話に対する好奇心と僅かな嫉妬を感じて、エドガーはややせっかちにドアを開いた。中にいる二人が笑顔を見せる様を期待して。 しかし、予想に反してキッチンに向かって立っていたマッシュとティナは振り返って驚いた顔を見せた。それどころかマッシュがあからさまに焦った顔になり、大袈裟な手振りでこちらに来るなと言わんばかりに近付いてくる。 「な、なんだよ兄貴、何しに来たんだよ」 マッシュの言い草にムッとして、不機嫌さを隠さずに言った。 「茶でも飲もうと思っただけだ。お前こそ、こんなところで何してるんだ」 ティナと、と付け加えるのを迷ってやめたエドガーがマッシュを睨むと、マッシュは言葉に詰まってわざとらしく目を逸らす。 「大したことじゃないよ。お茶なら俺が後で持ってくから!」 「お、おい、何するんだ」 「とりあえず部屋で待っててくれ!」 マッシュに無理矢理押し出されたエドガーは、ドアが閉まる寸前困ったように微笑んでいるティナを見た。 バタンと閉められたキッチンのドアの前で怒りに燃えたエドガーは、彼らしからぬ見目悪い大股で八つ当たりするように床を蹴り進んだ。 「酷い話だと思わないか。おや、割といい銘柄揃ってるじゃないか」 「いちいち俺のところに愚痴りに来るのやめろ。あと勝手に棚漁るな。いつの間に隠し場所見つけやがった」 こめかみに青筋を立て、秘蔵のワイン棚の前にしゃがみ込んで中を物色する不届きものの背中を膝で小突く。 「不敬だな。フィガロ城内なら捕らえられているぞ」 「それが人の部屋で人のワイン盗ってく奴の台詞か」 「ワインだって味の分かる人間に飲まれた方が喜ぶだろうさ。……大体、マッシュが悪いんだ」 不貞腐れた表情で振り向くエドガーを、セッツァーは心底嫌そうな顔で見下ろした。これっぽっちも同情的ではないセッツァーを尻目に、エドガーの口から次から次へと不満が溢れ出す。 「私を除け者にしてティナと仲良くするなんて。あんなあからさまに追い出すことないじゃないか。何しに来たんだ、なんて言い方。兄に向かって!」 「あーはいはい、分かったからそのワイン返せ」 セッツァーが伸ばした腕から逃れるようにひょいと立ち上がったエドガーは、ワインを抱えながらうろうろと室内を徘徊し始めた。 「そりゃあティナは可愛いさ。可憐で儚げで魅力的だ。マッシュは私よりも可愛いティナと一緒にいる方がいいんだろう」 「俺だっててめえの相手させられるよりティナと一緒にいる方がずっといいな」 回り込んだセッツァーをひらりと躱し、マントで包むようにワインを隠すエドガーにセッツァーが苛立ちを隠さず舌打ちする。 「マッシュなんか、男らしくて強くて優しくて見た目も声も良くて……、困る、あいつは悪いところがない……」 「もうそのワインやるから帰ってくんねえか」 げんなりしたセッツァーはエドガーを追うのを諦め、それをいいことにエドガーは部屋の中央で大袈裟に嘆き出した。 「マッシュはいい男過ぎる。あいつがその気になったら誰だって惹かれてしまうだろう……私はちょっと見目が良くて頭が切れて権力がある程度の男だから、あいつに捨てられても文句は言えない……」 「頭がわいてるの間違いじゃねえのか」 「私に不満があるなら言ってくれたら努力はしたい。それともマッシュはもう聞く耳も持ってはくれないんだろうか? なあ、君はどう思う?」 「とにかく出てけ」 セッツァーに部屋から放り出されたエドガーは、唇を尖らせて固く閉ざされた部屋のドアを睨みつつ、しっかりとワインを抱えて自室へ戻って行った。 憂さ晴らしもあってセッツァーには冗談めかして話してしまったが、それにしてもマッシュが隠し事をするなんて──改めて一人になると先程のマッシュの態度がはっきり思い起こされて、エドガーは分かりやすく落ち込んだ。 子供の頃、マッシュの世界にはエドガーしか存在しないかのように、マッシュは何もかもをエドガーに話して思考すら共用していた。流石に子供の時のようにいかないのは分かるが、あんな風に拒絶されたのは初めてで心のダメージは大きい。 再会後のマッシュはエドガーに愛を誓ってくれたが、長い旅で多くの経験を経たことにより気持ちが変わった可能性はある。世界にはエドガーの他にもたくさんの人がいることにマッシュが気付いたのだとしたら──エドガーが部屋の中央で俯き立ち竦んでいた時、ドアをノックする音が聞こえてきた。 返事をするのが億劫で無視していると、ドアは勝手に開く。控えめに開いたドアの隙間から顔を出したマッシュを見て、エドガーは泣きたくなるのをグッと堪えた。 マッシュは心成しかホッとした表情で、するりと室内に入って来る。その手にあるトレイと、湯気を立てたスープカップに気づいてエドガーは眉を寄せた。 「良かった、戻ってた。少し前に来た時いなかったから……お茶、あげられなくて、ごめんな」 バツが悪そうにそう言ったマッシュの言葉で、エドガーはそういえば茶をもらいに行ったのだったと自分の目的を思い出した。マッシュが留守中に訪ねて来ていたと思うと、セッツァーの部屋で無駄な時間を使ったことが悔やまれる。 「それから、……さっき、ごめん。キッチンで……」 眉尻を垂らしたマッシュを前に、エドガーに緊張が走る。つい今まであれこれ悪いことを予想していた内容を、実際にマッシュの口から聞くことになったら──顔を強張らせたエドガーに対して、マッシュは何故かスープカップを差し出した。 「これ。飲んでみてくれよ」 予想外の勧めに面食らったエドガーは、戸惑いを隠せない眼差しでマッシュを見ながら恐々カップを受け取る。そのまま飲むのは行儀が悪いと、机に置いて椅子に座り、渡されたスプーンを使って一口含んでみると。 「……、これは」 美味い、と思うと同時に覚えのある味だということに気がついた。そして何処で飲んだのか思い出した時、マッシュがはにかんだ笑顔で「どうかな」と尋ねてきた。 「この味、この前の食堂の……」 エドガーが驚きの表情でそう返すと、マッシュが満足気に笑って歯を見せる。 「前の町で飲んだスープ、兄貴が珍しく美味いってお代わりしてただろ。同じ味で作れないかなって、研究してたんだ」 エドガーが瞬きをする。──そういえば先程のキッチンでこのスープの匂いがしていた。 「あの時一緒にいたのガウとティナだったろ。ガウは美味けりゃなんでも食っちまうから、ティナに味の再現を協力してもらってたんだ。……兄貴を驚かせたくて」 「マッシュ……」 ハッとしたエドガーの前で照れ臭く頭を掻いたマッシュは、再び申し訳なさそうに眉を下げた。 「喜んでもらいたかったのに、いくら内緒にしたかったからってあんな風に追い出して……ごめん。兄貴を傷つけたかもって、俺……」 そこで声を詰まらせて苦しげに顔を歪めたマッシュを見て、エドガーは慌てて立ち上がる。マッシュの肩に手を添え、首を横に何度も振った。 「俺のためにしてくれたんだろう。そんなに気にしないでくれ……お前のスープ、とても美味いよ」 「兄貴……」 「……すまない、マッシュ」 「? 何で兄貴が謝るんだ?」 不思議そうに瞬きするマッシュにそれ以上何も言えず、エドガーは誤魔化すためにマッシュの厚い胸に飛び込んだ。驚いたような仕草の後、マッシュが優しく抱き締めてくれる。 ──我ながら馬鹿げた被害妄想だった。今夜はマッシュとゆっくりワインを飲みながら二人で過ごそう……── これからは何があってもマッシュを信じようと胸に誓って、エドガーはせしめたワインの味にも期待しながら、スープのスパイスが染み込んだマッシュの服の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。 |