マエド365題
「16.その体のどこに」
(使用元:TOY様 http://toy.ohuda.com/ ご自由にどうぞ365題)


 余計な肉どころか必要な肉すら足りていないような細腕だった。ぶるぶると音が聴こえて来そうな、とても見ていられない震えっぷりだ。
 両手を地につき肘をゆっくりと曲げゆっくりと伸ばす、腕立て伏せを一回するのに可哀想になるくらいに震動する腕にちらちらと横目を向けながら、エドガーは格好だけの読書を続けていた。
 額にびっしりと玉の汗。文字通り歯を食い縛りながらようやく二桁に入ろうとする腕立て伏せを続けるマッシュは、先月から格闘家のダンカンを師事し始めたばかりだった。
 生来身体が弱く、月に数度は寝込むことが当たり前になっていたマッシュが少しでも逞しくなるようにと父王が決めたことだが、マッシュも自らやりたいと申し出ていたのはエドガーには意外でもあり、納得でもあった。
 稽古は週に二回。本日は稽古日ではなく、おまけに今は機械工学の授業と楽器のレッスンの合間の貴重な休息だと言うのに、マッシュは部屋に戻っても一人で体力づくりに勤しんでいる。自由時間を満喫しているエドガーが後ろめたくなるほどの集中ぶりだった。
「はあ、はあ、はあ」
 呼吸の荒さがエドガーを不安にさせる。無茶をしてまた寝込んだりしないだろうか。
 去年の晩夏だったか、中庭で二人はしゃいで汗に濡れたまま遊び続け、マッシュが数日高熱を出したことがあった。
 あの時、こっそりマッシュの部屋を覗きに来たエドガーは、熱が今晩中に下がらなければ覚悟するよう医師が父に話していたのを聞いてしまった。幸い熱は下がったが、それ以来マッシュが寝込むと言い様のない不安が胸を襲う。
「……レネ。そろそろ休んだら?」
 思わずエドガーが声をかけた。二人でいる時は秘密のミドルネームで呼び合うのが常ではあったが、呼びかけには親しみだけではなく憂いも帯びていた。
 振り向こうとしてバランスを崩したのか、ふいに肘がかくりと折れてマッシュの身体は肩から床に落ちた。
「レネ!」
 思わず本を放り投げた。
 駆け寄るエドガーにマッシュは小さくだいじょうぶと答えつつも、肩を下に横たわった体勢からごろりと仰向けになり、天を仰いではあはあと喘いで動けなくなった。
 呼吸するのが精一杯のマッシュを見下ろし、エドガーは汗で濡れた額に厭わず触れる。熱くはあるが病的な発熱ではないことにホッとする。
 いつか倒れた時のように顔が青白かったり唇が紫色になっていないことを確認したエドガーは、小さく溜息をついてマッシュの隣に腰を下ろした。
「やりすぎじゃないか? ダンカン師匠にだっていきなり強くはなれないって言われたんだろ?」
 エドガーが窘めると、マッシュは床に投げ出していた手のひらでギュッと握り拳を作った。
「……おれ、早く強くなりたい……」
 荒い呼吸の合間に呟かれた嘆きを聞き、エドガーも眉を下げた。汗でぺたりと貼りついたマッシュの前髪をちょいちょいと指先で分けてやりながら、この小さな身体のどこにこれほどの闘志があるのかと感心する。熟れた果実に似た緋色の頬は、マッシュの命の輝きそのもののようだとエドガーは思った。
 体格も体力もマッシュはエドガーに劣る。生まれついた差なのだなら仕方がないとは言え、エドガーなら同じことをしてもバテるどころか難なくこなしてしまうだろう。だからと言ってエドガーはマッシュを馬鹿にする気にはなれなかった。
 マッシュの忍耐力もひたむきさもエドガーが敵わないものだった。辛いと思ったらすぐにやめて他の要領の良い方法を見つけるエドガーに対し、マッシュはどれほど苦しいことでも目標をやり遂げようとする。悪く言えば愚直なのだが、エドガーはそれがマッシュの長所だとよく分かっていた。
 努力が報われないこともあるだろう。しかしこの一途で必死な弟が運命に弾かれるとは許し難いことだった。報われなければならない。少女めいたかんばせを険しく歪めたエドガーは、日頃の理屈っぽい思考を放棄して強く断定した。
 マッシュはエドガーの冷たい指先に触れられて気持ち良さそうに目を閉じている。その睫毛の先が細かに震えるのを可愛らしいと思いながら、エドガーは口を開いた。
「……レネはすごいな。レネはきっと、俺よりずっと強くなるよ」
 マッシュがゆっくり瞼を開き、青い目に驚きと動揺を混ぜてそわそわと揺らした。
「ロニより……、なれたら、すごいね」
 懐疑的というより、信じてもいないことをお愛想で返しただけのようだった。それまで澄んでいた瞳に自虐的な憧れが含まれたのを見て取って、しかしエドガーの言葉に迷いはなかった。
「なれるさ。俺よりカラダもでっかくなるぞ」
「想像できないや」
「俺なんか片手でひょいって持ち上げてさ!」
「そんなに?」
 大袈裟な表現にマッシュは笑った。最初こそ冗談に対するお手本の反応として笑ったが、エドガーにまるで茶化した素振りがないことを感じ取ったのだろう。
 濁りかかった目は綺麗な青を取り戻し、真っ直ぐに光が差していた。
「じゃあ、もっとがんばらないと」
 控えめではあるが力強い口調だった。エドガーの口元が自然と綻ぶ。
 話しているうちにいつの間にか呼吸が落ち着いていたマッシュは、傍のエドガーが驚いて仰け反るほど元気良く起き上がった。
 鍛錬を再開せんとやる気充分なマッシュを見て呆気に取られたエドガーは、不服そうにマッシュの袖口を引っ張る。休憩時間は残り十分もない。
「がんばるのはまた今度にしてさ、少しくらい一緒に遊ばないか……? たいくつでしょうがないんだ……」
 照れ臭そうにそっぽを向きつつ唇の尖ったエドガーの横顔を見て、マッシュはぱちぱちと瞬きをした。それからパッと頬を薔薇色に染めると、屈託無く歯を見せて破顔した。




「……で、実際されてみて、どう?」
 太く筋肉質な腕に腰を抱え上げられて、頭ひとつ分マッシュを見下ろす格好になったエドガーは、悪戯っぽく眉を持ち上げてからウィンクして答える。
「そうだな……、王様の気分、かな?」
 二十年後の兄弟は同じ顔を見合わせて笑った。

(2020.01.22)