マエド365題
「19.肩に積もる淡雪」
(使用元:TOY様 http://toy.ohuda.com/ ご自由にどうぞ365題)


 重く厚みのある扉を開くと、外から入り込む冷気が一瞬にして全身を冷やす。外気の冷たさに室内が如何に温かかったのかを思い知らされたエドガーは、ふうっと吐いた溜息が煙のように白い靄に変わった様に見惚れながら一歩外へ踏み出した。
 扉を閉めると、屋内の温もりが完全に遮断された世界がそこにあった。曇天の空を軽く見上げ、ひらひらくるくると舞い降りる綿雪に目を細めてから、エドガーは辺りを見渡す。
 ナルシェは傾斜の険しい都市だった。街の入り口から奥に進むにつれて勾配が急になり、街中には至る所に階段が設置されている。
 エドガーたちが滞在している宿から少し離れた高台にマッシュの姿を見つけた。そこに行くための階段の箇所を確認し、また白い靄を吐きながらエドガーはゆっくりと歩き出す。
 チラチラと降ってくる雪も気になるが、何より足元を気遣わなければならない。各所に設置された機器から噴き出す蒸気のお陰で、ナルシェの大地は完全に雪に覆われている訳ではなかった。それで油断をしていると、地面と同色の氷に足を滑らせて無様にひっくり返ることになる。実際にエドガーも仲間の前で失態を見せた。
 注意深く階段を上り、マッシュが立つ場所と同じ高さに辿り着く。山肌に近いそこは完全に雪に覆われていて、エドガーが歩くとキュッと雪を踏み締める音がした。そこで初めてマッシュが振り向く。
 来たのがエドガーと分かると、マッシュはにっこりと笑った。開いた口からふわりと白い息が広がり、マッシュの赤くなった鼻を一瞬隠す。
「そんなところで突っ立って何をしていたんだ」
 エドガーも微笑を浮かべてマッシュの元へ歩いて行った。街中より雪道の方が幾分歩きやすかった。
 フード付きのマントをつけていたマッシュの傍に辿り着いて、その肩にふんわりと積もった淡雪を払ってやる。この積もり方からしてしばらくここに立っていたのだろう。
 残念ながら追い越されてしまったこの身長では、頭の雪を払うには軽い背伸びが必要になる。エドガーはその時始めて足の指先が思った以上に凍えていることを知った。
 エドガーがまごついている間に、マッシュは自ら頭を振って雪を振り落とした。そうしてハッと短く呼気を吐いて、大気に煙る白い息を赤らんだ頬で眺める。
「凄いよな、吐いた息が真っ白だ。昼間なのに」
「それをずっと観察していたのか?」
「うん、なんか……空気の刺さって来る感じとか、コルツ山の早朝に少し似てるけど……雪が音もなく降って来て、風でひらひら舞うのが綺麗で」
「……お前はナルシェは初めてだったか」
 マッシュの赤くなった鼻の上に雪が一片舞い降りる。擽ったそうに顰める横顔をまじまじと眺めて、エドガーは改めて十年前と比べてマッシュが大きく成長したことを実感した。
「兄貴は?」
「俺は即位後に何度か。非公式だがな」
「そっか。雪ってこんな風に降るんだなって、ちょっと感動した」
 砂漠で生まれ育った二人にとって、この土地の景色は馴染みのないものだった。マッシュの上気した頬を眩しく見つめ、エドガーは再びマッシュの肩の雪を払う。
「感動もいいが、そろそろ中に入れ。風邪を引くぞ」
 本題を切り出したエドガーに、マッシュがにんまりとした笑みを見せた。
「兄貴。俺、もう五年は風邪引いたことないんだぜ」
「ほう」
 エドガーは素直に驚いた。記憶の中のマッシュは、月に数度は寝込む病弱な少年だった。身体もエドガーより小さく、こんな風に見上げることになるなど再会するまで想像もできなかった。
 コルツ山で出逢ってから今まで、マッシュが如何に強く逞しく成長したかは充分過ぎるほど理解できた。しかし離れる前の十七年で染み付いた親心ならぬ保護欲は、そう簡単に消えるものではない。
 身体の芯まで凍えるような場所にマッシュが居たら心配になるし、何度でも肩に積もる雪を払ってやりたくなる。幼い頃に自分の後ろを付いて回っていた小さなシルエットを思い出して、エドガーは物寂しさにほろ苦く微笑んだ。
 マッシュはエドガーを見て不思議そうに瞬きをしたが、不意ににこりと笑ってエドガーの両肩に積もった雪を払い落とした。エドガーがハッと顔を上げる間に、マッシュはエドガーの髪についた雪も優しく払う。
「俺、十年前よりずっと強くなったけど。もっともっと強くなって、兄貴を守ってみせるからな」
 そう言って纏わり付く雪片を振り落とすようにマントを取り払ったマッシュは、筋骨隆々とした肌を晒す軽装のまま技の構えを取ってみせた。
 眼差しが光る。冷えた空気が凛と澄む。唇から棚引く白い呼気が肌から薄っすら立ち昇る湯気に混じり、降りしきる雪は盛り上がった肩に触れた途端に溶けて消えた。
 指先まで気を込めた構えの美しさは芸術的にさえ見えて、エドガーは感嘆に目を細める。もう、あの小さな弟は何処にもいない。
 ここにいるのは強い身体と意志を持った立派な戦士である。気迫溢れるマッシュの成長した姿を感慨深げに見つめたエドガーは、やがて安堵したように微笑んだ。
「……頼むぞ」
 エドガーの言葉に、マッシュが構えを解いて笑う。
 マントを拾い上げ、雪まみれのそれを振るマッシュの逞しい背に触れたエドガーは、トントンと優しく叩きながら帰路を促した。
「お前が強くなったのはよーく分かったが、このままここに居ると俺が凍えちまう。滑りやすい道を恐々辿ってここまで来たんだ、帰りは手を引いてくれるだろうな?」
 ウィンクしたエドガーへ、マッシュが破顔して歯を見せる。
「仰せのままに」
 マントを自身の肩にかけ、エドガーの肩の雪をもう一度払ったマッシュは、その手でエドガーの手を取る。二人とも指先はひんやり冷えていた。
「ああ、すっかり冷えたな。早く宿に戻ろう、ここではワインを温めて飲むらしいぞ」
「へえ、案外イケるかもな」
「部屋で一杯やるか」
「昼間っから?」
「たまにはいいだろ」
「だな!」
 深深と降り続く淡雪は二人の声をも白く覆い隠す。
 開いた扉の隙間から溢れる温かな空気が二人を包んだその後は、世界に再び雪の無音が訪れた。

(2020.01.25)