「では、覚えた字を使って言葉を書いてみましょう」 乳母の合図で机に向かっていた幼い双子の兄弟は、ペンを手にして紙の上へめいめい何やら書き始めた。 いつもの講師が急病で休みになり、厳しくも気心の知れた乳母が代わりを務めるとあって、兄のエドガーは普段より浮ついた様子だった。何を書こうか迷って、紙の上に大きく「くるみ」と書き、弟であるマッシュの大好物の文字を上手く書けたことに一人満足する。 隣のマッシュに見せてやろうと、乳母の目を盗んで二の腕を突いた。 「レネ、なにかいた? あのさ、ロニはね……」 「みちゃだめ!」 エドガーが言い終わる前に、いつもは大人しく朗らかなマッシュが彼らしからぬ剣幕で制止の声を放ち、身体を盾に紙をエドガーから遠ざけた。 予想だにしなかったマッシュの反応にエドガーはただ目を丸くし、理不尽に拒まれたという思いが段々と膨らんで、眉間にくっきりと皺を刻み唇を尖らせることになった。 「まあ、どうされましたか」 異変に気付いた乳母が近付いてくる。自分に非など無いと信じて疑わないエドガーは、マッシュを指差して乳母に訴えた。 「レネが、みせてくれないんだ。ロニはみせてあげようとしたのに!」 糾弾されたマッシュは、悪戯が見つかった時のように背中を丸めて乳母を見上げる。それでも紙をエドガーに見せまいと隠し続けている様が、余計にエドガーを苛立たせた。 「あら、珍しいこと。マシアス様、何を書かれたのですか」 乳母が腰を曲げて優しく尋ねると、マッシュはチラリと横目でエドガーを見てから、腕で壁を作って飽くまでエドガーには見えないように紙の面を乳母へと向けた。 エドガーの頭にカッと血が上ったのと、マッシュの書いた文字を見て乳母が苦笑したのは同時だった。 「では、わたくしがお預かり致しましょう」 乳母はマッシュから紙を受け取り、ご丁寧にエドガーに書かれた文字を見せないようにして持参していたテキストの束に挟み込む。ホッと表情を和らげたマッシュの隣で、膨れっ面のエドガーが口を大きなへの字に曲げてペンを机に叩きつけた。 マッシュはビクリと肩を竦ませ、乳母が驚いて振り返る。 「もうレネとあそんでやらない! きょうも、あしたも、そのつぎもずっとずっとあそばない!」 マッシュの顔が驚愕を表したまま強張った。 「エドガー様、そんなこと仰らずに」 「もうきめた! あそばない!」 すっかり臍を曲げたエドガーを見て、乳母が溜息をつく。 こうなるとエドガーの機嫌がすぐには治らないことをよく理解していた乳母は、硬直したまま目にいっぱいの涙を溜めているマッシュを眺めて再び嘆息し、今日の授業はここまでにしましょうと告げた。 テキストを小脇に抱え、コツコツと靴音を響かせて廊下を進む乳母の、その数メートル後方。 時には大きな花瓶の影に、時には槍を構えた鎧の傍に、エドガーは身を隠しながら乳母の後を追う。 乳母が抱えているあのテキストの束の中に、マッシュが何かの言葉を書いた紙が挟まれている。何が書かれているのか必ず暴いてみせると意気込んで、エドガーは壁に張り付きながら乳母が私室に入る瞬間を見守った。 ものの数分で乳母は部屋から出て来て、再び靴音を鳴らしてまた違う何処かへ去って行く。その手に先程抱えていたテキストがないことを確認したエドガーは、乳母の気配が完全に消えてからそうっと部屋に近づいた。 乳母は鍵を掛けてはいなかった。忍び込むのが容易な反面、すぐに戻って来るかもしれないという恐怖感に怖気付いたが、マッシュが拒絶した時の顔を思い出して怒りに心を燃やしたエドガーは、辺りを軽く見渡してから静かにドアを開いて室内へ滑り込んだ。 いつでも後ろを付いて回って、何でもエドガーの言うことを聞いていたマッシュが、あんな風に嫌がるだなんて。ぜったいゆるさない、と呟いたエドガーは、背後のドアの外から音がしないか警戒しながら部屋の中を見渡す。 テキストの束はあっさり見つかった。乳母はそれらをただ机上に置いて部屋を出たらしく、捜索に時間をかけずに済んだことにホッとしながら、エドガーは紙の束を手に取る。 何やら長々と難しい文章が書かれたテキストを何枚かめくると、先程マッシュが言葉を書いたと思われる紙の端が見えた。エドガーから隠すために握り締めたのか、くしゃりと皺がついている箇所を睨む。エドガーはしばし逡巡し、それでもえいっと紙を引き抜いた。 もし悪口なんかが書かれていたら、もう一生口きいてやらない──脅しをかけているのは自分であるというのに、もしも本当にそうなってしまったらどうしようと不安に思いながらも引っ張り出した紙には。 『ろに すき』 記されていた下手くそな文字をひとつずつ読んで、エドガーは呆けた顔で立ち尽くし、そしてポッと赤面した。 怒ったような困ったような、眉を忙しく上下させた戸惑いの表情でしばらくの間紙を見つめ、ハッとしたエドガーは慌てて紙を束の中に押し込む。 まだ赤い頬に手のひらで触れながら、来た時より音を気遣う余裕もなくバタバタと乳母の部屋を抜け出した。 まだドキドキと大きく脈打つ胸を押さえながら戻ってきた自室の前、扉を背にちょこんと座り込んでいる小さなシルエットを見つけて、手のひらの中で心臓がひとつ大きくドキンと跳ねた。 立ち止まったエドガーに気づいたマッシュが、すでに溢れそうなほど目に涙を溜めておずおずと立ち上がる。 「……ロニ……」 呼び掛けられて、何と返事すべきか迷う。 「まだ……おこってる……?」 エドガーは複雑に眉を寄せた。先程見てしまったマッシュの書いた言葉を思い出し、照れ臭さでそっぽを向いた仕草を、マッシュは悪い方に受け取ったらしい。 とうとうぽろぽろと涙を零しながら、縋るような濡れた目をしてエドガーの元へふらふらと歩いて来た。 「もう、あそんで、くれない?」 マッシュの泣き顔はいつもエドガーを落ち着かない気分にさせる。エドガーは気まずそうにへの字に曲げた口のまま、マッシュに向き合い自らの袖で濡れた頬をごしごしと擦ってやった。 「……あそぶよ」 袖をどけた後ろから、涙でキラキラ光るマッシュの目が大きく見開かれている。 エドガーはほんのり赤い頬で、マッシュからやや目線を逸らして続けた。 「レネが、かくすから、……ちょっとだけ、いじわるいったんだ」 「……ごめんね……」 マッシュが項垂れたのを見て、エドガーが慌てて首を横に振る。 「もう、おこってない」 「……ほんと?」 「うん。おこってないよ」 「ほんとに、またあそんでくれる?」 「……うん」 マッシュは涙目のまま笑顔に変わり、まだ照れ隠しで目を泳がせるエドガーに飛びついて来た。自分より少しだけ小さい身体をフラつきながらも受け止めて、エドガーはぽんぽんとマッシュの頭を優しく叩く。 それから手を繋いで、部屋で何をして遊ぼうかと二人はいつもの調子で笑い合った。 つい先程までのむしゃくしゃしていた気持ちが、楽しい気持ちですっかり上書きされていく。──マッシュには申し訳ないけれど、あの言葉を見に行って良かった、とエドガーはふわふわ浮かれた気分で擽ったそうに笑った。 あれを予行練習として、マッシュが改めて書いた心のこもったラブレターをエドガーに渡すのは、もうしばらく後のこと。 |