マエド365題
「28.こんな時しか素直になれない」
(使用元:TOY様 http://toy.ohuda.com/ ご自由にどうぞ365題)


 戸口で受け取った書類をパラパラとめくり、内容というより枚数を確認したマッシュは大臣に向かって小さく頷いた。
「分かった。後で見ておくよ」
 声色は穏やかではあったが、覇気がなかった。大臣は遠慮がちにマッシュを見上げ、それから目線をドアへと移す。
「……マッシュ様。神官長様の仰る通り、少し休まれた方が宜しいかと」
 控えめな声で囁いた大臣の神妙な顔を見たマッシュは、小さく微笑む。そして首を横に振り、大丈夫、と呟いた。
「今の俺は体力だけはあるからな。なんて事ない」
「しかし、もう何日もまともに眠っておられないのでは」
「平気だ。……俺は、兄貴が回復するまで離れるつもりないよ」
 唇は笑みの形を作っていたが、眼差しに強い圧を込めたマッシュを前に、大臣が言葉を詰まらせた。小さく息を吐き、深々と頭を下げた大臣の立ち去る後ろ姿を少しだけ見送って、マッシュはするりと室内へ戻る。
 渡された書類はテーブルに滑らせ、すっかり定位置となったベッドサイドの小さな椅子に腰を下ろして、マッシュはベッドに横たわる青白い寝顔を見つめた。
 乱れた金髪が散り、形の良い眉は苦しげに歪んでいる。薄く開いた唇からは浅く短い呼気が漏れ、頻回の呼吸によってその表面は乾いて鱗のようにヒビ割れていた。紫がかった唇の色の悪さを険しい眼差しで見据えながら、マッシュはゆっくりと奥歯を噛み締める。
 一月前からは想像も出来ない、衰弱したエドガーの寝姿だった。
 エドガーが病に伏してしばらく経った。原因不明の高熱が続き、まともに食事が摂れずみるみる痩せて寝たきりになったフィガロの国王を救うべく国中の医師が尽力したが、特効薬も見つからず出来ることは対処療法のみ。
 マッシュに出来ることは、時折夢現に目を開くエドガーへ水分やスープを与えたり、汗に濡れた身体を拭いたり着替えさせる世話くらいで、それはマッシュでなくとも良い役目であり、また恐らくは何かの感染症である可能性も危惧されて、こうして四六時中傍にいる必要はないことを何度も周囲に説得されながら、しかし片時も離れることはなかった。
 熱が出て日が浅いうちは大袈裟だと揶揄するエドガーの笑い声が聞けていたのに、ここ数日はまともな会話も交わせてはいない。マッシュが話しかけてもろくな返事すら返らなくなり、医師に最悪の事態も覚悟をしろと言われたのは昨日のこと。
 先程大臣が持ってきた書類にも関連する内容があるはずだった。マッシュが出席を拒否した会議の議題は国王が崩御した場合の対応について。現時点で次期王位継承権を持つマッシュではあるが、例え仮定の話でもそんなことを考えたくなど無かった。
 静かな室内に荒くも弱々しい呼吸の音が響く。自然と苦渋に歪む表情のまま、マッシュは瞼を閉じたエドガーの微かに揺れる睫毛を見つめた。
 そっと毛布の下に手を潜らせ、エドガーの手に触れる。指先は酷く冷たく感じた。自身の熱を分け与えるように摩りながら、眼差しを努めて優しく細めたマッシュは小さく口を開く。
「……昔、よく兄貴が寝込んでる俺の枕元に来てくれたよな。ばあやに見つからないように、ベッドの下に隠れたりして、出来るだけ長く一緒にいてくれた」
 エドガーの閉じた瞼が意識的に動く気配がないか、注意深く見つめる。僅かな反応でも漏らすまいと、極力瞬きを抑えながらマッシュは続けた。
「眠い目擦って、絵本読んでくれたよな。俺、めちゃくちゃに嬉しかった。兄貴がいつも傍にいてくれるのが、何より嬉しくって、早く元気になろうって……」
 かろうじて笑みを保っていたマッシュの下唇が小刻みに震え始める。目線だけは真っ直ぐにエドガーの青白い顔を捉えて、力のない冷たい指先を強く握り締めた。
「なあ……、兄貴」
 唇が、瞼が、指先がほんの少しでも振れはしないか、どんな些細な動きでも見逃さないように、目を凝らして伺っていた視界がぼやけてくる。マッシュは肩口で目元を拭い、もう一度兄貴、と呼びかけた。
「子供の頃の約束、覚えてるか? ……大人になったら、ケッコンしようって」
 一度短く息を吐いて、真上を向いたマッシュは何度も瞬きをした。視界を晴らしてから再び顔を向けたエドガーに動きは見られなかった。
「俺が熱出す度に言ってくれたの、俺、ずっと覚えてたよ」
 言葉に合わせてエドガーの手を握る力を変え、身体を傾けたマッシュは口元をエドガーの耳に寄せた。
「大人になったら、言おうって、思ってたよ。……今まで、言えなかったけど」
 喉の奥から込み上げてくるもので声を詰まらせたマッシュは、しばし唇を噛んで小刻みに震える肩の動きを抑えようと努める。そうしている間にも再び世界を濡らして霞める目をギュッと瞑り、頭を強めに振って目尻から転がり出た水滴を跳ね飛ばした。
「今度はちゃんと、言うから。兄貴が元気になったら、……目を覚ましたら、必ず言うから」
 冷たい指を手の中に包み込み、動かないエドガーの耳の傍で震える言葉を懸命に注ぐ。
「好きだって」
 伝える度に耳をそばだて、何か返ってくる声が無いかを注意深く探りながら。
「あの頃からずっと、好きだったって」
 閉じられた瞼が微かに動きはしないか、薄っすら開きはしないか瞠目する。睫毛の隙間に青の色がチラリとでも覗いてくれたら、握り込んだ指先がピクリとでも動いてくれたら、どんな些細な反応でも返してくれたならと強く込めたマッシュの願いは、終ぞ叶わなかった。
 横たわるエドガーはただ浅い息を漏らすのみで、マッシュの呼びかけに言葉を返すことはおろか、その耳に声が届いているかも定かではなかった。
 エドガーの姿を注視していたマッシュの視界は大きく滲み、嗚咽に近い息を吐いた後は瞳から溢れ出たものでその輪郭もぼやけて分からなくなった。
「元気になって……、俺に、プロポーズさせてくれよ……っ」
 項垂れた額が触れたエドガーの肩は硬く骨張って、石のように動かなかった。



 ***



 ゆっくりと廊下を進む。手にしたトレイの上にはコゼットを被せたティーポット、それからティーカップが二客。茶菓子のクッキーとキャンディも添えて。
 迷いなく辿り着いたドアの前に立ってノックを二回。何やら聞こえていた話し声が途切れて、どうぞ、とよく通る返事が返って来た。
 マッシュは静かにドアを開ける。室内ではドアの外に漏れていた会話が再開されていた。
「とにかく無理はなさらないでください。病み上がりのお身体だと言うことをお忘れなく」
「そんなに無理しちゃいないさ。ホラ、マッシュが来ただろう。ティータイムでゆっくり休むさ」
 執務机に向かい、傍に立つ大臣の渋い顔をよそに戸口に立つマッシュへ笑顔を向けたエドガーは、ひらひらと手を振った。マッシュは苦笑してドアを閉め、執務室手前のローテーブルに持ってきたトレイを置いた。
「そうではなく、もう少し執務時間を抑えてですね……」
「大丈夫、骨身に沁みているよ。絶対に無理はしないと約束する」
 穏やかでありながらきっぱりと告げたエドガーの生気に満ちた眼差しを見て、大臣はひとつ溜息をつく。そしてエドガーに深々と礼をして、退室前にマッシュの前でも立ち止まり、「どうぞごゆっくり」と念を押すように伝えてそこでも深く頭を下げた。
 大臣が去った執務室で、マッシュはいつものようにティータイムの準備を始める。クロスを敷いてカップをソーサーに乗せ、コゼットを外したポットから湯気香る琥珀色の液体を注いでいると、やれやれと言った口調でエドガーが呟いた。
「大臣は心配性だな。完治してどれだけ経ったと思ってるんだ」
 その他人事のような口振りに、マッシュは表情こそ苦笑いを浮かべながらもやや厳しめの低い声でエドガーを窘めた。
「そりゃ心配するさ。兄貴こそ何日寝込んだと思ってるんだ」
「それは分かっているが、復帰してからもう一月も過ぎたんだぞ」
「まだ一月だろ。病気前より体力落ちてるんだから、無茶してると思ったら問答無用でベッドに寝かせるからな」
「ふふ、そうやってお前が見張ってくれるなら安心だな」
 またそんなことを、とマッシュが苦言を続けようとした時、ふと机上に肘を乗せて頬杖をついたエドガーが意味ありげな目で自身を見ていることに気がついた。
 何かを探るような、期待して待つような眼差しを受け、思わずぎこちなく笑顔を強張らせたマッシュは遠慮がちに「……何?」と尋ねる。
 エドガーは目を細めて小さく笑い、小気味良ささえ感じる軽快な仕草で首を横に振って、
「いーや、何でも」
 やけに間延びした声でそう言ってから立ち上がり、大きく背伸びをした。
「いい香りだな。美味そうなクッキーだ」
 執務机から離れて近づいてくるエドガーを前に、複雑な笑みを見せたマッシュは動揺を誤魔化すようにティータイムの支度を再開する。
 あれから奇跡的な回復を遂げたエドガーは、見た目に多少の窶れは残るもののほぼ以前と同じように執務に就くようになっていた。食欲も復活し、肌の張りや髪の艶も戻ったことは何よりも喜ばしいが、それとは別にマッシュには気になることがあった。
 エドガーの復帰以来何度となく己に向けられる意味深な眼差しに心当たりがないはずがない。あの時必死で伝えた言葉は全て心からのものであったし、覚悟は決めていた、それなのについつい空気が変わるのを恐れてはぐらかしてしまう自分がいる。
 回復したからそれで良し、ではない。あれは謂わば願掛けだったのだ。であれば有言実行するのみだと重々理解しているが、いざとなると身体も口も硬直する。
 ソファに腰を下ろしたエドガーが、淹れたての紅茶を手に取ってうっとりと微笑みながら口に寄せた。香りを楽しんでから静かに口をつけ、ふうっと熱い吐息を漏らして満足そうに頷く。
「ああ、美味いな。お前の淹れたお茶はやっぱり美味い」
 しみじみとした呟きを耳に、大分痩けた頬が気にならなくなったエドガーの穏やかな微笑を見て、マッシュは自身に喝を入れる。──今の平穏に甘えず、エドガーが健勝であることに感謝をして、ここは男らしく想いを伝えなければ──
「なあ、マッシュ。美味いなあ」
 立ち上がろうとしたまさにその瞬間、同意を求めて顔を上げたエドガーの茶目っ気のある笑みに射抜かれ、うん、と曖昧に頷いたマッシュは背中を丸めてソファに座り直す。
 後ほんの少し、準備と覚悟が必要かもしれない。
 花束と指輪ならどちらの方が受け入れられやすいだろうか、などと逃避気味に考えながら、対面で浮き浮きとクッキーを摘むエドガーを見つめてマッシュも紅茶を含むのだった。

(2020.02.19)