駅からの帰り道は他愛のない会話で溢れていた。 自然と足を弾ませるマッシュと、その隣を涼しげな靴音を立てて歩く兄のエドガー。待ち合わせをしてからマッシュの頬は緩みっぱなしだった。 いつも忙しくしている兄の家庭教師のバイトも、マッシュの倉庫整理のバイトもない。並んで帰路につくのはいつ振りだっただろうかとぼんやり考えながら、家で兄の帰宅を待たなくても良いことに心は浮かれ、俄然歩調は速まった。 毎日同じ家で寝泊まりしているというのに、更にずっと一緒にいたいと思う自分はおかしいのだろうか──研究室で起きた笑い話を聞かせてくれるエドガーの揺れるリボンを盗み見して、マッシュは目を細める。 ここが往来でなければ手を繋ぐのに、と辺りを軽く確認しながらやきもきしていた時、ふとエドガーが何かに気づいたように顎を上げてバッグのサイドポケットに手を伸ばした。 取り出したスマートフォンの画面を見て、エドガーは一瞬眉を寄せた。ごく僅かなその動きが、マッシュの胸をざわめかせた。 エドガーが嫌な顔をした、それだけで一気に晴れやかな心に影が差したことを理解したマッシュは、先程談笑していた時とは一転低い声でエドガーに尋ねていた。 「……誰?」 エドガーが少し驚いた顔でマッシュを見上げた。思った以上に声に圧がかかっていたらしい。 マッシュは出来るだけ柔らかな表情を取り繕って、軽く小首を傾げてみせた。 「通知、来たんだろ。嫌な顔したから、誰かなと思って」 「ああ……、教授だよ。うちの研究室の」 学生の間で機械工学科の魔王と呼ばれている、年若く冷たい目をした教授の顔を思い出したマッシュは、内心の苛立ちを隠してへえと相槌を打った。 「何だって?」 「サムネしか見ていないが、資料整理を手伝え、だろうな」 「いつ」 「この感じだと今だな」 マッシュの作り笑いが強張る。弟の不穏な気配を察したのか、エドガーは画面が暗くなったスマートフォンを再びサイドポケットにしまうと、やれやれと大袈裟に肩を竦めた。 「気づかなかったことにしよう」 「いいのかよ」 思わず尋ねたマッシュへ、エドガーは軽くウィンクして頷いた。 「あの人、LINE嫌いでメールしか使わないからな、いつ読んだかなんて向こうには分からないだろ。いつも面倒な作業は学生任せで困ってるんだ。誰か他の犠牲者を探してもらうさ」 それに、と付け足したエドガーは周りから見てあからさまにならない程度にマッシュに肩を寄せ、そっと触れ合わせた。 「折角お前と久しぶりに一緒に帰ってるんだ。今から戻るなんて冗談じゃない。二人でゆっくりしよう」 辺りを憚る甘ったれた掠れ声は、ご機嫌取りのつもりなのだろう。乗せられたフリをして頷き、肩を触れ返したマッシュの目は、しかし笑ってはいなかった。 普段友人相手の通知に表情など変えることのないエドガーが眉を寄せた。嫌悪を示した。あの人、と名前を呼ばずに少なからず親しみを含んだ呼び方をした、メールアドレスを交わしてやり取りをした。どれもこれも列挙するにはあまりに些細で、それなのにこれら全てにマッシュは激しく嫉妬していた。 実に子供染みた愚かしい感情だと自覚はあるが、詰まる所エドガーが他の人間に僅かでも心を動かすのが嫌なのだ。例えそれが負の感情であっても。 とは言えエドガーの交友関係でこんなに不愉快になることはそうそう無い。元よりマッシュはあまりあの教授が好きではなかった。相手が自分より年上で地位のある立場だというのが大きいのかもしれない。こんなに醜く情け無い嫉妬があるだろうか。はなから負けを認めているかのようだ。 自分がもし、今より大人で生活力のある男だったらもう少し心に余裕が持てるのだろうか? 早く大人になりたいと願うものの、自分が年を取る分兄だって同じだけ年を取る──ずっと変わらない弟の立ち位置に歯噛みするマッシュの手の甲に、ちょんとエドガーの指が触れた。 ハッとしたマッシュがエドガーを振り返ると、はにかんで上目遣いにマッシュを見ていたエドガーがそっと小声で囁いた。 「この辺り、誰もいないしもういいだろ」 そう言って何かを強請るように甲を緩く引っ掻いてくる。意図に気づいたマッシュが照れ臭そうに笑ってエドガーの手を握ると、エドガーも嬉しそうに微笑んだ。 「今日時間あるだろ、グラタン作ってくれよ」 「グラタンかあ……鶏肉あったな。いいよ」 「よーし。その間に風呂掃除しといてやるからな」 「頼むよ」 笑顔を交わして、指を絡め合い、夕暮れの帰路をゆったりと並んで歩く。この幸せな瞬間をくだらない嫉妬で費やすなんて馬鹿馬鹿しいと自嘲して、マッシュは負の感情を頭の隅に追いやった。外に追い出すにはもうしばらく時間が必要だろう。 早く見てくれだけではなく中身も大きな男になりたい。小さな溜息をそっと零して、その日はそれからマッシュの顔が曇ることはなかった。 |