マエド365題
「33.悔しい」
(使用元:TOY様 http://toy.ohuda.com/ ご自由にどうぞ365題)


 通り慣れた道を迷わず進み、石造りの廊下にごつごつと足音を立て、盛り上がった立派な筋肉を持つ両手には品の良い藍の花模様が入ったティーポットとセットのカップ、それから戯れに自作したシナモン香る焼き菓子が乗ったトレイ。途中壁に掛けられたタペストリーがほんの少し曲がっていたり、僅かに床の石畳が欠けていたりする見慣れたチェックポイントを横目に通り過ぎて、目当ての扉まで真っ直ぐ進んだマッシュはいつものように右拳の甲で二回ノックをする。
 どうぞ、と耳馴染みのある声に導かれて扉を開き、机に向かう執務中の兄エドガーへ笑顔を向けた。顔を上げたエドガーもまた涼やかな笑みを返し、マッシュが手に持つトレイに目を留めて更に頬を緩める。
「助かる、丁度喉が乾いていたんだ」
「そっか、良かった」
 午前中に一度、マッシュはエドガーの元に茶や菓子を差し入れる。マッシュ自身の修行の時間があったりエドガーに会議や来客があったりでその時間はまちまちだったが、ほぼ毎日繰り返される普段の光景だった。
 その普段通りのはずのやり取りに、マッシュは非日常を僅かに嗅ぎ取った。エドガーの表情も声もいつもと何ら変わりがないが、纏う空気に若干の淀みがある。
 それは本当に些細なもので、恐らくエドガーが室内にこもって一処にじっとしているからようやく勘付くのであって、砂漠で兵たちに指揮をする演習中などでは分からないかもしれない、そんな程度のものだった。
 その裏付けとして、マッシュはエドガーの右手の親指を盗み見た。全指で綺麗に揃えられているはずの親指の爪だけにごく細かな溝が出来ていた。
 エドガーは子供の頃から苛立つと右手親指の爪を噛む癖があった。大人になってその様子を見たことはないが、こんな風にマッシュがエドガーの微かな変化を感じ取る時に注視すると大抵親指の爪が削れている。人前では見せずとも癖は残っているのだろうとマッシュの中で確信があった。
 しかしそれだけだった。エドガーに何らかの心の機微を与えたものがあるのは確かだが、エドガーはそれをマッシュに悟らせない。普段と何も変わりのない笑顔で、マッシュが注ぐ紅茶から立ち昇る湯気の香りに目を細めたり、焼き菓子の歪な形に思わず歯を見せたりしている。
 マッシュはそれが少し悔しい。
 書類の邪魔にならないようカップと焼き菓子の器を机上に置いて、マッシュは何気なく口を開いた。
「明日は確か朝から執務室だったよな」
「ああうん、特に出歩く予定はないな」
「今あんまり急ぎの仕事もないよな」
「まあ、ここ最近は穏やかなものだな」
 カップに薄紅色の唇を寄せてさもご機嫌に答えたエドガーに対して、マッシュは空になったトレイを胸に抱えた体躯の割には可愛らしい仕草で軽く続けた。
「じゃあ明日の朝は一時間寝坊しなよ。朝食は俺が運ぶから。大臣にも言っとく。たまにはいいだろ」
 エドガーはカップに口付けたままぱちぱちと瞬きをして、考えること僅か二秒、すぐににんまり笑って「たまにはいいか」と返す。
 マッシュは内心ホッとして、じゃあ大臣に伝えてくると踵を返す。これくらいのささやかな気晴らしを提案することしか出来ないけれど、それで少しでもエドガーの心の負担が減るならと期待を込めて。
 何事かあったのだとしても、全てをマッシュに曝け出して欲しい訳ではない。言いたくないことなら言わなくていい。何も言わなくて良いから、助けが必要な時には頼って欲しい。
 たまにはいいかと答えた時のエドガーを包む空気がほんの少し和らいだことを思い出して、マッシュは微笑みながら小さく息を吐き、今夜エドガーの部屋に持ち込む酒を物色しようと厨房へ向かった。



 マッシュが去った執務室で、カップに口を寄せたまま呆けた顔で焦点を彷徨わせていたエドガーは、思い出したように一口紅茶を含んで舌をヒリつかせてからカップを脇に寄せ、机上に突っ伏した。
 やはりマッシュにバレた。何故だかマッシュはいつでもエドガーの不穏な気持ちを細やかに汲み取る。これほどに上手くは隠せまい、他の誰も気づくまいと自負するポーカーフェイスがマッシュには通じない。マッシュはエドガーの異変に気付いた、だからあんな提案を持ち出したのだ。
 生きていれば思いのままにならないことなど幾らでもある。ましてや自分の身の振りを自由に決められない身分である、耐えて飲み込むことの方がずっと多い。
 その都度甘ったれるのが許されるほど子供ではない。エドガーはこの国の長でありマッシュの兄である。たとえマッシュが恋人であろうと、自分一人で消化すべきものは受け入れなくてはならない、だからこそ心の変化を悟られないよう毎度苦心しているというのに、不思議とマッシュは見逃さない。
 エドガーはそれが少し悔しい。
 こうなったら今夜はめちゃくちゃに抱いてもらおう。無意識に噛んでいた右手親指の爪を離して、エドガーはマッシュが置いていった焼き菓子をひとつ口に放り込んだ。

(2020.03.05)