マエド365題
「35.泣いているのを押さえつけて」
(使用元:TOY様 http://toy.ohuda.com/ ご自由にどうぞ365題)


 ぼんやりとした意識の浮上があった。
 側で動く気配を感じ、目を瞑ったままもう起きる時刻だっただろうかと考える。気怠い身体は酷く重く、指すら動かすのが億劫で、そのまま覚醒し切ることなく再度の眠りに引き込まれた。
 恐らくはそれからほとんど時間が経っていないのだろう。乱雑にドアが閉まる音で今度こそはっきり目が覚めた。
 まだ呆けた頭を擡げて眠い目を擦り、小さく欠伸をした後に予定外のくしゃみが飛び出た。思わず毛布に包まって、自身が衣服を身につけていないことに気づく──疑問は一瞬、エドガーはすぐに昨夜の出来事を思い出した。
 ああ、そうだ。
 そうだった。
 他の人間の気配がない寝室にて、誰に憚る訳でもないのにひっそりと小声で呟いて、エドガーは微かに赤面した。
 昨夜、初めて肌を合わせたのだ。──少し前まで隣に誰かがいたであろうシーツのくぼみへ指を伸ばし、温もりは分からずとも冷え切ってまではいないそこを愛おしげに引っ掻いて、エドガーは息を吐く。夢見がちな吐息から一転、眉を顰めて喉を押さえた。
 喉は酷く乾いてザラついた痛みがあった。思い当たる節があって複雑に表情を歪めながら、水を求めて無意識に巡らせた視線の先、ベッドサイドのテーブルに水差しとコップが置かれている。
 覗き込めば水面がまだ僅かに揺れていた。つい先程聴こえた、ドアが閉まる慌ただしい音を思い出して納得しながら、エドガーは有難くコップを手に取るべく身体を起こした。頭を擡げる、腕を伸ばす、些細な動作で身体のあちこちに軋むような鈍痛があった。
 水は汲みたてのようで、喉奥に沁みる冷たさだった。コップ半分ほどに注いだ水を一気に飲み干して、肩がゆっくりと下がるような深いため息をつく。
 ぎこちなく手首や腕を動かし、痛む箇所を確認して昨夜に想いを馳せた。
 我ながら恥ずかしくなるほど初心で、必死な夜だった。
(──ああ)
 いざ服を脱いで向かい合うと心はすっかり舞い上がり、年相応の落ち着きなどとても示すことが出来なかった。
 余裕も何もない。記憶にある自分の言葉や行動を振り返る度に見苦しさで目眩を覚え、エドガーは再びベッドに倒れ込んだ。
(ああ、ようやく)
 ゆるゆると持ち上げた両腕で、誰が見ている訳でもない顔を覆う。
 頬の内から火で炙られるような熱を感じる。昨夜はこうして顔を隠すことも出来なかったのだから今くらいは許して欲しいとナンセンスな言い訳をして、この腕が強い力で掴まれた感触を思い出す。
 それまでだって何度かチャンスはあった。不運なタイミングが重なったり、どちらかが怖気付いたり、その時々で理由は多々あれど、今一歩踏み込むことが出来ていたら遂げられていた夜もあったのだ。
 我ながら狡い願いだったと思う。

『例え俺が泣き喚いて暴れたとしても、絶対に途中で止めるなよ。絶対に』

 動揺で見開いた青い目に困惑がはっきり浮かんでいた。優しい男を酷く困らせてしまった。しかしああでも言わなければ、いつものようにあの男は無体を働くこともなく途中で手を離してしまっただろうし、そう確信するほど結果として醜態を晒した自覚はある。
 初めて他人の手が触れた場所に初めての感覚。当然痛みはあった。強張った身体を開かされるその格好すら経験のないもので、全身が軋んで痛いのは相当に力んでいたためだろう。
 怖気付いた腰を引き寄せる手、抵抗する腕を押さえつけた手、気遣うように髪を撫でる手、次々思い出される堅固な力は最後まで優しく在ろうとしていた。
 落ち着かせるように包んでくれた胸は大きく温かく、だからこそああまで取り乱してしまった節はあるのだが、そこから伝わった異常な速度の鼓動はあの男もまた落ち着いてなどいなかったことを今になって思い知る。
 無理をさせてしまった。が、気怠く重たい身体の真ん中には確かな充足感が残っている。
(……あいつ、止めないでくれたな)
 ゆっくりと浮かせた腕を見上げ、薄っすら掴まれた跡が残った手首をじっと見つめた。じんわり痛みが蘇ってくるようで、それが不思議と甘く胸を疼かせることに苦笑したエドガーは、その箇所に触れるだけのキスをした。
 べたつく身体には数個の赤い斑点がある。遠慮がちに吸われた時のピリッとした痛みを思い起こし、思いのほか淡い色のそれが夜には消えてしまうかもしれないことを淋しく感じた。
 黙って仰向けに転がっていると、臀部の奥に微かな違和感があることに気付く。よくあんなものが入ったなと感心しつつ、その場所がどうなっているのか触れるのは怖かった。腫れぼったい感触は気のせいではないのだろう。
(止めないでくれた)
 頭はぼんやり、身体はどんより、下肢は重く節々が痛み、胸の奥は得体の知れない浮ついた気分が満ちている。
 ふふ、と奇妙な声が漏れた。その気の抜けた声色に改めて苦笑して、エドガーはもうすぐ戻って来るだろう相手を待つ。
 顔を見たら何を言えばいいだろうか、礼も詫びもあの男には不本意だろう。素直に愛を謳えば良いのだが、それが出来れば昨夜のように無理を強いたりせずに済んだはずだ。
 沸々と沸き起こる感情をどう説明したら良いだろう。ようやく、と再び口の中で呟いて、エドガーは緩む唇に指先を当てて昨夜の余韻を呼び戻し、昨日までとは違う自分にしみじみ感じ入る。
 雑音の無い寝室のドアの向こう、廊下でパタパタと忙しない足音が聞こえて来た。もう迷う時間はない。
 恐らくはこの身体を清めるために湯桶を持って走って来た男を想って、蕩けた笑みを噛み殺したエドガーは痛む箇所を庇いながらゆっくりと身を起こした。

(2020.04.24)