マエド365題
「37. 誘ってるのか?」
(使用元:TOY様 http://toy.ohuda.com/ ご自由にどうぞ365題)


 この時間は兵士が少ないから今のうちに入っちまえとロックに促されて、やって来た浴場は成る程手狭だった。
 普段は一度に複数人が利用しているらしい浴場を一人で使わせてもらえるのは、自分への気遣いなどではなくこの大きな身体が他の兵士の邪魔になるからだろう──納得したマッシュは早く済ませてしまおうと豪快に衣服を脱ぎ始める。
 コルツ山での思いがけない出会いを経て、夜営に山越えと目まぐるしい数日間だった。身体は汗と土埃、魔物の返り血ですっかり汚れている。無事リターナー本部に到着した安堵感も手伝い疲労は大きく、今すぐベッドに飛び込みたい気分だがまずは身を清めてからだろう。
 簡素な浴場だが湯が出るのは有り難いと浴室の戸に手をかけた時だった。脱衣所の扉が開く音に振り返ったマッシュは、あ、の形で口を開けたまま声を出せなかった。
「ああ、いたか。マッシュ」
 穏やかな微笑みを湛えて現れたのは、鎧を脱いで軽装になった双子の兄であるエドガーだった。
 産まれる前から一緒だった、まさしく半身と呼ぶべき存在。誰より近しい兄を慕ってずっとついて回っていた──十年前にマッシュが一人で城を出るまでは。
 父を喪った哀しみに浸る間もなく、王位を継ぐか城を出るかで兄と道を分つことになった。十年前のエドガーが静かな瞳で放り投げたコインは、マッシュに自由を選ばせた。
 旅立ちはまるで逃げ出すようだった。いや、事実逃亡そのものだったのだ。
 父の暗殺を手引した者が城内にいる。自分は王位を継ぐ器ではなく、兄を支えるには立場が危う過ぎた。城に留まっても兄の弱点にしかなり得ない──政治に疎くともそれくらいの判断は出来る。
 知も武も兄に劣る自身が悪意ある他者に利用される前に、マッシュは力を蓄える道を選んだ。
 自由という名の枷。いつか必ず兄王の支えになれるよう、鍛錬を怠らず心身を鍛え抜いて機が熟するのを待っていた十年間……
 この十年、誰より逢いたかった人がここにいる兄のエドガーだった。
 エドガーは先に脱衣所にいたマッシュに驚く素振りも見せず、中に入り込んで静かに戸を閉める。タオルを持っているところを見ると風呂に入りに来たのは間違いない。少しだけ動揺したマッシュへ、エドガーは子供の頃のような悪戯っぽい声で囁いた。
「ロックの奴が気を回してくれたらしい。コルツ山からここまで落ち着いて話すどころじゃなかったからな。……二人で風呂なんていつ振りだろうな」
 そう言ってシャツのボタンを外し始めるエドガーへ、マッシュは曖昧に頷いた。笑顔は浮かべていたが、そのぎこちなさがバレる前にお先にと浴室に入る。
 十年振り。話したいことも聞きたいことも山ほどある。ゆっくり二人で過ごす時間が取れず、ヤキモキしていたのは事実だった。だからこの機会は有り難い。有り難いのだが。
「へえ、小振りだが湯も使えるのか」
 衣服を脱ぐのに然程手間取ることもなかったようで、マッシュのすぐ後ろからエドガーの声が聞こえて来た。馴染みのある声より幾分低い、落ち着いた声だった。
 マッシュより早く変声期を迎えたエドガーは、十年前にすでに大人の声になっていると思っていた。しかし今の声はあの時よりも更に深みが増して、何度となく亡き父を思い出させた。
 マッシュは意を決して振り返る。視線の先にいるエドガーは、マッシュがこの十年一日たりとも忘れることなく思い浮かべていた笑顔よりも、ずっと凛々しく美しかった。
「俺と一緒だと余計に狭いかもな」
 複雑な感情を押し殺してマッシュがそう答えると、エドガーは僅かに丸くした目をすぐにふっと細めて微笑む。
「全くだ。デカくなったもんだな。声も別人みたいだ」
 実に楽しそうにくつくつと笑うエドガーを前にマッシュは薄っすら頬を染め、早く洗っちまおうぜと再び背を向ける。
 以前から華のある兄だったが、王となって更に威厳が加わった。一見優しそうに見える笑顔は鉄壁で、相手に感情を悟られないためのもの。再会してから何度もそんなエドガーの笑顔を見てきたが、今のエドガーの顔はそれとは違う。
 心を許した相手にだけ見せる砕けた笑顔は、マッシュの胸を酷くざわつかせた。
 マッシュはエドガーが好きだった。肉親としてだけではない。それはもう、城を出る十年前よりもっと昔、恐らくは意味も分からず結婚の約束をした幼少時から、気づけば物心つく頃にはすっかり兄を恋愛対象として見つめてしまっていた。
 兄と弟、男同士、王家の跡取り。弊害しかない故、想いを伝えようなどと考えたこともない。ただ傍にいられるだけで良い、この先城に戻ることがあれば黙って兄に仕えようと思っていた。
 が、十年を経て成長したエドガーの眩しさは想像以上で、厳しい修行を経て凪いだ海のように穏やかだったマッシュの心を揺さぶり続ける。コルツ山で兄弟子を手に掛けたショックをしばし忘れて見惚れるほど、エドガーは王の名に恥じない精悍な姿で光り輝いていた。
 欲目もあるかもしれない。それを差し引いてもマッシュの理想を遥かに超えた気高き美青年は、すっかり煩悩から遠ざかった生活をしていたマッシュの心をあっという間に底無し沼へ引き摺り込んだのだ。
 正直に言えば、二人で風呂などとても耐えられない。気安く他者に肌を見せないフィガロの国王も、弟の前ではまるで警戒せずに衣服を取っ払ってしまったではないか。先程チラリと見えた白い肌が頭の中いっぱいになるのを拒むように、マッシュはぎこちなく洗い場でエドガーに背を向ける形で腰を下ろした。
「すっかり泥だらけだな。さっさと洗っちまわないとな」
 声が上擦ってはいないだろうか。それも水音に紛らわせてしまえば分かるまいと、マッシュは勢いよく頭から湯を被る。とにかく早く風呂を済ませて、浴場を出てからゆっくりエドガーと話せば良い。ギュッと目を瞑って手早く髪を洗い始めた。
「……ああ、そうだな」
 エドガーの返事がすぐ後ろから聞こえてくる。マッシュの真後ろに腰を下ろしたエドガーは、身体を洗い出したようだった。
「何にせよ、無事にここまで来られてホッとしたよ」
「ああ、全くだ」
「後でフィガロに伝書鳥を飛ばしておかなければな」
「……城のみんなは元気かい?」
「皆息災だ。大臣もばあやも変わらず尽くしてくれている」
「……そうか。それなら良かった……」
 何処となく言葉少なな会話だった。やはり顔を見ずに話すのは味気がない。しみじみ実感したマッシュが早急に身体も洗ってしまおうと、濡れた髪を掻き上げた時だった。
 背中にひたりと手のひらが触れた。
 驚き過ぎて声も出なかった。
「背中、流してやるよ」
 何てことないと言った口調でエドガーがそんなことを言うものだから、マッシュは装っていた平静さを忘れて慌てて振り返った。
「い、いや、いいよ!」
 髪を下ろしたエドガーがすぐ後ろで石鹸を泡立てている。視界に入れてしまった肌の色に目をチカチカさせたマッシュがまた前を向くと、エドガーはまるで動じずに言い返した。
「昔はよくやったじゃないか、背中の洗いっこ」
「こ、子供の頃だろ」
「久しぶりだし、いいだろう」
「王様にそんなことさせらんないよ」
「そう、フィガロの王が直々に背中を洗ってやるんだぞ。有り難く従え」
 笑いながらとどめを刺されて、マッシュは言葉を詰まらせる。無言を了承と受け取ったのだろう、エドガーは遠慮なくたっぷり泡を立てたタオルをマッシュの背中に滑らせた。
 王になっても昔と変わらず気さくなエドガーの態度は嬉しい。いつでも何処でも何をするでも一緒だった幼い頃を思い起こして胸が温かくなる。
 しかしエドガーの手がマッシュの肩や二の腕に触れる度、温かさを通り越して沸騰しそうなほど身体が熱くなってしまう。優しく背中を擦られるのは気持ちが良くてとても辛い。下肢に力を入れて歯を食い縛るマッシュに構わず、エドガーはふいに指先でマッシュの背中の傷をなぞり始めた。
「……傷痕が、こんなに……これは……古いものだな」
 幾つかある傷痕の中で一際大きい右の肩甲骨付近にある肉の盛り上がりを指で優しく撫でられて、ゾワッとマッシュの肌が粟立った。
 不自然に跳ねた肩に気付いていないのか、エドガーの指は止まることなく背中の至るところにある傷痕に触れていく。
「ここにも……こんなにたくさん……、……こんなに……」
 指先だけでなく手のひら全体で背中を撫で始めたエドガーが徐々に言葉を詰まらせていくのに気づいて、マッシュは軽く後ろを振り向きながらわざと明るい声を出した。
「お、俺、最初はホントに出来が悪くてさ、あちこち傷作っちまったんだ。でも最近は滅多に怪我しなくなったし、病気だってここ数年罹ってないんだぜ。昔と比べたらちょっとは強く……」
「──ずっと強くなったさ。こんなにも立派になっているなんて、俺の想像以上だった」
 エドガーはマッシュの言葉を遮り、きっぱりと言った。思わず声を失って兄の評価に感じ入っていたマッシュは、ふいに背中の泡を湯で流されてビクッと肩を揺らす。
「あの小さかったお前が……ここまで大きく、逞しくなって……」
 肩に手のひらではない肌が触れた。同時に二の腕にひんやりとした髪がだらりと落ちて来て、マッシュの心臓が大きく音を立てた。
 エドガーがマッシュの肩に額を乗せている。細い吐息が肩甲骨から腰に向かって滑り落ちた。思わずキュッと下腹に力を込めたマッシュは、動揺を隠せない声で「兄貴?」と呼びかける。エドガーはすぐには答えず、肩に額を乗せたまま腕を伸ばしてマッシュの胸に触れた。
 反射的にピンと背筋を伸ばしたマッシュは、事態に理解が追い付かずにただ口をぱくぱくと開け閉めさせた。
「厚い胸だ……俺よりも。こうまで鍛えるのにどれだけお前が努力したか、昔のお前を知っている俺にはよく分かる。この大きな身体も、たくさんの傷痕も、一朝一夕には作り得ない。この十年、本当に……励んで来たんだな……」
 エドガーはゆっくりと噛み締めるように重く囁く。
 しかし兄からこれ以上ない賛辞を受けているはずのマッシュは、喜びを表すどころか徐々に背中を丸めて前屈みになっていく。
 風呂で流す心地良い汗とは違う、冷や汗を大量に掻いたマッシュの顔色は冴えない。それはそうだ、兄の長い指が鍛えた胸筋を撫で回している。揉みしだかれているという表現が正しいかもしれない。
 ちょっと触り過ぎでは? ──茶化した感じでそう聞ければ良かったのだろうが、心にも身体にももうそんな余裕はない。
「それにしても凄い筋肉だ。ここまで作り上げるのは大変だっただろう」
 ううん、と曖昧に打つ相槌は上擦っている。
 褒められるのは嬉しいが、こんな風に触られては理性が保たない。だって好きな人の手で。こんなに密着して。ほとんど後ろから抱き締められているような格好で。喋るたびに吐息が肩や背に触れる状態で。
 エドガーの手が遠慮なしに胸や腹を弄ってくる。筋に剃って、肉の弾力を確かめるように、優しくも大胆に何処かしら艶めかしく……
 ──やっぱりちょっとおかしくないか?
 なんだこの触り方、誘ってるのか。いやそんなはずがないのは分かっているが、あまりに不自然ではないか。
 背中にぴたりと張り付くエドガーの胸の感触。密着どころじゃない、完全に抱き締められている。確かに兄は昔からスキンシップが多めではあったが、それにしてもやり過ぎではないのか。
 いいやしかし、先ほど自身の成長をあんなに称えてくれた兄だ。純粋に興味があるだけかもしれない。そうだ、兄は子供の頃から人一倍好奇心が旺盛だった、気が済むまで人体の仕組みを研究するつもりなのだ、きっとそうだ。
 妙な気分になるのは己がやましい目で兄を見ていたからだ。修行が足りない証拠だ、無心にならねば──とはいえ、この触り方は……あっ、そんな敏感な場所を……いやいや、平常心、平常心……
 目を閉じて精神集中し始めたマッシュが黙り込んでやや少し、気が済んだのかパッと身体を離したエドガーは、ごく軽い調子で「さ、終わりだ」と囁いた。
 一気に気が抜けて深いため息をついたマッシュへ、今度はエドガーが背を向けて座り直す。
「マッシュ、髪を洗ってくれないか」
「えっ……」
 思いがけない依頼にマッシュは驚いて振り返り、密かに喉を鳴らす。
 再会してからずっと触ってみたいと思っていたこの美しい髪──かつては同じ髪質だったはずが、今ではすっかり陽に焼けて硬くなってしまった自分の髪とはまるで違うこの髪に触れて、平常心でいられるかどうかの自信がなかった。
 しかしマッシュの傍で安心し切って髪を委ねる兄を見てはやらざるを得ない。フィガロ王の金色の髪は太陽の印だ。水を表す青いリボンを結んで国の象徴となる神聖なもの。誰にでも気軽に任せたりしないことをマッシュはよく分かっていた。
「……うん、いいよ」
 マッシュが答えるとエドガーは満足そうに頷き、軽く顎を仰け反らせて長い髪をマッシュに委ねた。マッシュは息を飲む。少し指先が震えていた。恐々金糸のような髪を掬い、丁寧に湯で清めていく。
 なんて滑らかな手触りなんだろう──濡れて艶を増した金色の髪は、昼間に散々土埃を浴びたとは思えないほど柔らかかった。指を差し込む度に胸がいっぱいになってぎゅうぎゅうと音を立てた。
 戦闘であれだけ激しく動いていたというのに、絡まることなく手櫛がするすると通る。金髪を尊ぶフィガロ王家では髪の手入れにも気を遣っていた。これまで王に相応しい手入れを施されて来ただろう美しい髪を、こんな狭い浴室で湯を節約しながら洗わねばならないのかとマッシュはごく小さなため息を吐いた。
「どうした?」
 ため息を聞き咎めたらしい。目を閉じたまま髪を委ねるエドガーの問いかけに、マッシュは何と答えたものか迷った。
「……いや、綺麗な髪だなって」
 あれこれ説明せずにシンプルに本音を伝えたが、かえって恥ずかしくなってくる。エドガーが目を閉じていて良かったと安堵しつつ、赤い顔で手を動かすマッシュへ、小さく笑ったエドガーが声を返した。
「お前の髪だって綺麗だ」
 一瞬手を止めたマッシュは、苦笑を零してより丁寧にエドガーの髪を濯ぐ。
「いや、この十年ですっかりパサパサに硬くなっちまったよ」
「陽の下で真面目に修行をして来たからだろう。今のお前によく似合ってる」
「え……」
「太陽の加護を受けた誇らしい髪だ。お前に相応しい、綺麗な髪だよ」
 思わず声を失ったマッシュは、驚きの表情をじわじわ笑みに変え、その癖まるで泣き出しそうに眉を下げながら、うん、とだけ返した。
 やはりエドガーは尊敬すべきフィガロの王で、優しい兄で、一番の理解者なのだ。髪に触れさせてくれたのも、昔と変わらぬ距離の近さを示してくれたのだろう。煩悩に塗れている自分が情けなく恥ずかしい──マッシュは丹念に洗い上げたエドガーの髪をタオルで包んで優しく絞り、お疲れ様と声をかけた。
「ああ、気持ちが良かった。ありがとう、マッシュ」
 振り返って屈託のない笑みを見せるエドガーへ、マッシュははにかんで笑い返す。
 やはりおかしなことを考えていたのは自分だけだったのだ。これからの長い旅路、いちいち心を乱しているようでは兄の隣は務まらない。修行が足らん証拠だと、こっそり両手で頬を叩き気合を入れた。
「あまり長風呂すると怒られるな。マッシュ、そのうち城にも顔を出せよ。今度はゆっくり飲みながら話そう」
 立ち上がるエドガーにそうだなと答え、先を行く白い背中を直視しないよう目を伏せて、マッシュは今後精神統一の時間を増やすことを決意した。
 そうしてゆっくり兄と向き合おう。この十年、お互い積もる話があり過ぎて何処から話せば良いのか分からないくらいだが、生涯忘れ得ない語らいになるだろう。
 それにはまずこの雑念を克服しなければ。秘めた想いは消せなくとも、決して表に出してはならない──心に誓い、エドガーと共に故国に帰る日を思ってマッシュは胸を熱くさせた。




 おやすみと挨拶を交わし、狭い個室でベッドに潜り込んだエドガーは天井を睨んで小さくため息をつく。

 ──やっぱり色仕掛けにもならなかったか。

 ガキの頃の結婚の約束なんてとうに忘れちまったんだろうな。これでも子供の頃は母親そっくりの少女めいた美貌だと謳われていたものだが、流石にこの年になってこの見目じゃあその気になるはずもないか……。
 髪に触れてもらうのは奥の手だったんだが。
 王が人前でみだりに髪を解いたり触らせたりしないことはあいつも覚えているだろうから、様子が変わらなかったのはただの兄貴としか見られてないってことか──……

 ごろりと寝返りを打ち、毛布の端を丸めて胸に抱き込んだ。ぼんやりと闇を見つめながら、陽に焼けた古傷だらけの背中を思い出す。

(それにしても)

 ──いい男になったなあ……

 十年ぶりに再会した弟の逞しく成長した姿にときめく胸を宥めつつ、零れたエドガーのため息は熱っぽく切なかった。

(2020.08.01)