「花咲みの君へ2」の続き



 会議と会議の合間の貴重な時間、足早にほぼ私室である作業室へ向かっていたエドガーの頭の中は、昨夜途中まで引いていた新しい図面でいっぱいだった。
 ちょっとしたきっかけで試作中の武器を改良するヒントを思いついてから、議題そっちのけで修正案を固めることに夢中になってしまった。自由な時間は決して多くはない。次から次へと降ってくる雑事に追われて有耶無耶になってしまうその前に、構想を具体的に記さねばと急ぎ足を更に速める。
 なに、要所を書き込むのに時間はかからない。間を置いても一度頭に刻んだ図が逃げていく訳ではないが、より良い姿に生まれ変わった愛しい図面を早く見たいと気持ちが逸るのは仕方のないこと──
 すわ今にも目の前の空間に図面が浮かんで来るかのような夢見がちなエドガーの視界に、突然目の覚める黄檗色が飛び込んで来た。
 思いも寄らない形で思考を切られたエドガーの前で、麻の布で茎を包んだ大量の向日葵を両腕で抱えた女官が足取り覚束なく歩いて来る。胸に抱えられた向日葵はどれも見事に育ち、女官の顔と大きさがほとんど変わらなかった。
 向日葵は二十本以上はあるだろうか、彼女が歩くたび黄色の大輪がゆさゆさと揺れる。小柄な身体にはいささか過ぎる量だとエドガーは眉を顰め、それでも彼女は前方に君主の姿を見て取って、頼りなくも健気に脇に避けて頭を下げた。
 弾んでいた靴音に落ち着きを取り戻したエドガーは、向日葵の女官の前を通り過ぎ様に彼女へ顔を向ける。
 頭を下げているためエドガーが振り向いたことを知らない女官は、足音が止まったことに気づいてそっと顔を上げた。そして思いのほか間近にあった国王の顔を前に、悲鳴のような声をか細く漏らす。
「やあ瑞々しい向日葵の君。城の中にまで夏の風を連れて来てくれたようだね。しかしいささか荷が重過ぎはしないかね?」
「はっ……、あのっ、いえ、わたくしは、その、あの、」
「誰か手伝いはいないのか? か弱いレディが一人で運ぶ量じゃないだろう」
 女官は赤くなったり青くなったりしながら、動揺ですっかり拙くなった言葉を尽くしてエドガーに説明を試みた。
 どうやら、来月に迫ったエドガーとマッシュの誕生日に行われる祝賀式典の準備が佳境に入り、雑用をこなす人手が足りていないということを言いたいらしい。大広間や廊下へこの向日葵を飾りに行くよう命じられたものの、他の女官から手が離せないと言われて一人で来たのだと、もしかしなくとも告げ口の空気を醸し出して彼女は切々と訴えた。
 見た目や話しぶりから経験が浅い女官と思われたが、エドガーは腹を立てるでもなく苦笑を返し、それではと女官へ手を差し出した。
「数本もらっても構わないかな? なに、飾る予定の箇所から一本ずつ抜いたって、この量なら分かりはしないだろう?」


 
 鼻歌を歌いながら作業室ではなく執務室に戻ったエドガーは、先の会議の書類を机の脇にポイと置き、それから絹のハンカチーフで茎を包んだ三本の向日葵をそっと傍机に横たわらせた。
 花瓶を断ったのは自室に飾るための花ではないからだった。マッシュのように一冊丸暗記はしていないが、空いた時間にページをめくるのが癖になった花言葉集で、いつか見た向日葵の花言葉をぼんやり思い出したのだ。
 引き出しの奥から取り出した花言葉集は表紙が掠れて角は潰れ、酷く年季の入った外観になっていた。そのくたびれた表紙をひと撫でして、エドガーは目次を開く。ページ数を確かめ、向日葵の花言葉を求めて小さな破れがあちこちに見えるページをめくった。
 目当てのページで指を止め、目元を柔らかく細める。はにかむように口角を上げて、パタンと小気味良く閉じた花言葉集を再び引き出しにしまった。
 ──マッシュのところに行こう。
 ここまでの道中で決めていた次の行き先を改めて呟き、エドガーは大切に向日葵を抱え直して踵を鳴らしながらドアへ向かう。
 図面は頭の中にちゃんとある。逸る気持ちはそのままに、それでも胸に抱えるこの向日葵によく似た笑顔を思い出してしまったら、作業室に向かうのは後回しにすることを選びたくなったのだ。


 ──初めてマッシュに花をもらったのはいつだったか。
 旅の途中で見つけた花に想いを込め、マッシュがエドガーに花を贈り続けていたことを知ってからしばらく経った。
 花に花言葉なるものがあることをそれで初めて知ったエドガーは、マッシュから受け取る数々の想いに胸を打たれたり弾ませたり、ときめかせたりしたのだった。
 優しい朴念仁はせっせと花を贈るばかりで、一向に進展しなかった二人の仲が一気に近づき心と身体を通わせたのはつい先日のこと。
 つまり、蜜月期である今は些細なきっかけで想い人が頭をいっぱいに占めても仕方のない時期なのだ。──そう、こんな風に靴音を忍ばせながらも頬を染め、胸に向日葵を大切に抱えて相手の部屋へ向かったって可笑しくはないだろう。
 向日葵を見た瞬間、青空に映えるマッシュの金の髪が頭に浮かんで離れなくなった。
 太陽に向かって咲く花とマッシュの眩しい笑顔は良く似ている。そう思ったらもうマッシュのことばかり考えてしまって、お返しでしか渡したことのない花をたまには自分から贈ってみようかと内緒で部屋を訪ねることにしたのだ。
 マッシュはきっと向日葵の花言葉を知っているだろう。この華やかな花を携えて現れた自分を見て、あの男はどんな反応をするだろうか。驚きに目を丸くするか、その愛しい顔を赤らめるのか、または優しい笑みで迎え入れてくれるのか、よもや嫌がられたりなどしないとは思うが……
 陽の当たる回廊を抜けて突き当たりを右へ。マッシュの部屋まではもうあと少し。あれこれと妄想に合わせて表情をくるくる変えていたエドガーが、靴音軽く角を曲がった時だった。
 目の前に黄檗色が飛び込んで来た。
 ぶつかる寸前にお互い踏み止まることが出来たようで、眼前の鮮やかな黄がエドガーにキスをすることはなかった。見開いた目をそっと上に向けると、同じく青い目を丸く開いたマッシュが口を開けたまま固まっていた。
 エドガーの手には向日葵、同じくマッシュの手にも向日葵。思いがけず向かい合った二人は、しばし声を失った。
 それからほとんど同時に相手の思惑を悟った。日陰となる廊下ですらぱっと頬が赤くなったのが互いに分かるほどで、それぞれ照れ隠しに彷徨わせた視線をゆっくりと合わせ、苦笑を零した。
「……もしや、お前も向日葵の君に会ったのかい」
 エドガーが戯けたように尋ねると、一度は不思議そうな顔をしたマッシュが納得したように軽く頷いた。
「向日葵抱えてたあの子な。大広間に飾りに行くところだって言ってたけど、あんまり重そうだから少し分けてもらったんだ」
「やはりそうか」
「俺たちが貰っちまって足りなくならなかったかな」
「大丈夫さ、これっぽっち。あれだけあれば充分足りるだろう。それに」
 当たり障りのない会話には若干のぎこちなさが漂っていた。それも互いに承知の上で、チラチラと交わる視線でタイミングを計る。
 先に瞳を色づかせたのはエドガーだった。
「これだけ鮮やかな花だ。たった数本でも映えるだろうさ」
 切れ長の目尻をささやかに蕩かせ、向日葵を申し訳程度の盾にしながら斜めに見上げたエドガーの目を見て、マッシュは小さく息を呑んだ。
「……兄貴の部屋に飾りに行こうと思ってた」
「俺は、……お前に渡しに行こうと思っていた。とても、綺麗だったから」
 見つめ合う瞳には互いの姿が映っていた。
 気恥ずかしそうに微笑んだマッシュは、優しく目を細めて両手で抱えていた向日葵を右腕で束ね直す。
「まだ時間、あるかい?」
「お茶をご馳走になるくらいは」
 ハハッと小さく笑った、マッシュの花が咲いたような笑顔にエドガーは見惚れた。その肩にマッシュの左手が添えられて、エドガーも嬉しそうに微笑む。
「じゃあ、俺の部屋へどうぞ」
「ふふ、案内を頼もうか」
 笑顔を見合わせながら、靴音が静かな石造りの通路を打ち鳴らして行く。眩しいほどの黄檗色の向日葵をそれぞれ揺らして、僅かな逢瀬を楽しむために。
 向日葵の花言葉は『貴方しか見えない』──閉じられた扉の向こう、恋人たちの逢引を覗き見たのは向日葵のみ。

(2020.10.24)