マエド365題
「39. まさか酔った勢いで…」
(使用元:TOY様 http://toy.ohuda.com/ ご自由にどうぞ365題)


 二年振りの旅だった。
 気心の知れた仲間たちとのあの賑やかしくも充実した追憶の旅とはまるで違う、仰々しく神経を使う一国の王としての視察の旅であるため胸が弾むような期待感は無い。
 それでも、道中立ち寄った小さな街にてお忍びで訪れた場末の酒場なんてロケーションでは、多少心が浮つくのも無理はない。少なくとも今のエドガーにとってはそうだ。
 口煩い大臣もいない。隣にいるのは唯一心を許せる魂の片割れ、愛する双子の弟マッシュ。その強さは国中の誰もが認めるところで、文句のつけようのない立派なボディガードでもある。そんな安心感も手伝って、多少の如何わしさを漂わせるこの店で驚くほど気持ち良く酔ってしまった。
 二階は宿になっているようで、時折柄の悪い客が女を連れて軋む階段を上って行く。今のレディはなかなかのプロポーションだな、なんて軽口を呆れた苦笑いで受け流されるのも心地良かった。
 楽しかったのだ。気遣いなど必要ない相手と、薄汚れた酒場で自由に過ごすこの時間がひたすらに楽しかった。
 らしくないはしゃぎ方をした自覚はあった。ハメを外し過ぎたのは間違いない。いくら飲んでも酔えない夜もあったというのに、心境というものは恐ろしい。
 カーテンの隙間から仄かに明るい外の光が差し込む中、エドガーは真っ青になっていた。
 硬いマットレスに毛羽立った薄い毛布は明らかな安物で、日頃エドガーに関わりある場所ではないことは目覚めてすぐ理解できた。
 酷い頭痛と悪心は昨夜の酒の名残だろう。身体の嫌なベタつきや乱れてリボンが解けかかった長い髪の様子から、湯も浴びずに寝落ちてしまったと予想がつく。
 問題は、自分の身に何も纏っていない──そう、下着の一枚すら──全裸であるということだった。
 エドガーは自分がいつどうやってここまで来たのかまるで覚えていない。やたら楽しかったというぼんやりした感覚のみ。
 ひょっとしたら自力で歩ける状況ではなかったかも、程度のなけなしの記憶を薄っすら掘り起こし、ではここまで連れて来た人間がいるはずだと辺りを伺えば、部屋の一角から水の音が聞こえて来ることに気付いた。
 室内に漏れる光の具合からして時刻は朝朗に近い早朝、こんな早い時間に誰かが湯浴みをしている。誰か、など愚問である。マッシュしかいない。 
 エドガーは再び部屋を見渡した。壁にエドガーの衣類が一式掛けられている。ぱっと見は酷い汚れがあるようには見えない。酔って吐いて汚したために脱いだにしては、洗った形跡もなさそうだった。
 見覚えのない粗末な調度品は必要最低限のものしか揃っておらず、長期滞在者向けの宿ではない。そう、宿ではある。昨夜酒場で邪推した通りの宿なのだろう。
 所謂連れ込み宿で一夜を過ごして、朝目覚めたら全裸だなんて、さっぱり失われた記憶を求めて焦るのは仕方のないことではないか。青い顔でブツブツと呟いていたエドガーは、ひとつくしゃみをして思わず毛布を胸までずり上げた。
 単純に、酔った自分をマッシュが介抱してベッドに放り込んだだけとは思い切れない理由もあった。
 エドガーはマッシュが好きだった。勿論大切な家族として、それ以上に一人の男性として。
 自身が同性に惹かれる性的指向であるとの自覚はそれまで無かった。
 十年離れて暮らした後の旅の途中での再会で、記憶とはまるで違う逞しく成長したマッシュの姿に惚れ惚れしたのはまだ恋心とも呼べないものだったと思うが、目的を果たして旅が終わる時にマッシュが城に戻る選択をしたことで強烈に思い知らされたのだ。兄弟としてだけでなく、心を寄り添わせる相手としてずっと傍にいて欲しい存在なのだと。
 恋の成就が難しいことは重々承知していた。二人を取り巻く様々な障害は簡単に取り除けるものではないとよく理解していたし、何よりマッシュの気持ちが無ければどうにもならないことだと分かっていた。
 だから表向きでは関係の進展など望んでいないはずだった。しかし、泥酔して理性を失った状態ではどうだろう?
 最近はとみにマッシュの夢を見る機会が増えていた。エドガーにとって都合の良い、マッシュにとってはもしかすると寒気を感じる類の夢だ。欲求不満なのかもしれない、だからこそ酒場であんなにも見事に酔っ払ったのだろう。エドガーは今の自制力にまるで自信がなかった。
 ──よもや部屋に引き摺り込んで、無体なことを強いたのではないか?
(まさか……、いくら酔っていてもそれくらいの分別は……)
 しかし昨夜はいつになく浮かれて、優しくあしらってくれるマッシュにここぞとばかりに甘ったれたりボディタッチも普段より多めになってしまった気がする。
 おまけにその先の記憶が全くない! ──慌てて全身をチェックするが、何かしらの名残があるかどうかの判断はし難かった。そういった行為の知識が全くない訳ではないが、経験後の身体の状態がどうなるかなど知るはずもない。
 そう、エドガーが心惹かれたのは心も身体も大きく成長したマッシュの包容力であり、叶うことならばあの腕に抱かれたいと願っていた。誘うとしたらそちら側のはずなのだ。
 よしんばマッシュを押し倒そうとしたとしても、力では敵わないのだから未遂で終わっているだろう。しかし受け入れる側ならどうだ、優しいマッシュが兄の醜態に絆されたという可能性はなくはないのではないか。
 まさかそんな、いやしかし。昨夜の記憶を手繰り寄せてぐるぐると考えを巡らせるが答えは出ない。万が一にも何もなかったとは言い切れない、それだけ昨夜の自分が調子づいていたのはエドガーもしっかり覚えている。
 二日酔いで痛む頭を抱えていると、部屋の角から扉が開く音がした。いつの間に水音が止んでいたのか、湯浴みを終えてマッシュが戻ってくると察知した瞬間エドガーの心臓が大きく跳ねる。
 ──こうなったらマッシュの反応を見るのが手っ取り早い。
 エドガーは顔を上げられないまま生唾を飲み込む。
 マッシュが何でもない表情をしていたら白。気まずそうにしていたら……うまく探りを入れて聞き出すしかない。どううまく探れるかなど今の冷静さを失った頭で考えられる気もしないが、それでもやるしかない。お互いこの先の生活が苦しいものにならないように。
 しかし、もしも本当にマッシュが負の表情をしていたら? 例えばあの澄んだ目に嫌悪感を露わにして、まるで汚物でも見るように軽蔑する視線を寄越して来たとしたら、まともに会話が出来る自信がない。
 失望の眼差しも怖い。マッシュはいつだって無条件に自身を信じて誇ってくれていた。その期待を裏切るようなことを、この自分がしでかしていたとしたら……
「兄貴? 起きてたのか?」
 あれこれと言い訳じみた実もない脳内の問答を繰り返しているうちに、先にマッシュがエドガーの目覚めに気づいたらしい。
 ビクッと小さく肩を揺らしたエドガーは、その瞬間真っ白になってしまった頭で考えることを放棄した。
 恐る恐る上げた顔の正面、上目で覗き込むように確かめた視線の先で、未だ濡れた髪の水分をタオルで拭き取っている下着姿のマッシュがきょとんとしてこちらを見ていた。
 視界を占める肌色の多さにエドガーは咄嗟に目を逸らす。しかしすぐにハッとして顔を戻し、まじまじとマッシュを見つめた。
(……ん……?)
 普段通りのマッシュだった。何の含みもない眼差しが不定期に瞬きをしながらエドガーを見ている。その優しい青い目が、ふいに心配そうに歪んだ。
「具合大丈夫か? 夕べのこと、覚えてる?」
 ドキッと胸が音を立てる。平静を装ってマッシュの反応を瞠ることなど出来なかった。
 エドガーの困惑が見て取れたのだろう、マッシュは怒るでも呆れるでもなくやや苦い笑みを見せて近づいて来た。
「だよなあ。相当飲んでたもんな。……ここに来た時のことは?」
 エドガーは観念した。元より丸きり記憶がないのだ、取り繕いようもない。
「……まるで覚えていない。ヒビの入った皿に乗ったナッツが運ばれて来たところまでは覚えている」
「そりゃ相当序盤だな」
 マッシュが肩を揺らして笑う。その笑顔に安堵や、もしくは真逆の負の感情が含まれていないかを探るが、その穏やかな目に他意はないように見えた。
 ──やはり、何も無かったのだろうか。
 ベッド側で立て膝をついたマッシュは、自然と眉間に皺を寄せていたエドガーを見上げて軽く首を傾げた。
「吐き気ないか? 頭痛は?」
「あ、ああ、多少は……、マッシュ、その、俺は昨夜……何か、しでかさなかったか?」
「何かって?」
 先程と反対側に首を傾けるマッシュは、やはり何かを隠しているようには思えない。その純粋な疑問を浮かべた表情に言葉を詰まらせて、エドガーは身体を隠している毛布を更に首までずり上げた。
「……お前に、迷惑をかけたんじゃ……」
 遠回しな表現ではあるが、思い切って尋ねてみる。この距離でならマッシュの心の機微を見逃すはずはないだろうと、目を凝らして、僅かに不安でその瞳を揺らして。
「ああ、大したことしてないよ。水飲ませようとしたらひっくり返しちまって、びしょびしょになったくらいかな。酔ってて暑かったのかな、全部脱いじゃって、毛布は掛けておいたけど寒くなかったか? 服は水で濡れただけだったから洗ったりはしてないんだ。もう乾いてるよ、きっと」
 珍しく饒舌に昨夜の出来事を解説しながら壁に掛けられた衣服を振り返るマッシュを、エドガーはぽかんと口を開けたままの呆けた顔で眺めていた。
「俺が? ……自分で脱いだ?」
「そう、下着までびしょびしょだからって」
 何でもないことのように告げるマッシュの前で、最初は羞恥で赤くなったエドガーの顔色がじわじわと青くなっていった。
 酔って記憶を無くした上に、水を被って全裸になるとは。そしてその世話の全てをマッシュが担ったことに猛烈な申し訳なさを感じて、エドガーはそのまま毛布の中に頭まで潜り込みたい気分になった。
 鼻先まで毛布で隠したが、僅かに覗いた目の周りの肌が真っ赤に染まっているのはマッシュも気付いているだろう。兄の失態を責めることなく、水分を含んだタオルを手近な椅子の背凭れに掛けたマッシュは、予め用意していたらしい水差しの水をコップに注いでエドガーに差し出した。
「まともに歩けないぐらい酔ったのなんか久しぶりだろ。あんまり楽しそうだったから、俺も止めそびれちまった。ちゃんと面倒見るから許してくれよ」
 自分よりも先にさらりと謝罪するマッシュに、エドガーは謝るタイミングを完全に失った。マッシュが怒っていないのは幸いだが、少なくともしばらく深酒は禁じなければと項垂れる。
 ──ひとまずは何もなかった。ホッとしたような、一握の未練があるような。
 気の緩みは顕著で、エドガーはひとつ大きなくしゃみをした。思わずざわっと鳥肌が立った肌を毛布の中で抱き締めると、マッシュが笑いながら壁に向かって掛かっていた衣服を取り上げ、放り投げて寄越した。
「もう乾いてるだろ。風邪引くから早く着なよ。下着はそこな」
 指差されたベッドサイドのランプ台の上、ご丁寧に畳まれた下着と思われる小さく纏まった衣服を慌てて毛布に引っ張り込んだエドガーは、威厳も何もない顰めっ面で奥歯を噛み締める。
「……お前こそ早く服を着ろ。そんな格好でウロウロしてるとそっちが風邪を引くぞ」
 悔し紛れに言い返せば、マッシュがまた笑ってはあいと適当な返事を寄越す。椅子に掛けたタオルを取って背を向けたマッシュをじとりと睨めつけ、その目尻を赤く染めて毛布の中で湿った溜息を吐いた。
(とっとと服を着てくれ。……目の毒だ)
 逞しい背中に残る水滴がやけに艶かしく眩しく映る。
 もう一度大きく溜息をついて身体が弛緩すると、それまで忘れていた頭痛がジリジリと頭を締め付けて来てエドガーは呻いた。




 ***




「ほら、しっかり……、よっ……と」
 だらりと肩から腕を垂れ下げ、その反対側の肩に遠慮なく頭を乗せて、ほとんど自分の足では歩くことができないエドガーを引き摺るように担いできたマッシュは器用に部屋のドアを肘と足で開けた。入ってすぐ目の前にあるベッドにエドガーを下ろし、膨らませた頬からふうっと大きく息を吐く。
 腰掛けた格好でマッシュの方へぐらりと倒れるエドガーの身体を受け止め、ヘッドボードに優しく凭れさせた。正面からエドガーの表情を確かめると、目が据わっているが閉じてはいない。らしくなく口元を緩めて、やたらと楽しそうに何かの歌を小さく口遊んでいる。思わず目を細めたマッシュは、エドガーの身体が安定したのを確認して手を離した。
「具合悪くないか? 今水持って来るからな」
「おまえ、ナッツすきだろう。ぜんぶ、食べるといい」
「とっくに食っちまったよ。ホラ、マント脱いで……今日はシャワーは無理かな?」
「もうひとさら、追加するかぁ」
「下でそう言って追加分も平らげたよ。こりゃ明日は記憶飛んでるだろうなあ」
 前半は優しく呼びかけ、後半は苦笑混じりの独り言を呟きながらエドガーのマントを取り外し、襟元を少しだけ緩めてやる。チラリと覗いた鎖骨付近の肌が城の中庭で見惚れた薔薇の花と同じ色をしていて、微かに息を呑んだマッシュはさり気なく兄から目を逸らした。
 今夜はやけに兄の機嫌が良かった。誇張ではなくはしゃいでいた。城に缶詰だった頃には胃を痛めるような激務が続いていたのだから、楽しく酒が飲めたのは良いことであるし、このくらいの羽目の外し方なら可愛いとさえ思う。怒られてしまうだろうから、本人には伝えないけれど。
 窓際に置かれたイージーチェアの背凭れにマントを掛け、自身もマントを脱いで重ねて掛ける。ふうっと肩から力を抜いたのも束の間、背後の扉をノックする音にマッシュは身を翻した。
 頼んでおいた水を運んで来たスタッフから受け取り、閉めた扉にさり気なく、それでいて素早く鍵をかけて、今度こそとばかりに大きく息をつく。エドガーを振り向くと、相変わらずぼんやりした目でニコニコと締まりなく微笑んでいた。変わらない御機嫌ぶりにホッとして、今し方受け取った水差しからコップに水を注いで近づいた。
「兄貴、ほら水。これ飲んで眠りな。ベッド一人で使っていいから」
 差し出されるがままにコップを受け取ったエドガーは、まるで初めて見るものであるかのように不思議そうに、かつにこやかにコップの中で揺れる水面を眺め、そしておもむろに逆さにひっくり返した。
「!?」
 腿の上をだあだあと濡らす水を興味深げに見つめているエドガーから慌ててコップを取り上げ、すでに空になったそれをテーブルに乱雑に置いてから、マッシュは急いでバスルームに飛び込む。棚に積まれていた薄っぺらいタオルを引っ掴んで戻ると、何が可笑しいのかけらけらと笑いながらエドガーが衣服の濡れた部分を摘んでいた。
「全く、酔っ払い過ぎだろ」
 タオルを渡そうとして、数秒考えたマッシュは自らエドガーの腿にタオルを押し当てた。渡してもまた遊び道具になるだけかもしれない。しかしこの濡れっぷり、拭いた程度で乾くはずもなく。
「待ってろ、今何か着替え……」
 注いだばかりのコップ一杯分だ、ほとんどがエドガーの下腹から膝下までをぐっしょりと濡らしただけでシーツにまではそれほど被害がないのが不幸中の幸いだろうか。
 エドガーの泥酔ぶりを甘く見ていたとすっかり弱り切ったマッシュがもう一度バスルームに向かおうとした時、視界の端で何やら大きな動作が横切った。咄嗟に振り向き、ギョッと目を剥く。
 日頃かっちりと着込んで胸元どころか首すら滅多に陽の下に晒さないエドガーが、鼻唄混じりにシャツを脱いで放り投げ、更には下衣に手を掛けているではないか。
「すっかり濡れたなぁ。……ぜんぶ脱ぐかぁ」
 いくら部屋にいるのがマッシュのみとはいえ、こうも堂々と脱衣し始めるエドガーに呆気に取られて固まっていたマッシュは、エドガーが当然のようにするりと下着を下ろした瞬間、顔から火を吹いたように赤面してすっ飛んで来た。
「待っ、待てっ……!」
 水分をたっぷり含んだ先ほどのタオルは使い物にならず、バスルームに新しいバスタオルを取りに行く余裕はない。ひとまずは毛布を被せるしかないとベッドに伸ばした腕を、ふいに横から掴まれた。
 予想外の力強さだった。相手がエドガーということもあって、乱暴に振り払うことを選択できなかったマッシュの大きな身体がいとも簡単にベッドの上に転がってしまう。
 起き上がろうとする上半身を上から押さえつけたのは全裸のエドガーだった。
 絶句して真正面にある兄の顔を見つめたマッシュは、酔いで薄っすら目尻を潤ませたエドガーの目が思いの外しっかりと自分を見据えていることに戸惑う。おまけに一糸纏わぬ裸体でのし掛かられて、 酔っ払いの悪ふざけと分かっていながら冷静に往なすことが出来なくなった。
 マッシュはエドガーが好きだった。家族として故国の王として誰よりも敬愛する気持ちと、それとは別の形の青臭い愛情をもうずっと前から、自身でも呆れるくらい幼少の頃から抱いていた。
 兄は忘れているだろうが、幼い頃は結婚の約束までしたのだ。マッシュはあの片手の指に満たない年の頃から、本気で約束の成就を夢見ていた。あり得ないことだと重々理解しながら、想いを捨て去ることはこうして大人になってもついぞ出来なかった。
 思春期に道を分かち、十年を経て再び出逢った想い人は実に凛々しく美しく成長していて、マッシュは燃え上がる胸の炎を内に抑えつけるのがやっとだった。無条件で信頼され傍に置かれる弟という立場だからこそ、絶対に表に出してはいけない感情だった。
 それが、この状況だ。愛する人がベッドの上で自分に跨り、おまけに下着ひとつ身につけていない。胸に抱える愛情はただの純愛ではない。肉欲も伴う恋情だ。普段見ることのない珊瑚色に染まった白い肌に目が眩むのをどうして堪えられようか。
「なあ、マッシュ」
 掠れ声で囁きながら、エドガーがぐいと顔を近づけて来た。酒の匂いが漂う呼気が鼻を擽るが、不思議と不快感はなく、それどころか腰がむず痒くなるような妙な高揚を感じてマッシュは息を呑んだ。
「おまえも脱いだらどうだ。気持ちが良いぞ」
 胸にかかる圧力に苦痛を覚える余裕すら無かった。こんなに至近距離で見つめ合ったことなどない──カラカラに渇いた口でええと、いや、その、と吃りながら場を繋げようとするが、目の前で揺れる睫毛の長さにすっかり舞い上がって目まぐるしく瞬きを繰り返す他はまともな言葉も出ず抵抗も出来なかった。
 ふと、エドガーが何かに気付いてキョトンと目を丸くし、目線を下ろす。マッシュの腹の下でむくりと盛り上がっている丘を見ているのだとすぐに理解できなかったマッシュは、やや遅れて悲鳴じみた情け無い声を漏らした。
「……なんだ、おまえ、……反応してるのか」
 羞恥よりも申し訳なさが勝った。
 気味が悪いと思われたに違いない。男で、しかも弟が悪ふざけで意図せぬ反応をするだなんて、どれほど不快なことか。
 エドガーの眼差しに軽蔑の色が浮かぶ瞬間を見たくないと恐れたにも拘らず、その恐怖故かマッシュは目を逸らすことが出来なかった。蒼白するマッシュの顔の前で、呆けたように丸かったエドガーの目がふいにふにゃりと細められた。
「そうか……、俺でも、反応してくれるのか。そうか……」
 マッシュが驚きに目を見開くのを余所に、エドガーは照れ臭そうな、しかし嬉しそうなはにかんだ笑みを見せた。理解の追いつかないマッシュの胸にエドガーは額をすり寄せ、肌を伝って下腹部へ手を伸ばそうとする。
 エドガーが何処を触ろうとしているのか勘付いたマッシュが慌てて身動いだ。もぞもぞと暴れる身体の上で若干居心地が悪そうに、それでも不明瞭な言動の割にはしっかりした手つきでエドガーがそこに触れる。
 ビクッと跳ねた腰の逃げ場がない。駄目だと制する声がまるで喉に引っかかっているようで、マッシュは自分が存外欲に弱い人間なのだと思い知る。
 辛うじて絞り出した「ダメだよ」という囁きは、駄目だなどと思っていないことが丸分かりの甘ったれた戯言だった。表してはいけない本心をそのまま口にしてしまった気分になって、いたたまれずに狼狽えて眉尻を下げる。
「いいだろ」
 エドガーの囁きは夢でも見ているようにうっとりとしていて、仄かに赤く縁取られた目の中央にある青がやけに潤んでいた。鼻にかかった声に蒸せるような酒の匂い。マッシュだって当然舐める程度の酒では済ませていないのだ。この空気に悪酔いする布石としては充分だった。
「いいだろ、なあ。お互い酔ってるんだ。多少悪いことしたって、酔った勢いで済ませられるさ。これだけ酔ってりゃ明日には忘れちまう。全部無かったことになる……」
 太腿に何かが当たり、マッシュの身体がビクッと揺れる。額とこめかみをゆっくりと擦りつけながら腰を寄せてくるエドガーもまた、やんわりと腹の下のものを膨らませていることに気づいたマッシュはそれからまともに思考が働かなくなった。
 これだけ密着して、相手は何も身につけていなくて。どちらも嫌がってはいない。寧ろ兄は誘っているではないか。
 二人とも酔っている。今なら酔いのせいにしてしまえる。叶えられるはずのなかった願いを叶えてしまえる最初で最後のチャンスなのかもしれない。一夜限りの過ちとして思い出にしてしまえば──アルコールの臭いに混じって漂う、エドガーの髪から香る甘い匂いがマッシュの行動を後押しした。
 触れた肩は外気のせいか想像より冷えていた。やや強めに両肩を掴んだのを転機に無防備な裸体を抱き寄せ、バネのように素早く身を起こしてベッドに愛する人の背を押しつけた。
 見下ろしたエドガーの表情はやはりどこかぼんやりとしていて、正気ではないことがよく分かる。──だからなんだ、自分だってもう正気ではない──夢の中にいるような蕩けた目で己を見つめる青い瞳が現に帰る前にと、マッシュは無抵抗の身体を抱き締めてその首筋に顔を埋めた。
 エドガーが愛用する香油の香りに混じってエドガー自身の体臭を直に吸い込む。これだけ密着したことで初めて嗅いだその匂いが、マッシュから理性を完全に奪った、はずだった。
「……夢でもいい……」
 耳を掠めた微かな呟きをマッシュは聞き逃さなかった。
 譫言のような、もしかすると寝言に近い類のふわふわとした芯のない声だった。自分に宛てられたものではないだろう呟きが酷く気になって、軽く顔を浮かせてエドガーの様子を横目で盗み見れば、睫毛を下睫毛に緩く被せた瞼と薄く開いた唇が恍惚を感じさせるまさに夢心地の表情だった。
「どうせ覚めれば許されないんだ……夢の中くらいは幸せでもいいだろ……、このまま夢に酔って……明日には全部忘れちまうくらいが丁度良い……」
 マッシュの顔が強張る。
 それは寝惚けて聞き取りにくいくぐもった声の、大抵の人間なら聞き流すべき独り言だった。
 しかしマッシュには出来なかった。エドガーの性格を熟知しているマッシュには、エドガーが叶わないことを前提に夢を見ていると勘付いてしまった。
 燃え盛っていた劣情がまるでスイッチを切られたかのように一瞬で凪ぐ。僅かな逡巡はあったが、やがてマッシュは胸の下で熱を求める身体をただ強く抱き締めて、その耳元で囁いた。
「兄貴、おやすみ。寝たら全部忘れられるよ。寝るまでこうしているから、何にも心配しないで、今夜のことは全部忘れよう……」
 低く、ゆっくりと囁いているうちに、腕の中の身体が弛緩していった。温かさに誘われたのか、元より泥酔していた限界がそこだったのか、マッシュの声を子守唄代わりにしてエドガーは寝息を立て始める。
 長い髪の解れを優しく指で解しながら、マッシュは白い額に頬を寄せた。
 お互い悪い夢に酔った。目覚めた時には全て忘れて無かったことにする──たとえ兄が断片的に覚えていたとしても、シラを切り通す覚悟を決めて。
 ──望みがあると分かったのなら、一夜限りの夢と割り切れるような諦めの良い男にはなれない。
 濡れた服を乾かさなければ。このままでは寒かろうが、下心を持つ身で眠っている相手を着替えさせるのは躊躇われる。せめて毛布をしっかり掛けて、冷やさないようにしてやろう。
 だけどせめて今はもう少しだけ、お互いに酔ったままで──束の間の夢の中、空が白むまでマッシュはエドガーを抱き締めていた。

(2020.11.27)