マエド365題
「40. なぐさめる」
(使用元:TOY様 http://toy.ohuda.com/ ご自由にどうぞ365題)


 石造りの螺旋階段を一段一段上るたび、コツ、コツと硬い音が壁に反響し、上へと抜けて広がっていく。
 頬を撫でるやや生温い空気は上を目指すにつれて徐々に乾いて、見上げた景色に青褐色の星空が覗いた頃にはすっかり冷えていた。
 最後の一段を踏み締めて一息、反響がなくなった硬質の靴音の余韻に浸りながら辺りを見渡す。
 城の中で一番高い位置に造られた見張り塔からの眺めには、周辺の砂漠やその先にある岩山を邪魔するものが何もなかった。
 マッシュが大きく息を吐くと、呼気は僅かに白い靄を作って掻き消えた。マントの合わせを寄せ、おもむろに吹き付けた風に目を瞑って乾きから守る。
 ゆっくりと目蓋を開いて顔を向けた東の方角に、目を留めるようなものは何も映らなかった。
 遠い向こうに闇に混じって、輪郭のぼやけた岩屑が瞬きごとに僅かにイメージを変えながらぞろりと並んでいるだけで、それは視界に広がる濡れ羽色の世界にほとんど溶け込んでしまっていた。
 胸を開いて深く息を吸い込む。冷えた空気が肺を満たし、頭の芯まで冴えていくような感覚に浸りながらもう一度目を閉じて、記憶に残る映像を蘇らせた。
 力強い太陽の光を掲げた薄藍の眩しい空の中、大きく千切れた白雲を突き刺すように聳える雄峰の山肌は土の露出が多く、見張り塔からの眺めでは僅かに茂る草木の色がぼんやりとしか捉えられない。
 まるで天と繋がっているかのような高嶺だった。
 かつてこの場所から羨望の眼差しで見つめた霊峰は、刺すような日差しの下でも、雨季に注がれる雨の下でも優美にそこに立っていた。砂嵐から地中に逃れ、浮上後に見張り塔へ駆け上がれば変わらずそこに聳え立ち、地上のことなど意に介さない堂々たる姿で大地に君臨していた、あの厳しくも美しい山。
 開いた目蓋の向こうには、闇にも負けない存在感の雄々しい山肌は見えず、ただ空虚な夜の空が地平線と混ざり合っているだけだった。
 世界の崩壊と共に消えてしまった過去の勇姿に思いを馳せて、ぽっかりと開いた空間を見つめるマッシュの目は真っ直ぐではあったが、僅かに寄せられた眉に寂寥が滲み出ていた。
 目を凝らしても望む景色は見えるはずがない。
 失われたものは還らない。
 全てを理解していながら夢の続きを追うように、時折乾いた風に吹き付けられて痛む瞳を守る他にはしっかりと眼を開いて、マッシュは東の地平線を見つめ続ける。
 引き締めた唇は何も語らず、ただ眼差しだけは雄弁にかつての景色に向けていた。
 ふと、コツン、コツンと遠くから硬い音が響いて来た。
 マッシュはハッと振り返る。今し方自身が上がってきたこの階段を、誰かが同じように上って来ている。
 靴音はゆっくりと確実に近づいて来ていた。ああ、と嘆息したマッシュは今度こそはっきりと顔を歪め、困ったように闇に視線を彷徨わせてから欄干を掴んで階段に背を向けた。
 靴音で分かる。誰が上がって来ているのか。そもそもここは市井の人が自由に出入り出来る場所ではない。
 マッシュはギュッと目を瞑って顔をくしゃくしゃに顰め、短く息を吐いてその目を大きく開いた。──こんな顔は見られたくないのだ。誰にも会いたくない夜に、ましてや一番見られたくない人に、こんな情けない顔を晒す訳には。
 強張ってはいたが、闇を睨むその目の青に力を取り戻したマッシュは、やがて現れるだろう人にかける第一声を何度も頭の中で反芻した。極力不自然さが出ないように、言うことを聞けとぎこちない笑みを作る頬を一叩きして。
 靴音の反響がほとんどなくなった。遂に、と身構えたマッシュは思わず力がこもって上がった肩を、ゆっくりと息を吐きながら下ろしていく。
 先に相手からの一声を待った。その声の調子で返答の内容を変えるつもりでいた。
 コト、と靴の音とは違う小さな音にピクッと背中が揺れる。まだ振り返る勇気は出なかった。自分はうまく表情を作れているだろうか、闇に向かって瞬きながら一際強く吹いた風に奥歯を噛み締めた時。
 コツン、コツンと靴音が再開した。
 マッシュは目を丸くし、顔を取り繕うことも忘れて振り返った。そこに立っていたであろう人の姿は無く、遠ざかる靴音は来訪者が立ち去ったことを示していた。
 靴音が聞こえる前と後とで何も変わりのないように見えた景色だが、ふと下ろした目線の先に何やら見つけてマッシュは恐々近づいていく。
 ワインの瓶と、小ぶりのワイングラス。ご丁寧に栓抜きまで添えられて、最初こそ呆気に取られたマッシュも誰が置いたかを考えればその意図は明白で、浮かんだ苦笑は泣き顔に似ていた。
 何もかもお見通しなのだろう。だから声をかけずに去ってくれたのだ。自分では酒を用意するなど考えもしなかった、と瓶とグラスを拾い上げ、塔の中央に陣取ってどっかりと腰を下ろした。
 あの人はあまりワインは好んでいなかったけれど、このお墨付きの品なら気に入ってくれるかもしれない。
 手酌でワインを注ぎ、東の方角に杯を掲げた。フッと漏れた溜息のような呼気が微かな靄となって視界を掠め、あの霊峰が纏っていた雲を思い起こさせた。
 目を閉じれば浮かんで来るかつての光景に心を寄せて、愛惜を添えて孤愁に浸る。
 消えない悔恨で疼く胸はそのままに、マッシュはゆっくりとグラスを傾けた。

(2020.12.31)