マエド365題
「41.可愛いワガママ」
(使用元:TOY様 http://toy.ohuda.com/ ご自由にどうぞ365題)


 開いた目蓋の向こう側、薄闇に覆われた天井を見つめて二度、三度と瞬きをした。
 身体が覚醒の準備を始める。起床直後の現状を把握し、自然と耳をそばだてた。隣から聞こえてくる規則的な呼吸に乱れがないことを確認して、その穏やかで平和な呼気の音にしばし聴き入る。自然と口角が上がった。
 そうっと身体を起こした途端、冷えた外気に肩から背を撫で下ろされて肌が粟立つ。そのザラついた肌に怯むことなく、起こした身体を少しずつベッドの端へと移動させていった。慎重に、気づかれることのないように。
 息を殺して気配も殺して、ベッドを揺らさないよう、傍で寝息を立てている人の目蓋を震わせることがないように、静かに静かに暖かな温もりから名残惜しくも抜け出ようとしたのに。
 足が床に着くまであとほんの少しのところだった。──背後から伸びてきたしなやかな腕が、艶かしくも力強く腰回りへ絡み付いてきた時、マッシュは自分がしくじったことを即座に悟った。
 本来なら失態に舌打ちのひとつでもするところだった。しかし反してマッシュの口元は緩んだ。せめて歯を見せないよう、取り繕うように引き締めた唇は不格好に歪んでしまった。
 奇妙な表情のまま振り向けば、伏した体勢でマッシュの腰にしがみついている相手の金色の頭頂部が見えた。とうとうマッシュの目尻は完全に下がる。
 相手はまだ顔を上げていない。マッシュの腰に額を押し付けて無言の圧をかけてくる。マッシュは弛んだ顔に苦笑を重ねて、まだ薄明の仄暗い部屋でも艶めいて見える頭髪を撫でながら囁いた。
「ごめんな、起こしちゃったか」
 腰を掴んで蹲っているマッシュの兄エドガーは、その声にようやく顔を上げた。──本人はそのつもりだったのだろうが、側から見れば重い頭をごく軽く擡げた程度のものだった。
 垂れ落ちた前髪の隙間から僅かに見えた兄の目はほとんど目蓋に隠れていて、その奥にある青い輝きを拝むのは難しい。
「……もう、行くのか」
 寝ぼけた声は暗にマッシュを責めていた。マッシュは苦笑いを深めて、答える代わりにもう一度エドガーの頭を撫でる。
 周囲からは物音一つ聞こえない夜明け前。間も無く昇る太陽を臨みながら修行で汗を流す予定のマッシュにとって、最大の難関はこの起床の瞬間だった。
 マッシュが身体を起こすまで隣ですやすやと眠っていたはずのエドガーは、今はマッシュの腰にかじりつきながらもほぼほぼ目が開いていない。
 当然だ、まだ普通の人間は起きなくて良い時間なのだ。ましてやエドガーは、先日立ち寄ったフィガロ城から持ち帰った書類の束と連日連夜の睨めっこを続ける身である。寧ろ他者より長く寝ていて欲しいくらいだった。
 だからこそ起こさないよう細心の注意を払ってベッドを抜け出るつもりだったのに、大きな身体の存在感が裏目に出たのかまんまと気付かれてしまった。
「もう少し、いいだろう……」
「でも、修行が」
「嫌だ。お前がいないと、寒い……」
 頬を脇腹に擦り寄せて夢現にそんなことを言われてしまうと、厳しく在ろうとする気持ちが端からじんわり溶けていく。
 肩が早朝の室温に冷やされるのとは裏腹に、捕らえられた腰回りには熱が伝わってくる。素肌の温もりは全力でマッシュを引き留めにかかっていた。
 腹を引っ掻いて訴えてくる指先の弱々しさがたまらなく愛しくて、とうとうマッシュは誘惑に完敗した。
「……分かった、あと少しだけ。兄貴ももう一度ちゃんと寝るんだよ」
 引き戻されたベッドのシーツに背を埋めると、待ちかねたとばかりにエドガーが胸に体重を預けてきた。
 丁度心臓が脈打つ位置を枕と定めて、遠慮なく脱力したエドガーの細く熱い吐息が肌を掠める。
 解れた髪が肩を擽った。手櫛で纏めるようにマッシュがゆるゆると兄の髪を撫でていると、胸に触れているエドガーの頬が僅かに動く気配を感じた。大きく揺らさないようそっと頭を傾けて覗き込むと、目を閉じたままのエドガーの緩んだ口の両端が満足気に持ち上がっているのが見えた。
 なんとまあ、屈託のないことか。
 思わずマッシュも同じ顔をして、エドガーの額に唇を寄せる。寒がりで甘えたがりの兄を振り解いて置いて行くなんて、未熟者の自分にはとても出来そうにない。
「おやすみ」
 二度目の眠りは深いだろう。今度こそエドガーがマッシュの不在で覚醒することなく穏やかに眠り続けるその時まで、今は自分も温もりに浸ろうとマッシュは静かに目を伏せた。



 自分用のトレイに朝食のメニューを一通り乗せてテーブルに置き、それとは別に新たなトレイを手に取ったところで食堂にやって来たカイエンが目敏く声をかけてきた。
「マッシュ殿、おはようでござる。……エドガー殿の分ですかな」
「おはようカイエン。ああ、まだ寝てるから持って行ってやろうと思って」
 マッシュは朗らかに答え、トレイ片手に再び朝食のメニューが並んだカウンターに向かう。
 好みが千差万別の仲間全員が満足するよう、いつしかめいめいが好きなものを好きなだけ選べるビュッフェ方式になっていた朝食会場にて、サラダの量はこれくらい、フルーツは多めに、チーズはこんなもんかと時折小声で呟きながらマッシュがエドガーのための朝食をひょいひょいと皿に乗せていると、隣で自身の朝食を取り分けていたカイエンがにこやかな目を向けていることに気づいた。
「昨夜も遅くまで仕事を?」
 カイエンの問いが自分ではなく兄へのものだと理解したマッシュは、頷きながらカゴに残るバゲットの中から一番形の良いものを選ぶ。
「うん、ここのところずっと忙しそうでさ」
「城を空けている分やることが多いのでござろうな。今日は遠出の予定もなし、ゆっくりなさるよう伝えてくだされ」
「ありがとう、伝えとくよ」
 ささやかな会話の間にも食堂には続々仲間が集まって来ていた。
 本日の食事当番でもあったティナとセリスが何かを笑って話しながらトレイを手に取り、リルムはストラゴスの手を引いて真っ先に大好きなイチゴの元へと向かっていた。気怠げに髪を掻き上げながらやって来たセッツァーは小さく欠伸をひとつ、朝食を選ぶ前にまずはコーヒーを飲みに行く。賑やかになって来た食堂に、やはりまだエドガーの気配はない。
「おはよう、マッシュ。……いつもより食べる量、少ないのね?」
 いつの間に隣まで来ていたのか、マッシュが手にしているエドガーの朝食を不思議そうに横から覗き込んで、ティナが首を傾げて尋ねてきた。マッシュは笑って兄貴のだよと返す。
「兄貴、まだ寝てるから部屋に持って行ってやるんだ」
「そうなの。マッシュ、具合でも悪いのかと思って心配しちゃった」
「おいおい、俺がどんだけ食べると思ってるんだよ」
 高らかに笑えばティナも笑い返した。ティナは笑顔のまま、多めに盛られたフルーツを興味深く眺めている。
「エドガー、フルーツ好きなのね」
「ああ、兄貴は頭使うから甘いものたくさん食べてもらおうと思って」
「甘いものは頭にいいの?」
「そうだよ、糖分は大事なんだ。兄貴はずーっといろんなこと考えてるからさ、朝のフルーツと午後のお菓子は欠かさないようにしてるんだよ。足りないと機嫌が悪くなって大変だからな」
「おいおい、人を駄々っ子みたいに言わないでくれ」
 会話に割り入った第三の声に釣られて振り向くと、マッシュとティナの真後ろにしっかり身支度を整えたエドガーが不満顔で立っていた。
「別に菓子がないくらいで不機嫌になったりなんかしないさ」
 ほんの少しだけ上唇を尖らせてマッシュに向かってそう言うと、エドガーは今度はティナに顔を向けて柔らかく口角を上げた。
「たとえフルーツが無くとも、こうして朝の陽の光よりも眩しいティナの笑顔を見ることが出来たら私は一日絶好調だよ」
 ティナは小首を傾げて二度ほど大きく瞬きをする。
「でも甘いものがあった方がいいんでしょう?」
 先の言葉の確認のためにマッシュを仰ぎ見たティナの手から素早くトレイを受け取り、もう片方の手ですかさずティナの右手を取って恭しく持ち上げたエドガーは、軽いウィンクと共に囁いた。
「そうだな、例えば午後のティータイムを共に過ごす相手が君であれば、どんなにスパイシーなクッキーだって砂糖菓子より甘く感じられるだろうね」
 ティナの眉間に僅かに皺が寄せられた。純粋に「意味が分からない」という顔をしたティナを見て思わず苦笑したマッシュの傍で、一連のやり取りを見守っていたのだろうセッツァーがボソリと小声で吐き捨てる。
「面倒くせえ男だな、お前の兄貴は」
 小声でありながら低音がよく響いたその呟きは本人の耳にも届いたようで、エドガーがムッとして顔を上げた。
 マッシュは数秒考える。
 今は隙なく身なりを整えているが、鶏鳴の頃には髪を乱してほとんど開いていない目のままマッシュにしがみついていた。
 あれから一人で目覚めたエドガーは、重たい瞼をこじ開け何やらブツブツと文句など呟きながら身支度し、それまでの姿が嘘のように、相手に伝わらない美辞麗句などしれっと並べ連ねて気取っているのだ。
 あの縺れた髪を寝惚けながら気怠げに梳いている姿を想像すると、可笑しくて可愛らしい。
「かもな」
 セッツァーへのマッシュの答えに、エドガーははっきり不服の意を込めた眼差しを向けてきた。
「なんだとマッシュ、お前まで」
 苦情を横目でいなしながら、マッシュはエドガーの手からトレイを取り上げてティナへと返す。
 さり気なく自分とティナの間に割って入って来ていたエドガーが愛しい。マッシュは空になったエドガーの手に、兄のために取り分けた食事が乗るトレイを渡して微笑んだ。
 この人が誰より可愛い人だと知っているのは自分だけでいいなんて、そう思うのはワガママだろうか。
 微笑みの意図を測りかねて眉を寄せるエドガーへ、マッシュは大切な秘密を抱えた子供のように悪戯気に笑ってみせた。

(2021.6.11)