ほんの少しの不注意だった。 書類にサインをしている途中でやりかけだった仕事をひとつ思い出し、進捗はどこまでだったかと振り向こうとした時に自分がストールを肩にかけていたことを思い出して、動きを止めたが間に合わなかった。 翻ったストールの端が卓上のインク瓶に運悪く当たり、無情にも倒れて黒い水面が広がっていく──動きを止めたせいで卓上に留まってしまったストールにもべったりと漆黒の染みを作りつつ。 これは洗っても落ちないだろうと、ここ何年か愛用していた翡翠色のストールとの別れを決意し、女官を呼んで片付けを依頼する。全て綺麗になった机に向き直り、肩の肌寒さに溜息をついた時に執務室のドアが開いた。ひょこっと覗いたマッシュの顔につい顔が綻ぶ。 「おかえり。目当てのものは手に入ったか?」 サウスフィガロまで買い物に出ていたマッシュはフード付きのマントを外しながらにっこり笑って頷いた。 「ああ、全部。それから、これ」 差し出された紙袋を受け取り、はて何か頼んでいただろうかと中を覗くと、綺麗な浅葱色の布地が見えた。 取り出して開いてみると思いの外大きく広がり、同色の房が辺に揃っているのを見てストールだと気づく。驚いてマッシュを見ると、弟は何でもない事のように軽く首を傾げながら「おみやげ」と呟いた。 「通りかかった店で飾られててさ。兄貴に似合いそうだなって」 にこにこと屈託無く笑うマッシュが先ほどの出来事を知るはずもなく、あまりにタイムリーな贈り物にしばらくぽかんと口を開けてしまったが、柔らかな手触りはすでに触れている手を暖めてくれていて、その熱にふっと微笑んだ。 「ありがとう。丁度欲しかった」 早速寂しがっていた肩に羽織ると、ひんやりしていた空気が一変した。前に使っていたものよりほんの少し大きめのようで、背中まで抱き締められているように暖かい。 「ああ、やっぱり似合うな」 微かに細めた目で見つめられて照れ臭さに目を逸らした。普段自分の服装に意見など言うことのないマッシュが、似合うと思って選んでくれたことに気恥かしさと嬉しさを感じて胸が疼く。 「良かったら使ってくれよ」 満足げなマッシュに、勿論、と笑い返した。 * そろそろ頃合いかと時計を見たのと同時に絶妙なタイミングで控え目なノックが聞こえ、半ば苦笑しながら「どうぞ」と返す。思った通り、ドアを開けて入ってきたのはマッシュだった。その手にはトレイ、トレイの上にはポットとカップ。 「やっぱり起きてたのか。まだ仕事?」 尋ねながらローテーブルで茶の準備を進めるマッシュに、立ち上がって軽く肩を回しながら答える。 「いや、丁度区切りがついたところだ。もう休もうと思ってた」 「ああ、じゃあ少し持ってくるのが遅かったか」 「そんなことはないさ。いただくよ」 ずり落ちそうになるストールを肩にかけ直し、執務用の机からソファへ移動してマッシュの向かいに腰を下ろす。マッシュが用意してくれたカップを手にして口をつけ、身体の内から温められてほっと息が漏れた。 マッシュは穏やかに微笑しながらじいっと視線をこちらに向け、おもむろに口を開く。 「……それ、気に入ってくれたみたいだな」 それ、というのが今まさに肩にかけているストールを指していると気づいて相槌を打った。 「ああ、軽くて暖かくて気に入っているよ」 「前に使ってたやつは?」 「あれな、お前がこれをくれた日に駄目にしてしまったんだ。お陰で助かったんだよ」 「そうか、だからか……」 マッシュは軽く目を細めて笑いながら身を乗り出し、膝に肘を乗せて身体を支えながらそっとエドガーに囁いた。 「全く寄る気がなかったのに、店の前を通った瞬間呼ばれたみたいに振り向いちまった。あれは兄貴のおねだりだったんだな」 言いがかりだと吹き出して、また少しずれたストールを引き上げた。マッシュは微笑んだまま身体を起こすとふいに立ち上がり、自分の座るソファの後ろ側へと移動する。振り返ろうとした時、ストールをはらりと落とされて肩と背中が冷えたのはほんの一瞬、すぐに熱いくらいの太い腕にぎゅうっと抱き締められて息を呑む。 「……もう、仕事おしまいだろ?」 「……ああ……」 そっと首を回して振り向くと、目を閉じるのも間に合わないほど素早く唇が塞がれた。何度か啄ばまれて、より深く重なった感触を味わうためにようやく目を閉じる。ソファに蹲ったストールを再び羽織るのは夜が明けてからになりそうだ。 |