アンケートより
第1位『ベッドに潜り込む』


 女官に手渡された就寝前の苦い薬を口に含んで眉を顰め、空いた器を返すと女官は恭しく頭を下げた。おやすみなさいませ、と定型の挨拶の後に扉が閉まれば、この広い寝室に一人きりで朝まで過ごさなければならない。
 マッシュは小さく溜息をつき、起こしていた上半身を枕に倒した。熱はほぼ下がり、明日には元の生活に戻れるだろう。そして昼間に散々眠り過ぎて、城中が寝静まるこの時間にはすっかり目が冴えてしまっている。ここからの夜明けは長い。
 一昨日から寝込んで何も出来なかった。機械工学の講習も、ダンカン師匠の稽古も、兄と遊ぶことも。先週訪れた城下町からの帰城後に熱が出たため、病を貰ったのだろうとこれ以上の感染を防ぐために兄を遠ざけられてしまった。丸二日会えていない寂しさに溜息は止まらない。
 眠気は無くともやることもなく、枕元の灯りを落とそうと再び身体を起こしかけた時、ふと自分一人だけのベッドに軋むような感覚があり足元を見る。マッシュは目を見開いた。足元の毛布が盛り上がっている。何かが中でもぞもぞと動き、塊がマッシュの方へと移動して来るではないか。
 おばけ、と唇が動いたが恐怖で声が出ない。塊はゆっくりと近づいてくる。ちちうえ、と掠れた息を絞り出すがまだ音にはならない。震える唇でロニ、とようやく耳に聴こえる程度に呟くと、毛布を跳ね飛ばすように中から塊の正体が現れた。
「バレたか」
 悲鳴をギリギリで飲み込む。戯けた声の持ち主が頭に毛布を被ってマッシュの足の間から顔を出していた。悪戯っぽく笑う兄の顔をそこに認め、マッシュはぽかんと口を開けて肩の力を抜いた。
「びっ……くりした……」
「それなら成功だ、脅かそうと思ったんだから」
「どうやって来たの?」
「さっき寝る前の薬運んで来てただろ、その隙にこっそりドアから忍び込んだんだよ。酷いんだ、レネの部屋はすぐ鍵がかけられて入っちゃダメだって言うんだぜ」
「だって移るかもしれないよ」
「俺はヘーキ!」
 すっかり毛布から頭を出した兄は、くしゃくしゃに乱れて顔に垂れた金髪を乱暴に掻き上げて、マッシュの隣に並んでにっこり笑う。
「前言ってたもんな、眠くないんだろ。俺と話せば退屈しないさ」
「でも、ロニの寝る時間が……」
「大丈夫! 冷やしてぶり返したら良くないな」
 兄はマッシュの身体を横たわらせ、自身も隣に転がって毛布を肩まで引き上げた。戸惑うマッシュが首を向ければ悪びれない兄の笑顔が傍にある。どうやらこのまま夜を明かすつもりらしい。
「レネのために新しい本を読んできたんだ。聞かせてやるから、眠くなったら寝ていいからな」
 そう前置きした兄は、空を駆ける空賊の冒険活劇を話し始めた。ばあやが聞いたら目を剥きそうな奇想天外な物語は、兄が面白おかしく話すことによってマッシュをより興味深く惹きつける。
 話し続けて疲れが出たのか、語り手は時折眠そうに目を擦り呂律が回らなくなり、やがてマッシュの頭に自分の頭を寄せて寝息を立て始めた。触れ合う肩から伝わる温もりに顔を綻ばせたマッシュは、すんなりと眠気を感じて目を閉じる。
 翌朝寝過ごした兄はマッシュの隣でばあやに散々叱られたが、こちらを向いて小さく舌を出したところを見ると反省はしていないようだ。
 マッシュもまた、一人きりではあんなにも長い夜があっという間に過ぎたことに驚きながら、もしまた寂しい時間が来た時は兄が忍んで来ますようにとささやかに祈るのだった。

(2017.10.23)