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「……先の戦争で滅んでいたか」
 ほぼ丸一日歩き通しで辿り着いた村は朽ち、全壊もしくは半壊の家屋の名残が十数件見られ、かろうじて奥にある教会だけは屋根も壁も生きている状態ではあったが、人の気配は皆無だった。
 元は道があっただろう地面は雑草が生い茂って白い野花がそこら中を敷き詰め、世界に緑が戻ってからも長く人が立ち入らなかったことが分かる。当然寝食を満たす設備などあるはずもないが、あと一時間もすれば日暮れという時刻もあってここで夜を過ごそうと、エドガーとマッシュは寂れた教会の扉を開いた。
 傾きかかった陽の光が鮮やかに照らす天井付近のステンドグラスを見上げ、エドガーがぽつりと呟く。
「……城は大騒ぎだろうか」
 肩に担いでいた荷物を下ろしたマッシュは、一瞬押し黙り、それから静かに口を開いた。
「……いや。騒がれてはいないと思うよ」
 その言葉に眉を顰めたエドガーが背後のマッシュを振り返る。何故、とその目は問い質していた。──覚悟を決めた旅の筈だ。肩書きを捨て祖国を捨て、責任もかなぐり捨てて二人だけで生きるために城を出てきたというのに。
 マッシュは穏やかな瞳でじっとエドガーを見つめ、低く優しい声を紡いで宥めるように話した。
「……大臣宛に手紙を置いて来ている。数日で戻るから、心配しないでくれと」
「数日で……、とはどういうことだ……。俺は、俺たちは、この先ずっと」
「兄貴は国を捨てられない」
 エドガーが声を詰まらせる。
 マッシュの目は凪いでいて落ち着いており、しかし口調は優しくありながらもはっきりとしていた。
「……この三日、無意識に何度も西を振り返ってたよな。置いて来た人たちや残して来た仕事が気になるんだろう? 兄貴は、無理だよ。国を捨てては生きられない」
「しかし、……しかし、俺は覚悟を決めて、お前と……!」
「兄貴」
 呼びかけには暖かい熱がこもっていた。顔を強張らせて対峙するエドガーをやや強引に抱き寄せたマッシュは、その胸にきつく兄の身体を収めて柔らかな金髪に指を差し入れる。
「……俺一人のものにはできなかったけど、誰よりも愛してるよ。これからもずっと」
「……マッシュ」
「ごめんな、拐ってやれなくて」
 エドガーは唇を噛み、マッシュの胸に爪を立てた。指先は微かに震えていた。気を抜くと嗚咽を漏らしてしまいそうな、そんな心の昂りを必死で押さえ込んでいた時、そっと腕の力を緩めたマッシュがエドガーの両肩に手を添えて正面から目と目を合わせる。慈愛すら感じる微笑みだった。
「折角教会にいるんだ。式でも挙げようか」
 マッシュの言葉にエドガーの潤んだ瞳が丸くなる。マッシュは辺りを見渡し、あ、と何か思いついた顔をして、少し待っててと言い残して足早に教会を飛び出した。呆然と立ち尽くすエドガーの元にマッシュが戻って来た時、その手には二本の野花が長い茎ごと摘まれて握られていた。
 マッシュはエドガーの左手を取り、その薬指の根元に無骨な手で野花を括り付ける。白く小さな花がまるで指輪のように薬指に鎮座し、エドガーは指を揃えてその花をまじまじと見た。次いでマッシュが自分の左手の薬指にも花を結ぼうと苦戦し、ようやくほろ苦い笑みを見せたエドガーがそっと手を伸ばす。マッシュの手から野花を受け取り、薬指に結び付けた。マッシュが照れ臭そうに笑う。今度はエドガーも素直に笑った。
「えーと、何だっけ。汝病める時も健やかなる時も……」
「……喜びの時も、哀しみの時も、富める時も、貧しい時も。これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け……」
 ──その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?
 エドガーが見上げたマッシュの瞳は真っ直ぐに心を貫き、その光に偽りなどないことを疑わせない強さがあった。
「……誓います」
 マッシュはきっぱりと告げ、エドガーからの返事を待たずに震えを堪える唇に口付けた。
 マッシュの愛情に間違いはなく、その愛に全てを懸けて応えたかった──しかしそれは自分には無理であったことを知っていながら、マッシュはここまで付き合ってくれたのだ。
 結び合ったエンゲージリングも朝が来れば萎れて枯れてしまうだろう。二人きりでいられるのは夜が明けるまで──魔法は全て消えたのだ。
「……明日、帰ろう。フィガロに」
 強く抱き締められたマッシュの腕の中、エドガーは黙って小さく頷き、その瞳の端から転がり落ちた雫をマッシュの胸に押し付けた。

(2017.12.06)