「過去に気になった男がいてすったもんだあったけど
今愛してるのはお前だけ」なお話の中間をぶった切ったもの
(導入部とエンディングのみダイジェストでお楽しみください)


 その日のフィガロ城は何処か物々しい様子で、いつもはここ最近の平和な空気に当てられて気が抜けたような顔をしている門番たちも背筋を正してセッツァーを出迎えてくれた。
 勿論彼らが緊張しているのはふらりと訪れた自分に対してではないことを理解したセッツァーは、案内を断り勝手知ったる友の城を自由に歩いて主人のいる執務室をノックする。
 招き入れてくれた部屋の主の弟であるマッシュの平服に比べて、王たるエドガーは正装に程近い畏まった衣装を身につけていた。やはり今日は何かあるのだな、とセッツァーは肩を竦める。
「誰かお偉いさんでも来んのか」
「ご名答。旧帝国の使者を迎える予定だ。そんな訳で私はこの後時間が空きそうにない、相手がマッシュで良ければゆっくりしていってくれ」
 さらりと告げたエドガーに対してマッシュが若干不服そうな顔になり、それを見たセッツァーもまた眉間に小さな皺を寄せた。そんな二人に対して揶揄うように顔を綻ばせたエドガーが戯けて告げる。
「どうせ遊びに来たんだろう?」
「まあ近くを通りかかったってのが理由には一番近いな」
「マッシュ、厨房にセッツァーの分の夕食も用意させなさい。良かったな、一人だけで食事をしなくて済むぞ」
 軽く笑ったエドガーは時計を見ながら立ち上がり、そろそろかと呟く。マッシュが素人目にも上質と分かるマントを兄の背に装着させている間、旧帝国という単語を脳内で繰り返したセッツァーは先の戦乱で壊滅状態になった首都の惨状を思い出していた。
 あれから二年。各地で芽吹く復興の兆しがようやくあの国にも見られるようになってきたらしいとは空を流して聞き及んでいたが、実質世界を統率するフィガロの王と会談できるような機関が立ち直っている現状を思うと、月日の流れを嫌でも思い知らされる。
 部屋を出るエドガーに続いて廊下に出たマッシュのように、王の堂々たる背中に見惚れる訳でもないセッツァーは、エドガーから少し離れた位置でひょこひょこと後をついていくマッシュの隣に仕方なく並んで歩いた。
「お前、別に会議に参加しないんだろ」
 エドガーには聞こえない程度の声量で尋ねると、マッシュは当然とばかりに答えた。
「護衛だよ。城内でも万が一があるからな」
「フーン……、ま、用心に越したこたぁねぇな」
「セッツァーどうせ暇なんだろ? 折角来たんだ、二、三日ゆっくりしてけよ。兄貴は明日まで客の相手しないとなんないだろうし──」
 長い廊下の角を曲がりながら、ふいに言葉を切ったマッシュが前方を見て足を止めた。マッシュに顔を向けていたセッツァーもつられて立ち止まり、彼と同じ方向へ首を回した。
 開けた通路の先にいるエドガーが動かなくなっている。彼が佇むその先に、予定より早い到着だったのだろうか、帝国の使者と思しき男の姿が三人分。
 そのうち後ろに二人を従えて先頭に立つ、齢は四十を越えた程度の体格の良い男性を曲がり角の壁から覗き込むようにして認めたセッツァーは、あれが大将格かと瞬きをする。しかし凛とした男の顔に見覚えはなく、かつて帝国に乗り込んだ時に会った記憶はない。
 帝国にあんな奴いたか? ──そうマッシュに耳打ちしようとした時、エドガーが微かに後退ったのが視界に入ってつい眉を顰めた。
「……、あ……」
 小さく息をついたエドガーに反応するように、男性はゆっくりと頭を下げた。
「お久しゅうございます、エドガー・フィガロ国王陛下」
 この位置からではエドガーの横顔を斜め後ろから覗き見る程度だが、それでも日頃余裕綽々としている男が青い瞳を見開いている様は珍しいもので、興味を引かれたセッツァーは兄と同じく固まっているマッシュを肘で小突いた。
「おい、あの男誰だ」
 そこで初めてセッツァーに気づいたような顔をしたマッシュは、首を横に振ってみせる。
「知らねえ。俺は見たことない」
「古い知り合いっぽいけどな」
「俺、あんまり表には出てなかったから……」
 マッシュも兄の様子がおかしいことを不審に思っているのだろう、心配そうに伺いながらもいつでも飛び出せるような体勢を整えている。
 エドガーは数度瞬きをしてから強張っていた表情を和らげ、目線を男から外さずにごく小さな動きで首を左右に振った。
「流浪の旅に出られたと……、お戻りになったのですね」
「故国の大事とあらば。支えるべき主はもうおりませんが……苦しい思いをしている国民のためにも、本日は有意義な話し合いを望みます」
 低めではあるがよく通る男の声がセッツァーやマッシュのいる場所にも心地よく響いてくる。穏やかではあるが芯の通った、誠実さを音にしたような声だった。
 エドガーは微かに口角を上げ、こちらこそ、と小さく呟く。その掠れた声がらしくないとセッツァーが目を瞠ると、エドガーの瞳がどこか遠くを見るようにぼんやりと揺らいでいるのが横顔でも分かった。
 エドガーの視線の先にいる男は品良く微笑み、切れ長の目を細めてみせた。
「……凛々しく成長なされた」
 エドガーはその言葉にハッとするように軽く顎を上げ、すぐに俯きがちに目線を落として戸惑いを誤魔化したようだった。その頬が確かに微かな朱に染まったのを見届けたセッツァーは、思わず顔は動かさずに横目で隣のマッシュの様子を伺う。
 マッシュは普段の快活な彼らしからぬ青い額で、呆然とエドガーの挙動を見つめていた。マッシュならばセッツァーよりも聡く感じ取っているだろう、彼の兄であり恋人でもある男が今どんな表情をしているかを。
 エドガーは一言二言男に返し、男もまた落ち着いた声色で返答して、二人と残りの使者は正式な会談を開始するべく再び歩みを進めた。その後を追う気配がないマッシュに焦れたセッツァーは、おい、と硬直している大きな身体に声をかける。
「行っちまったぞ、いいのかよ」
「……会議室は、俺は入れない……」
「……、親しそうだったな」
 セッツァーがぼそりと呟くとマッシュは言葉を詰まらせた。緩やかなへの字に弧を描いた唇を僅かに震わせ、眉間に深い峡谷を作ったマッシュは、突然ハッとしたように目を見開いたかと思うとすぐに表情を曇らせ眉尻を下げる。その百面相ぶりに慄いたセッツァーは、大きな背中を丸めたマッシュを下から覗き込んで怖々尋ねた。
「……大丈夫か?」
「さっきの……あいつ、知らない奴だけど、誰かに似てると思ったら……」
「思ったら?」
「……親父に似てる」
 苦々しく絞り出したマッシュの言葉に目を丸くしたセッツァーは、眼球を上向きにくるりと半周させて意味を噛み砕き、難しく眉を寄せて目を細めた。
「あー……ひとつ聞くが」
「……何」
「お前の兄貴って、ファザコン?」
 マッシュは再びへの字の口に戻り、焦りと悲しみがごちゃごちゃに混ざったような複雑な顔をして、黙って小さく頷いた。
 セッツァーは溜息をつきながらゆっくり頭を振り、御愁傷様、と返すことしかできなかった。




 ***




「だって、俺。どれだけ強くなったって兄貴の年は越せねえし、ずっと弟のままだもん……」
 体格に似合わないか細い声で呟いたマッシュに苦笑したエドガーは、ベッドに腰掛けるマッシュの正面に跪くように膝をつき、太腿の間にだらりと垂れていた弟の両手を取り上げた。
 自分よりも僅かに大きめの、肉厚の手のひらを包むように持ち上げたエドガーは、顎を上げてマッシュを見上げる。その優しい眼差しと穏やかな微笑を前に、マッシュはますます眉尻を下げて肩を竦ませた。
「マッシュ。卑屈なことを言うな。俺は望んでお前の傍にいるんだ……他の誰かとお前を比べたこともない」
「……でも、気になってたろ」
「珍しく意地が悪いな」
 戯けたように軽く眉を上げるエドガーを恨めしそうに睨むマッシュに、エドガーはまた苦笑いして包んでいた大きな手をそっと撫で始めた。
「あの人は恩人だ。即位し立てでそこら中が敵だと思い込んでいた俺に世界の見方を教えてくれた」
 息継ぎに数秒間を空けたエドガーは、昔を懐かしむように伏せがちな瞼の先で睫毛を揺らす。
「憧れがなかったと言えば嘘になるがな。十五も下の子供などまともに相手もされんよ」
「い、今は……?」
 恐る恐る尋ねるマッシュの真剣な目にエドガーは微笑み、マッシュの手をやや強く握り締めた。
「何を言ってる。今俺の目の前にいるのは誰だ」
 エドガーの言葉にマッシュは返事を詰まらせる。
「あれだけ肌を重ねても分からんのか。俺がどれだけお前と言う存在に頼り、縋り、救われているか……」
「……でも俺、兄貴に迷惑かけてばっかりだ」
「俺は迷惑だとは思っちゃいない」
 握り締めた手を掲げて指の節に唇を押し当てたエドガーは、今度はしっかり見開いた瞳で真っ直ぐに同じ青の瞳を見据えた。
「お前は俺が生涯を預けた相手だ。同時にただ一人の家族でもある……なあマッシュ、ありのままのお前が俺には必要なんだよ。他の誰かと比べる必要も、無理して背伸びすることもない。今のお前と共に二人で歩いて行ければ俺はそれでいい──それがいい」
「兄貴……」
 まだ自信なさげに揺れている青い目のために、エドガーは薄っすら汗ばむほど握っていたマッシュの手を離してその両手のひらで無精髭が残る頬を包む。覗き込まれていると言うのに上目がちにエドガーを見つめる眼差しが胸を擽り、エドガーはそのまま額に優しく口付けた。
 顔が近づいたことで一度ぎゅっと目を瞑ったマッシュは、そっと開いた瞼の隙間から怖々とエドガーの目を捉え、怯えたような、いやエドガーにとっては甘えと感じる仕草で軽く小首を傾げてぼそりと呟く。
「……俺、兄貴を誰かに取られるのは嫌だ」
「お前のものだよ」
「その自信がない……」
「じゃあ何度でも言う」
 短く告げたエドガーは、マッシュの顔を両手で包んだままもう一度額に唇を当て、「お前が好き」と囁いた。
 それから滑り落ちるように肌を辿った唇の動きで自然と閉じた瞼の上にもキスを落とし、鼻先にも小さく啄ばむように。
「好きだよ、マッシュ」
 自身の親指に重ねながら両の頬にキスをして、最後に唇に一度押し当て、目線を合わせたまま顔を傾けやや深めに口付けた。
 小刻みに食んでから上唇だけをひと舐めし、もう一度唇全てを包むようにキスをすると、開いたままのマッシュの目の縁が薄っすら赤らむ。睫毛が触れ合いそうな位置で瞬きをしたエドガーは、息苦しそうに顔を歪ませるマッシュの頭を抱き込むように大きく撫で、再び頬を包んで音を立てて最後の口付けを送った。
「愛してる」
 目と目を合わせて言葉を捧げれば、微かに潤んだマッシュの瞳が蕩けているのが容易に見て取れた。
「我慢、できない」
 切羽詰まった呟きに微笑んだエドガーは、ようやく静かに目を閉じた。
「俺もお前が欲しい」
 引き金となった言葉に諍わず、噛みつくように口付けてきたマッシュの舌がエドガーの口内に押し入ってくる。力を抜いて動きに応えたエドガーはマッシュの頭をしっかりと抱き、有り余る熱を受け止めた。


『あの時、あの言葉を告げたのが今の貴方であったなら抑えが効かなかったかもしれない』

 最後の会話はまだマッシュには秘密にしておこう──エドガーは降り注ぐ雨のような口付けを受けながら、ほろ苦い笑みを見せて先の言葉を告げた彼の人の姿を脳裏に浮かべた。
 若気の至りをほいほい想い人に白状できるほど過去のことではない。せめてあの人と同じくらいの歳になるまでは、と自分たちの中年の姿を想像して含み笑いを漏らしかけ、誤魔化すようにマッシュの首にしがみ付いて項に鼻を擦り寄せた。
 そして頭を空っぽにする。流れ込んでくるマッシュの愛で満たすために。愛する人と交わる時に他の男を思い浮かべるのはこれが最後だと自分を戒め、全ての意識を大切な存在に注ぐべく心を捧げた。
 一緒に歳を取ろう。エドガーにとって最上のプロポーズを唇に添え、熱を持った耳朶を咥えて微笑んだ。

(2018.01.18)