Eternal




 勧められた異国の香りが漂う琥珀色の茶を啜りながら、マッシュは訪れてからまだ数十分の室内を改めて見渡した。窓辺をごちゃごちゃと動物のマスコット人形が飾り、野花を活けている花瓶も奇妙と称して差し支えないほどには独特の形状である。
 何より壁に貼られた大小様々な絵画が彼女らしいと、マッシュの目が穏やかに細められた。絵の良し悪しなどさっぱり分からないが、飾られた絵画からは生きる活力のようなものが伝わってくる──いらない絵があるなら城に持ち帰らせてもらえないか頼んでみようかとマッシュがぼんやり考えていた時、お待ちどうさま、とテーブルに陶器の皿が置かれる音がした。
「昔あんたが作ってくれたやつにも負けてないからね」
 皿の上で湯気を立てている見た目にもふわふわのパンケーキと、その向こうで自信ありげに微笑むリルムの姿を認めて、マッシュもまた嬉しそうに笑い返した。


「悪かったな、式に出られなくて。デカイ会議がぶつかっちまって……俺は兄貴の護衛しなきゃならなかったし」
「いいよ、もう。多すぎるくらいお祝いいっぱいもらっちゃったしね。こうして遥々あんたが来てくれたのも嬉しいし」
 リルムと向かい合って座るマッシュは焼き立てのパンケーキを頬張りつつ、残念そうに眉尻を下げた。
「兄貴も来たがってた」
「あはは。こんな小さな村の子供だってフィガロの王様の名前知ってるくらい、世界で一番忙しい人だって分かってるよ」
 リルムは呆れたように笑い、そして戯けて肩を竦めながら続ける。
「もっともあんたがその弟だなんて誰も思ってないだろうけどね」
 ニヤリと口の端を持ち上げる表情は子供の頃から少しも変わらない──マッシュはかつて旅をしていた時の彼女の小さな姿を思い起こし、今目の前にいる大人の女性になったリルムを感慨深げに眺めた。
 リルムから結婚式への招待状が届いたのは半年前。あの旅の終わりから十五年の時を経て、共に戦った仲間たちとリルムの門出を祝いたい気持ちは山々なエドガーとマッシュだったのだが、如何せんフィガロ国王の多忙ぶりが僅かな休暇を許さなかった。
 リルムの式がとっくに終わってまた数ヶ月、ようやくマッシュが単身で彼女が夫と暮らす村に訪れたのがつい先程のこと。事前に送っていた祝いの品とは別に今回持参した金額を見て、「王族ってイカれてるよ」と迎え入れてくれたリルムの口調にマッシュは懐かしい空気を感じて微笑んだ。
「わざわざこんな辺鄙なところまで来てくれてありがとね。あんたもヒマじゃないんでしょ?」
「俺は兄貴に比べりゃ随分自由にさせてもらってるよ。今日もギリギリまで兄貴も一緒に来られないか調整してたんだけど、新婚じゃなくなっちまったら困るからって俺だけ先に来たんだ。兄貴、本当に来たがってたんだぜ」
「嬉しいけど無理しなくていいよ。こっちから行った方が早そうだね……今度スケッチがてらフィガロまで旅行してもいいかも」
「歓迎するぞ」
 リルムがたくさん焼いたパンケーキは次々となくなり、久々の再会で会話が弾んだ二人は昔のこと、最近のこと、そしてリルムの夫である男性のことなど様々な話題に花を咲かせた。
 マッシュはリルムのスケッチブックに描かれた彼女の夫の似顔絵を見つめて、その誠実そうな表情に安堵する。──子供の頃から観察眼の鋭かったリルムであるから、きっと自分にぴったりの男性を射止めたのだろう。
「幸せそうで良かった」
 マッシュがカップの中身を飲み干すのを見計らい、リルムが立ち上がってキッチンへ向かう。少し離れたところから、投げかけるような声が響いてきた。
「あんたはどうなのさ。相変わらずアニキとベタベタしてんのー?」
 パンケーキを喉に詰まらせかけたマッシュは、軽く胸の中心を叩きながら苦笑した。
 お茶のお代わりが入ったポットを手に戻ってきたリルムが、空になったカップに新しいお茶を注ぎながら冗談とも本気ともつかない口調で呟く。
「いっそ公表しちゃえばいいのに」
「バカ言うな、うちの大臣この前デカい病気したばっかなんだぜ……また倒れちまうよ」
「だってそろそろうるさいでしょ? 妃とか世継ぎとかさ。もう言っちゃえばいいんだよ、俺たち愛し合ってまーすって」
 とんでもないことを軽く口にするリルムに冷や汗を掻きつつ辺りを見渡し、この家にはリルムと自分しかいなかったことを思い出してマッシュは小さく息をつく。頬の内側が熱を持ったように熱くなり、マッシュは手を扇子代わりに顔を扇いだ。
「無茶苦茶言うな。大問題だぞ」
「理由もなく独り身でいる方が問題だって思われてそうだけどねえ。あんたたち見た目は悪くないしさ。まあ機械オタクと筋肉バカの兄弟だから人は選ぶかもしれないけど」
「言ってくれるなあ」
「あんたたちが思ってる以上に世間は関心持ってると思うよ。……筋肉男、今年幾つ?」
 ふいの質問にマッシュは眉を寄せ、軽く目線を上向きに考え込んだ。
「……多分、四十、三」
「オッサンだね」
 間髪入れずに返ってくる単語にマッシュはがくりと肩を落とす。リルムは辛辣な言葉の割には真面目な表情になり、再びマッシュの向かいに座り直しながら低めの声で語りかけた。
「結構本気で言ってるんだけど。アンタはまだいいよ、見た目も若いし身軽だしさ。でも色男は考えなきゃなんないでしょ。国がかかってんだから」
 一回り以上も年下のリルムに諭され始めて、マッシュは思いがけず狼狽える。気まずそうに目線を泳がせるマッシュを睨みながら、リルムはテーブルに両肘を乗せてぐいっと顔を近づけてきた。
「ああいう表面上ヘラヘラ笑ってる男はね、最後は自分が犠牲になりゃ何とかなると思ってるよ。あんたたち、将来どうするのか話し合ったことある? ないでしょ?」
「な、ない、けど」
「やっぱりね。プロポーズくらいしときなよ」
「……っ!?」
 当たり前のようにサラリと出されたその言葉を聞き流せず、マッシュは今まさに口をつけていたカップのお茶を吹き出しそうになる。
「そういうの、疎かにしてると絶対後悔するよ」
「疎かって、今更……」
 喉にお茶が引っかかって咽せるマッシュを呆れた目で見据え、リルムはわざとらしく大きな溜息をついてみせた。
「なあなあで付き合ってたら、たまに悪いこと考えたりもしちゃうの。それで爆発するならまだいいけど、自分が我慢すればいいって飲み込んじゃうタイプは危険だよ。あんたまさか、双子だから何も言わなくても分かり合える〜なんて本気で思ってないでしょうね?」
 じろりと鋭い目線を向けるリルムに何も言えずにマッシュは黙り込み、それ見たことかとリルムは肩を竦める。
「案外伝わってないもんだよ。あたしがダンナにプロポーズした時だってすっごい驚かれたし」
「リ、リルムからプロポーズしたのか!?」
 予想外の言葉に目を丸くしたマッシュを前に、リルムは得意げにウィンクしてみせた。


 それから二泊をリルムの家で過ごしたマッシュは、夜にはお人好しそうな彼女の夫とも酒を酌み交わし、リルムから贈られた三枚の絵を手に今度は是非二人でフィガロへと約束をして村を後にした。
 帰路の間にリルムからの忠告を思い返していたマッシュは、やはり彼女に答えたように今更という気持ちが強い自分を省みて、背中を丸めて息をつく。
 兄のエドガーとの恋人関係はそれなりの長さになり、二十代の頃こそ頻繁に交わしていた愛の言葉も最近は滅多に口にすることはない。それでもほぼ毎日のようにキスをして、当たり前のように肌を触れ合わせ、頻繁ではないにしろ夜に抱き合うこともあり、言葉で表さなくともお互いを生涯の相手だと思っていると今まで信じて疑っていなかった。
 兄弟であり、王位継承権を持つ直系血族であり、そして男同士、と問題の多い境遇ではあるが、それでも何とかなるものだと、このまま二人で添い遂げられると根拠もなく確信していたのは事実だ。そのために発生する障害の克服など考えたこともなく、兄と話し合うつもりもさらさら無かったのだからリルムの言葉は耳が痛かった。
『自分が我慢すればいいって飲み込んじゃうタイプは危険だよ』
 リルムの台詞に思い当たる節がない訳ではない。何でもないことのように自己犠牲に甘んじる兄の姿を何度か見てきた身として、何かしら将来のことを形にするべきだろうかと、帰城までの長い道のりをたっぷり使ってマッシュは頭を悩ませ続けた。



 城に着いて真っ先にエドガーの姿を探したマッシュは、午後の明るい時間に執務室に姿がなかった兄を求めて城内を歩き回り、最後に訪れた作業所にて聞き慣れた声を拾って足を止めた。
「そちらで適当に処理しておいてくれ。私は忙しいんだよ」
「またですか。お言葉ですが、こちらに籠るお時間があるならご自身で対応してくださいよ」
 薄く開いたドアの隙間から漏れ聞こえる声の主は、探していた兄その人と大臣だった。また何かエドガーが大臣を困らせているのだろうか、と苦笑いが零れかけた時、
「申し分のないお嬢様ばかりですよ。お一人くらい気になった方はいらっしゃらないんですか」
 弱り果てた口調で訴える大臣の言葉に、握ろうとしていたドアノブから数センチ手前でマッシュの手が止まった。
「それだよ。皆二十歳そこそこの愛くるしいレディばかりで……こんな四十路のおじさんのところに来させるのは気の毒だ」
「まだまだお若くていらっしゃいますよ……名君の誉れ高いフィガロ国王の妃となることに何の不満があると言うのです」
「私が結婚などしたら世界中のレディが悲しむだろう?」
「また貴方はそうやってはぐらかす」
 予期していなかった会話の内容に鼓動が急ぎ、マッシュは自然と止めてしまっていた息を思い出したようにフッと吐き出す。
 付き合いの長い大臣は時々ああして自国の王相手にも遠慮のない一面を見せる。それに対して慣れた様子のエドガーが軽口を叩くのが城の常ではあったが、この類の会話が交わされていることは、それも内容からして頻繁に話題として上がっているらしいことはマッシュは今まで知らずにいた。
「まあ、うまいこと断っておいてくれ」
「もう断る理由は出し尽くしましたよ。エドガー様がお嫌でしたら、せめてマシアス様にお声がけさせていただく御許可を」
 動揺が収まらないまま今度は自分の名前までもが飛び出して、マッシュは完全に上げていた手を下ろして気配を殺すことに努めた。そしてエドガーが何と答えるのかを聞き届けるべく耳をそばだてる。
「駄目だ」
 先程よりも厳しくなった口調にホッとしたのは束の間だった。
「私はあいつを自由にさせると決めている。マッシュに相応しい相手はいずれあいつが自分で見つけるさ……外野が口を出すことは許可できない」
 それはマッシュが望んでいたものとは若干ニュアンスが違う言葉だった。大臣の手前であるからか、それとも本心なのか、エドガーの真意を確かめたくとも盗み聞き同然の立場では割って入ることが後ろめたい。
「またそれですか。もう充分マシアス様はご自由になさっているかと」
「あいつを政治の道具にするなと言っているんだよ」
「……王政廃止を進めるのもそれが理由の一端でしょう」
 ギクリとマッシュの胸が竦む。耳を疑う言葉を聞き返すこともできず、マッシュは乾き切った唇をひと舐めした。
「マッシュのためだけじゃない。今の時代、血族だけで国を統べるのは面倒な事の方が多くて理にかなっていないからな。幸い若く優秀な人材には恵まれているんだ、当然のシフトだよ」
「エドガー様がご結婚なさらない以上、どうしてもマシアス様に期待の矛先が向きますからね」
「マッシュのためだけじゃないと言っただろう」
 大臣の大きな溜息が響いてくる。
「分かりました、何とかしておきましょう……。もう、あまり私の胃を虐めないでください」
「大事にしてくれよ、大臣。君には長生きしてもらわねば」
「それがご本心からのお言葉でしたら、そろそろ執務室にお戻りくださいよ」
 カツン、と第一歩の足音が聞こえたことにハッとしたマッシュは、慌てて辺りを見渡し柱の影に身を隠す。意識を集中して気配を消したのと、薄く開いていたドアを内側から押し開けて大臣が作業所を出たのはほぼ同時だった。
 ぴたりと壁に背中をつけたまま、首だけを動かして様子を伺う。大臣の背中は遠去かり、マッシュがいる後方を振り返る様子はなかった。
 大臣が完全に立ち去ったのを確認し、マッシュは素早く戸口に近づいた。中からコツ、コツとゆったりした歩調で歩き回るエドガーの足音だけが聞こえてくる。何か考え事をしている時、それも簡単には答えが出ないような難問に取り組む時に、兄はよくああして動き回って頭の中を整理している──マッシュは黙って眉を寄せた。
 コツン、と一際スローに、踵から爪先まで床を踏みしめるようにゆったりと響いた足音を最後に、音が途切れて静寂が訪れる。
「……いつまでも、あいつを縛り付けておく訳にはいかんな……」
 溜息混じりに零された独り言を耳に受けたマッシュは瞼を伏せ、思わず中に飛び込んでしまいそうになる自分を窘めた。
 そして顔を上げ、物音を立てないようそっと作業所から離れる。距離が空くにつれて歩幅は大きくなり、音が届かないほど離れた場所まで来たマッシュはそのまま走り出した。
 ──馬鹿野郎、リルムの言った通りじゃねぇか──
 今まで自分はあの人の何を見て来たのかと自問しながら、胸を掻き毟りたくなるようなやり場のない感情を速度に変えて全力で走り続けた。






 控え目な灯りの元でオレンジ色に染まった書類に最後のサインを書き終えて、ペンを置いたエドガーは時計を見上げる。
 今日はリルムの住む村へ出かけたマッシュが戻る予定の日だった。夕方になっても姿を見せないことを不審に思い、城の門番に尋ねると一度は確かに帰ってきたのだという。帰城後しばらくしてチョコボに跨り何故かサウスフィガロへ向かったと聞き、自分に一言の挨拶もなしかと憤慨したのは事実だった。
 そして苦笑する──何時間か前に大臣に対して「自由にさせる」などと偉そうに言っておきながら、マッシュが意に添わぬ行動を起こすと気になって仕方がない。たった数日マッシュが城を離れていただけで、光を遮られたような薄ら寂しい気分になっていたのだから情けない。
 やはり戯れで済ませるべきだった、とエドガーは椅子の背凭れに深く体重を預けて天井を仰いだ。ゆっくり目を閉じると、魔導師を討つ旅が始まったばかりの頃にコルツ山で再会したマッシュの姿が浮かんでくる。あの頃ならまだ傷は小さく済んだ。
 城に留まる以上、先祖の代から蔓延るしがらみに縛られ続けるのは自分もマッシュも同じこと。たとえ王政を廃止してもそれでこの国とすっぱり縁が切れる訳ではない。何らかの形で後進に関わるのは必然だった。そして道を拓くべき人間として、善悪だけでは片付けられない事案を冷静に判断してみせなければならない。
 これからますます見せたくない姿を晒していくことになる。修行を怠らないマッシュと違って明らかに老いが目立ち始めた自分の、心身の醜い変遷を傍で見つめることに弟は耐えられるだろうか。いや、耐えられないのは自分自身だ。
 それなのに触れられてしまえば迷っていた心が呆気なく陥落する。考えることを放棄して温もりに溺れてしまう。今日こそは、明日こそはと延ばし延ばしにしてきた結果がこの有様だ。
 いよいよ覚悟を決めて、手を離さなければならない時が来たのかもしれない。あの優しさを諦められなくなる前に、もう一度彼に自由を返してやらなければ──
 コンコン、と控え目なノックの音が思想の世界から意識を呼び起こし、目を開いたエドガーはやや過剰な仕草で背凭れから身を起こした。そして夜半に私室の扉をノックする相手が誰かと考えるまでもなく、椅子から立ち上がり音の出所へ近づいていく。
 ドアノブを握る前に手櫛で軽く髪を整え疲労で霞んでいた目を擦り、心を落ち着けて肩の力を抜く。ようやく手をかけて扉を開くと、思った通りの人物が──いたのは間違いないのだが、目線を合わせるためにやや顎を上げた状態で、エドガーは予想していなかった姿を前に目を見開き硬直した。
 立っていたのは紛れもなくマッシュだった。しかし普段のような軽装でも、寝支度を終えた寝衣でもない。年に数回袖を通すかどうかの礼服に身を包み、髪はすっきりまとめられ、何よりここ数年はトレードマークのようになっていた顎髭が綺麗さっぱり消えていた。そのせいでぐっと若さが増したマッシュの見目は、まるでコルツ山で巡り合った時の姿とも変わらないように感じた。
「急に、どうした……? 何だ、その格好は」
 出迎えの第一声はおかえりと決めていたのに、エドガーの口からは率直な疑問が漏れていた。マッシュは照れ臭そうに軽く微笑んでから、澄んだ眼差しでエドガーを見つめる。そうして足先を一歩室内へと踏み入れてきた動きに合わせるように、思わずエドガーもマッシュを見上げたまま後退した。
 室内に完全に入り込んだマッシュが後ろ手に扉を閉めた様子で、その大きな背中に何か持っていると気づいたエドガーが眉を顰めた瞬間、ふいにマッシュはエドガーの前で片膝をつき、背後に隠し持っていたあまりに大きな赤い薔薇の花束を目の前に差し出した。呆気にとられたエドガーが驚きに口を開けて目を丸くしている前で、マッシュは青い瞳を凛と光らせて口を開いた。
「俺と、この先の人生も、ずっと一緒に……いてください」
 言葉を区切りながらゆっくりと伝えたその唇を気恥ずかしそうに結んだマッシュは、懇願するような目で真っ直ぐにエドガーを見上げている。
 エドガーは差し出された大量の薔薇の噎せ返る程の香りにはっきり狼狽え、マッシュ一人が時と場所を勘違いしてやって来たかのような今の状況を飲み込めずにいた。表情からして冗談を言っているようには見えない。真摯な眼差しはエドガーが何か応えるのを待っている。エドガーは手繰り寄せるようにマッシュの言葉を反芻し、困惑に眉尻を下げた。
 これはまるで……プロポーズではないか。拙くも純粋な愛の言葉は一直線に胸を射抜く。目眩のような浮遊感が思考を停止させようとするが、瞬きで何とか意識を保って下唇を緩く噛んだ。
 視界いっぱいに存在する深い赤の花束に手を伸ばすことはできない。俯きがちに視線を落としたエドガーに、マッシュは戸惑うこともなく腕を引っ込めようともしなかった。
「……マッシュ。突然、どうしたんだ」
 額に影を落としたまま、無理やりに唇の端を持ち上げて微かな笑みを作ったエドガーは、努めて深刻にならないように穏やかな口調で尋ねた。
「今まできちんと伝えたことがなかったから。兄貴に、ちゃんと言っておかなきゃと思って」
「マッシュ、お前……、昼間の話を聞いていたな?」
 この奇妙な行動に思い当たる節があり、覚悟を決めてエドガーは問い質した。マッシュは否定も肯定もせずに無言のままエドガーを見つめている。それをイエスと受け取ったエドガーは、苦々しく微笑んで軽く首を左右に振った。
「お前が気を遣うことではないんだ。良い機会だ、話さなければならないと思っていた」
「気を遣ってこんなことしてる訳じゃない」
「もういいんだマッシュ、お前はこの十五年よく尽くしてくれた。窮屈な城で余生を過ごすことはない……お前は自由に生きる権利がある」
「これが、俺の選んだ自由だよ」
 きっぱりと告げたマッシュは僅かに怯んだエドガーの隙を見逃さずに、空いた片方の手でエドガーの右手を取って握り締める。反射的にエドガーは手を引こうと力を入れたが、マッシュがきつく握った手はその場から動くことはなかった。
「情けないけど、リルムに怒られた。将来のこと全然話してないって。俺、能天気だから、何とかなるって思ってたんだ。兄貴が俺たちのことどんな風に考えてたのか、気づきもしないで」
「マッシュ」
「十七で最初に城を出た時から、俺の時間は兄貴のためだけに使って来たんだ。今も同じだよ……俺はずっと兄貴を守って傍で支えたい。ずっと、一緒にいさせて欲しい」
 握り締めた指先から手の甲を親指でなぞるように撫でられて、マッシュの大きな温かい手に比べて自分の冷えてカサついた肌が気になり、エドガーは再び手を引こうとする。
「……離してくれ。受け取れない」
「受け取ってくれるまで離さない」
「俺の意志は無視か?」
「嫌なら、ちゃんと嫌いだって言ってくれ」
 何ひとつ疑っていないような純粋な力強さを湛えた瞳は、惑いに揺らぐエドガーを捉えてその視線を外さなかった。迷いながらも口を開きかけたエドガーは、声にならない吐息だけを二、三度漏らし、ついに唇を噛んで目を逸らす。
「……狡いぞ」
「勝算なしでこんな格好して来ないよ」
 その言葉に思わず改めてマッシュを頭から足先まで見下ろしたエドガーは、呆れたように溜息をついた。
「全く、何だってそこまでしてきたんだ」
「プロポーズするならきちんとしなきゃって思って」
「それで髭まで剃って? はは……俺がこんなに見窄らしい格好をしているのにか」
 自嘲気味に笑ったエドガーは深く俯いて顔を隠す。服装から髪型まで気合いを入れてきたマッシュに比べて、先程まで書類に追われていたエドガーの下瞼は薄っすら黒ずみ、髪は私室に戻ってから緩めに結い直していたせいで所々解れて、仕事を終えたらすぐ休めるようにと寝巻き同然の寛いだ服装にストールを羽織っただけ。
 あまりのアンバランスさに可笑しいのを通り越して泣きたい気分になっていたエドガーの前で、マッシュは全く茶化す様子もなく大真面目な表情で口を開いた。
「何言ってるんだ。俺がこれくらい頑張らなきゃ釣り合い取れないだろ」
 そして差し出していた花束を改めてエドガーに突きつけ、ほら、と強調するように呼びかける。
「こんだけ大量の花の隣でも全然見劣りしないぞ。兄貴に釣り合うようにするの大変なんだからな」
 ふわりと舞う薔薇の香りの中、狐につままれたような顔をしたエドガーは、マッシュの盲目的な愛情表現にどう言葉を返したら良いか分からずただ眉を下げた。鼻の奥がじんわり熱を持ち始めて、誤魔化すために何とか苦笑いを作り、小さく息をつく。
「お前は……、随分と分厚い色眼鏡をかけているようだな」
「そんなことないよ。俺の兄貴は世界一だからな」
「……あのな、マッシュ。俺はな、若い頃はそれなりに自分に自信があったんだよ。知識と閃きに長けていると思い込んで、野心もあって、祖国の新しい在り方をこの手で定めていくことが夢だった。……しかしこの歳になって思い知らされた。俺もまた先祖と同じ歴史の礎の一部なのだよ。何も特別な存在ではない。やるべきことを果たすために、時に誰かの害にならなければならない立場の人間なんだ」
 エドガーは初めこそぽつぽつと躊躇いがちに言葉を繋いでいたが、徐々に口は滑らかになり溜まっていたものを吐き出すように語調も強くなっていった。
「俺はこれからどんどん変わって行くだろう。俺とお前が餓鬼の頃にあんなに忌み嫌った狸爺にならねばならない……俺はそれをお前に見られるのが怖い。お前に幻滅されるのが怖いんだ」
 一気にまくし立ててから数秒息を止めたエドガーは、感情の吐露に対する解放感と口にしてしまった後悔とで胸がいっぱいになり、細く長く息をつく。恐れていたマッシュの反応は、しかしエドガーの予想よりもずっと穏やかな笑みに表れていた。
「じゃあ、俺も一緒に狸になるよ。二人でなっちまえば怖くないだろ?」
 ぽかん、と口を開けて瞬きを数度繰り返したエドガーは、悪びれないマッシュの笑顔にとうとう吹き出した。口元は笑いながら、大きく広げた左の手のひらで目を覆い隠す。
「お前には、負けた」
「うん。だからそろそろ受け取ってくれよ。腕も足も疲れたよ」
「気取ってそんなポーズを取るからだ」
 指の隙間からマッシュを除き、顔を覆っていた手を離す前に指先でさりげなく目尻を拭ったエドガーは、握り締められたままだった右手を意味ありげに動かした。その意図を理解したらしいマッシュがようやく手を放し、自由になった右手と顔から剥がした左手の両の手ですら余りそうなほどの大きな花束を、エドガーはしっかりと受け取った。
「……凄い量だな」
「最初は指輪買おうとしたんだけど、俺、兄貴の指のサイズ分かんなくて……手ぶらじゃカッコつかないなって思って、花屋でありったけくれって言ったんだ」
 床についていた膝を伸ばし、立ち上がったマッシュは頭を掻きながら照れ臭そうに説明した。
「そしたら何に使うのか聞かれて、プロポーズだって伝えたら、じゃあ九十九本で作りますね、って……」
「ほう、九十九本の薔薇か。成る程ね」
 抱えた花束の匂いに鼻を寄せたエドガーが呟くと、マッシュが不思議そうに首を傾げる。
「何か意味あるのか?」
「ああ、あるよ」
「教えてくれよ」
 エドガーは小さく微笑み、その前に、と前置きしてから花束越しにマッシュを見て目を細めた。
「あまりに唐突で、さっきの言葉をしっかり聞くことができなかった。……もう一度言ってくれ、マッシュ……今度はちゃんと返事をするから」
 強請るように口にすると、マッシュは少しだけ戸惑ったように目を泳がせて、それから軽い咳払いをしてからエドガーに手のひらを向けて差し出した。
「……俺と、ずっと一緒にいてください」
 エドガーは赤らんだ目尻を下げて美しく微笑し、マッシュの手に右手を重ねる。
「……喜んで」
 そして一歩近づきマッシュの耳に唇を寄せ、「それが花言葉だ」と囁いてから、その肩に頭を乗せて夢見心地に瞼を伏せた。


 ──ずっと一緒にいよう。