俯瞰




 爪先立ちで冷たい石に指を立て、懸命に頭を持ち上げても僅か数ミリの景色が時折視界にチラつくだけ。
 城の最上階にある塔の上、穏やかな熱い風に青い空と棚引く雲の淡い白はこんなにも綺麗に望めるのに、この高く積まれた石壁の向こう側は指の先くらいしか見えやしない。
 ぴょこぴょこと飛び上がったり爪先を限界まで立ててみたり必死になっていると、ふいに腰の辺りを後ろから抱えられてギョッとして振り向いた。自分よりも上背のある兄が腰に腕を回して力を込めようとしている。
「あにき」
「いくぞ、しっかりつかまれよ」
 その言葉の意味を理解する前に、ぐんっと身体が浮き上がった。咄嗟に石壁の天辺に手を置く。兄の支えと自分の手で掴んだ壁の向こう側、紺碧の空の下に広がる金色の砂の海を前に目を大きく見開いた。
「わ、わー……! すごい、見える!」
「きれい、だろっ……?」
 兄が苦しそうな声で笑いながら問いかけた。その口調が心配になって思わず石壁から手を離そうとしたが、兄は力を緩めず更に上へと押し上げようとする。
「あにき、いいよ、重いだろ」
「いいから、ちゃんと、見てみろ……!」
 より高い位置から見下ろす砂漠はどこまでも続き、目の覚めるような青の下に波打つように風で盛り上がった砂面の明と暗、地平線に重なる緑地、山々が囲む世界の中心で見上げる頭上に眩しい光の源がある。
 生まれ育ったこの土地の何と美しいことか。懸命に石壁に爪を立てて眼下に見下ろす景色に目を奪われていると、震える腕で自分の身体を抱えてくれている兄が力強く呟いた。
「俺たちの国だ」



 ***



「ここにいたのか」
 背後にかかる声にゆっくり振り向くと、熱のこもる風に砂漠と同じ色の長い髪を靡かせた兄が石段を上り切ったところだった。
 頷く代わりに微笑んで、かつて同じ場所で見た姿よりもぐっと背が伸びて体格が良くなった兄に目を細める。涼やかな眼差しに漂う王の品格は一朝一夕で身につくものではなく、しかしその中枢には子供の頃と同じように心の高揚で燃え盛る炎が潜んでいることも旅の中で知り得た。
「静かで、落ち着くんだ」
「お前は昔からこの場所が好きだったな」
 隣に並んだ兄が自分に同じく石壁に手をつき、広がる砂漠を見下ろした。並ぶと兄が自分よりも小さいことがよく分かる。真っ直ぐに砂漠に視線を向ける兄の横顔を見つめながら、静かに口を開いて問いかけた。
「……兄貴、覚えてる? 昔、まだ俺がこの壁よりも小さかった頃。兄貴が俺を抱えて壁の向こう側を見せてくれたこと」
「ん? ああ、そんなこともあったかな」
 はっきりと思い出しはしていないのか、曖昧に笑った兄ににっこりと笑い返し、日差しを受けて熱を持った石壁をそっと撫でる。
「この壁が高くてさ。その先の景色が見たかったのに、自力じゃ見られなかったんだ。兄貴は軽く爪先で立てば見えてたのにさ」
「はは、お前は小さかったからなあ」
「兄貴が持ち上げて見せてくれたんだよ。俺にとって高くて越えられなかった壁を、兄貴が壊してくれたんだ。あの時、ここから見た景色をずっと忘れずに今まで生きて来た」
 兄が少し驚いた顔でこちらを振り返り、軽く眉を下げて遠慮がちに微笑んだ。
「大層な話になったな。お前の背もすぐに伸びたろう」
「でもあの日、自分だけじゃ見られなかった景色を兄貴が見せてくれたことが大きかったんだ」
 正面を向き直し、砂の上を吹き抜けた熱い風を頬に受ける。今は爪先を立てなくとも、この肘は折り曲げたままで石壁の天辺を掴むことができ、この目は何の障害もなく遠くまで見渡すことができる。
 当たり前のように日々目にしていたこの景色を、一度は捨てて一人になった。城を出て分かったことが幾つもあった。どれだけ自分が守られて来たか。どれだけ自分が甘ったれていたか。そしてどれだけ愛されていたか。
 あの日心に刻まれた美しい景色と同じ光景が望めるのは、当たり前のことではなかった。長く辛い闘いを仲間と共に耐え、この城を守り抜いた強い意志があってこその今。
 兄の力で世界の片鱗を見たことで、産まれた国の美しさに気づいてより故郷を愛することができたのだ。
「あの日があったからいつかここに帰ると心に決められた。城を出ても常に胸にあった……兄貴が俺に帰る場所をくれたんだよ」
 兄の微笑みに照れ臭さが加わった。僅かに俯いて気恥ずかしさを隠そうとする兄をチラリと見て、悪戯心が湧き起こる。
 不意をついて身体を低く構え、兄の両太腿をがっしりと掴み込んだ。驚く兄をそのままに力を込めて抱え上げれば、兄の顔が自分よりも遥かに高く持ち上げられて空に近づく。
 バランスを取るために兄が咄嗟に肩に手を置いた。そして動きを止め、何か言いかけた口を半開きにしたまま目を見開いて砂漠を俯瞰した。
 その瞳に輝く感動の色と微かに紅潮した頬を見上げ、兄もまたあの日自分が見たのと同じ、青と金のコントラストを高みから見下ろす高揚感を味わったのだろうと北叟笑む。
 今ならこうして軽々と、あの日より逞しく成長した兄の身体すら持ち上げられる。より高く、より太陽と空に近い場所へ、この手で兄を連れて行けるのだ。
 ──この景色がどれだけ素晴らしいか、貴方が俺に見せてくれた。貴方が守り抜いたこの砂の国の美しさを、今度は俺が貴方に伝えよう──
「俺たちの国だ」
 力強く呟くと、肩に置かれた兄の手にこもった熱が伝わった。