激痛




 足元に這い寄る蟻を踏み潰す。
 踏み潰しても踏み潰してもどこからか湧いてくる蟻の一匹が、靴をよじ登り脛を擽り腰に纏わり付いて登って行く。
 一匹、また一匹と踏み潰し損ねた蟻が体を伝って空を目指す。
 羽を持たない蟲はあの空には届かない。
 身体を蝕み食い潰す。
 血肉に混じって腐り落ちる。




「……次の夜会は例の令嬢にも声をかけたのか」
 書類から目を離さずにそう質すとこちらを振り向く気配を感じる。
 恐らく驚きに恥じらいを織り交ぜたとても綺麗な目が向けられている。
 その目を見ないように走らせるペン先を、伏せた瞼の隙間からじとりと睨め付ける。
「かけてないよ……」
 戸惑いを含む声色には仄かに色づく春の匂いが見え隠れして胸の隙間に忍び込む。
 そこからざわりと体の内側を食い潰す蟲が這うような悍ましさが、己の口角を上げさせた。
「……プロポーズは早めにしなさい。フィガロ王弟の婚姻ともなれば国を挙げての一大イベントだ……準備に時間がいる」
「だから、そんなんじゃねえって……」
 僅かに怒気を孕んだ声は照れ隠しのいつもの癖。
 眉を寄せて唇を尖らせ頬にほんのり朱を置いて、見なくても分かるいじらしい様子できっと困ったように視線を巡らせている。
 その澄んだ青い眼の深さと言ったら己のものと同じとは思えないほど。
 その眼に映るただ一人がこの世に存在することが厭わしい。
「一度連れて来るといい。……紹介してくれ」
 沸々と胸に燻る熱が身体を侵食して這い回る。
 返答がなく仕方なしに顔を上げれば、上目がちにはにかむ瞳の清らかさが胸を刺す。
 聖母もここまで真っ新ではいられまい。
 刺された己の欲深さのなんと醜いことか。
 濁りのない光をまともに受けないよう、細めた目で寒気のするような微笑を返した。




 ──ズタズタに引き裂いてしまいたい ね──




 足元に這い寄る蟻を踏み潰す。
 踏み潰しても踏み潰してもどこからか湧いてくる。
 指先から足先から穴だらけの身体のどこからでも入り込んでくる小さな蟻。
 血管を伝い全身を巡り肉を喰い千切っていずれ外に出ようとする。
 この疼きにも似た痛みを飼い殺してあとどのくらい気を保っていられるのか、いつしかこの痛みにも慣れて腐り落ちるのを待てば良いのか。
 いつかは痛みさえ愛おしく縋るのか。



 せめてお前の空に光る星のひとつでも、この手で撃ち抜くことができたなら。



 天に掲げた腕は根元から腐り落ち、這い寄る蟲を踏み潰そうと振り上げた脚は掬われ尻をつき、また高く遠い空を仰ぐ。
 羽を持たない蟲はあの空には届かない。