暁天




 空一面を覆う分厚い黒雲を突き刺すように聳えていた、瓦礫の塔は跡形もなく崩れ去った。
 世界を壊した魔導師が討ち取られた後、色を失っていた空には青、森には緑が戻り、人々は生きる力を取り戻して街を再生させ始めた。
 フィガロの城下は活気に満ちていた。
 年に一度の祝事を控え、誰もがその日を手放しで慶ぼうと抜かりなく準備を進めていた。
 何しろ昨年は城そのものが砂の下、主役の城主は行方不明で祝うどころではなかった。ようやく何の不安もなくこの日を迎えられる、おまけに祝う相手が二人に増えたのだ、盛大にやらねばと何処もかしこも大騒ぎになっていた。


 本日はフィガロ国王と、その双子の弟の誕生日。
 二人は魔導師を討伐した立役者である。長い戦で世界各地の指導者が命を落としたり行方知れずになったりした中、生き残って実質世界の統治者となった王と、兄王を支えて戦を勝利に導いた王弟の産まれた日。国民は浮き足立っていた。
 毎年国王の誕生日は城で祝賀式典が行われる他、城下町のサウスフィガロでも盛大な祭りが催される。露店に楽団、夜には花火が上がり、朝から晩まで騒ぎ倒しても許される日だった。
 世界の崩壊に加えてフィガロ城が一年砂に埋まっていた鬱憤を晴らすかの如く、星明かりが眩しい夜半から人々は宴の準備を始めていた。
 熱気が空に届いたような暑い夜だった。


 地平線の向こうから紅紫色の雲を掻き分けるように太陽が昇り、同時に湿った空気がぐんと熱を帯びた。
 晴れやかな誕生日の朝、主役の一人であるエドガーの表情は渋く歪んでいる。
 まだ太陽が天辺に達していない昼前、エドガーは城門にて探し人を確保していた。本日のもう一人の主役、エドガーの弟であるマッシュは、滝のような汗と砂埃にまみれた姿でバツが悪そうに背を丸めている。
 マッシュは門番に顔を向けた。恨めしげな目をしたつもりはなかったが、小さく縮こまっていた門番がビクリと身を竦めて必死に頭を下げてくる。
 溜息混じりにもういいよとマッシュが声をかけるより先に、エドガーが不機嫌を隠さない低い声で釘を刺した。
「お前が門番に口止めして行ったのは分かっている。責めるなよ」
「分かってるよ」
 言われなくとも責めるつもりなどなかったマッシュは、揃えて立てた指を顔の前に添えて視線で門番に詫びた。国王直々の詰問を受ける目に遭わせてしまったのはマッシュのせいでしかない。
 御用となった王弟は、国王直々に城の中へ連行されて行った。


「何を考えてる。今日が何の日かまさか忘れていたなどとは言わせんぞ。夜中に抜け出したと思ったらこんな時間まで帰って来ないなんて」
 コツコツと神経質な靴音を立てて進むエドガーを半歩後ろで追いながら、マッシュは苛立ち露わにまくし立てる兄に対して弁明を試みた。
「式典は昼過ぎって聞いてたから、それまでに戻れば間に合うかなって」
「俺が午前中のんびり昼寝していたと思うか? そういう台詞は風呂に入って着替えて髪を整えて準備万端にしてから言うんだな。その薄汚れた格好で俺の隣に並ぶ気か。一体何処に行っていた」
 エドガーの言葉が途切れない。これは相当怒っていると察したマッシュは口籠もる。
 すぐに返答が聞こえてこないことを不服に思ったらしい、振り向いたエドガーの眉間にはくっきり皺が刻まれていた。
「俺に隠し事をするつもりか」
「……隠し事って訳じゃないけど……」
 歯切れの悪いマッシュは足取りも重くなる。痺れを切らしたエドガーは立ち止まり、正面からマッシュに向かい合った。
「じゃあ言ってみろ。昨夜門番を言いくるめてこっそり抜け出して何処へ行った。一晩何をしていた。もうすぐ真昼だ。こんな時間まで、お前は何処で何をやっていたんだ」
 淀みなく詰問するエドガーの目には確かに怒りや呆れも色濃く表れていたのだが、それ以上に不安混じりの純粋な疑問が見て取れた。
 マッシュが城を出て以来、初めて二人揃って迎える誕生日をエドガーが酷く楽しみにしていたことをマッシュは知っている。エドガーがマッシュの不在にいつ気づいたかは分からないが、深夜に消えたマッシュが十年前の夜と重なって不安を感じたとしても仕方がないかもしれない。
 眉尻を垂らして大きくため息をつき、マッシュは降参するように両の手のひらを上げてエドガーに向ける。
 分かった、話すよ、と小さく呟き、それから薄っすら頬を染めて、マントの下の懐から丁寧に畳んだ紙を一枚取り出した。
 差し出されたそれを、エドガーは訝しげに受け取る。マッシュを睨み、紙に視線を向け、もう一度マッシュを見てからもどかしくも丁寧に紙を開いて、そうして現れたものを見てエドガーの細められていた瞳が大きく広がった。
「……サウスフィガロに。買いに行ってたんだ。兄貴の絵」
 懐に収められて少し皺の寄った羊皮紙の上で、装飾華やかに着飾ったフィガロ国王エドガーが静かに微笑んでいた。


 毎年買っていたんだよ。静かに語るマッシュの声を聞きながら、エドガーは自身よりやや硬めのマッシュの髪を櫛で梳く。
 頭頂部から、こめかみから、丁寧に梳いて後ろへ流していく。下ろせば肩に少し触れるくらいの長さはあるマッシュの髪を、エドガーはぎこちなさもなく梳いてはまとめていた。
 本来女官に任せる仕事だが、帰城後すぐに風呂に入らねばならなくなったマッシュの身支度が終わるのを待っていては誕生日の祝賀式典が始まってしまう。マッシュが何故真夜中に城を抜け出してまでサウスフィガロに絵を買いに行ったのか、何としても式典前に聞き出したかったエドガーは、着替えを済ませたマッシュの髪を手ずから整えると言い出した。
 マッシュは驚き呆れたが、一度言い出した兄は引かないことを重々承知しているため、観念して任せることにした。女官を下がらせ、二人だけになった控え室でエドガーに髪を弄られて心地よさげに目を細めながら、マッシュは穏やかに話を続ける。
「城を出て初めての誕生日が来るって時さ。サウスフィガロの街がどんどん変わって行くんだ。あちこち飾り付けられて、普段は見ない行商がぞろぞろやって来て、街の人も浮き足立ってるって言うか……特にあの時は兄貴が即位して初めての誕生日だったから、みんなお祝いするのを待ち構えてる感じだった。当日は朝からお祭り騒ぎで、ああ城の外はこんな風なんだなって興奮したし感動したよ。親父の時は窮屈な服着て長い式典が終わるのをじっと待ってるだけだったから」
 傍机に櫛が置かれてカタンと乾いた音が響いた。丁度相槌のようなタイミングに、マッシュは少しだけ口角を上げる。
「おっしょうさまに許可を貰って、朝早くから街を見て歩いたんだ。街中でフィガロの国旗がはためいてた。早いところは夜明けと共に準備を始めていて、街のあちこちからパイや串焼きのいい匂いがしていた。街の人たちの格好もいつもより華やかだったな。街角に人が増えて来て、よく晴れていたのもあって凄く暑かった。熱気のせいもあったんだろうな。汗を拭きながら、ある店に出来てた人集りの前で足を止めたんだ。うん、今でもよく覚えてる」
 一度目を閉じたマッシュが軽く天を仰いだ。髪の結び目が僅かにずれ、エドガーは微かに眉を寄せて再び櫛を手に取る。
 握り締めた髪の束を手綱のように引っ張られて、マッシュは苦笑しながら頭を下げた。
「画商の店だった。みんなこぞって手を伸ばして絵を買ってた。何をそんなに競って買ってるんだろうって、あの時はまだ今より背が小さかったから人垣のせいでよく見えなくて、そうしたら周りから声が聞こえて来たんだ。『エドガー陛下の若々しく凛々しいこと』って」
「……ほう」
 ようやく漏れたエドガーの声は控えめでありながら楽しげだった。
 シャランと髪飾りを掬う音がする。今現在エドガーの髪に留められている蒼玉の付いた飾りと揃いのそれを思い浮かべて、マッシュは微笑みながら目を細めた。
「思わず俺も手を伸ばしてた。懐の銅貨を差し出して、釣りなんか貰える状況じゃなかったけど、代わりに向けられた羊皮紙を必死で掴んで……揉みくちゃになって人混みから抜け出て、息を整えながら見下ろした紙の上に、兄貴がいた」
 当時の喧騒が蘇ったのか、マッシュが一度大きく息をついて肩を下げた。
 エドガーはマッシュの髪の結び目に飾りを刺し、手に香油を垂らして前髪を整える。ややスパイシーな、品のある甘い香りがふわりと立ち上った。
「兄貴がジッと俺を見てた。俺の知ってる兄貴と少し違う顔だった。目が鋭いって言うか……ちょっと緊張してるみたいだった。硬い、とも違うかな。なんて言うか、隙を与えない、これが王様の顔なんだって思った」
「……へえ、そんな風に見えたか」
 微かな笑い混じりのエドガーの声は戯けていて、その目はマッシュに等しく蕩けるように細められた。マッシュが見たものとは違う角度から、過去の景色を思い出して記憶の共有を図るような、そんな目だった。
「即位して最初の誕生日前に描かれた肖像画なら、俺も当時のことを覚えている。民衆向けの絵だからすぐに済む、ただそこに座っていろと言われて、やることが山積みなのに勿体無い時間だと思ったものだなあ」
「それでちょっと強張ってたのかな」
「どうだろうな、即位後の数年は常にピリピリしていたからな。お前の言う通り、隙を見せないように気を張っていたのが絵に出てしまったのかもしれん」
 解れた毛を丁寧にピンで押さえつつ、あまり耳元で大きな声を出さないよう配慮したのだろう、エドガーが笑いを噛み殺す。
 マッシュは遠くを眺めてしみじみ目を伏せ、独り言のように小さな声で、しかし聞き返す余地を与えないさりげない圧を加えて呟いた。
「その絵見て、少し、心配になったんだよ。苦労してるのかな、ちゃんと飯食ってるかな、よく眠れてるかなって。……でも同時に嬉しかった。絵だけど、久し振りに兄貴に逢えた。王様の衣装つけて、ジッとこっち見てる兄貴は文句なく格好良かった。兄貴が頑張ってるんだから、俺も頑張ろうって思った」
 エドガーは無言だった。口元は微笑んでいたがマッシュには見えない。それでも伝わる空気はあったのか、マッシュも同じ表情で微笑んだ。
「それから、毎年誕生日には画商で兄貴の肖像画を買ってたんだ。大人気でさ、早く行かないと昼にはなくなってるんだよ。みんなが若々しくて素敵だね、今年の衣装もお似合いだね、なんて言ってるのを聞きながら、兄貴去年より背が伸びたのかな、王様が板について来たな、とか思ってその日一日眺めてたよ。最初の年の張り詰めた感じは年々和らいでいった。目元が優しくなったって言うか、余裕が出たと言うか……胸の張り具合や肩の位置も、気負った雰囲気が消えて兄貴らしさが出て来たように感じた。貫禄がついて、思うようにやれるようになったのかな。その頃には周りが子供扱いする声も聞こえなくなっていた」
 マッシュが青い目をゆっくりと上向きに回し、欲しい記憶を取り出せたのだろう、満足したように頷く。
「そう、五年経った頃だから、……二十二の時だ。その年の肖像画の兄貴は何だか……一皮剥けて、威厳と自信に満ちていた。俺、その兄貴を見て「ああ、フィガロは絶対大丈夫だ」って確信したんだよ。今の兄貴がいるならフィガロはこの先ずっと大丈夫なんだって。だから俺も、いざと言う時に兄貴の力になれるように、ますます頑張って修行しなきゃって決心したんだ」
 エドガーが両手でマッシュの頭を包むように触れ、少しの間黙り込んでから静かに口を開く。
「……二十二、か……」
 思うところがあったのか、しみじみ呟いたエドガーの声は郷愁が溢れ出ていた。
 マッシュが少しでも顔を後方に向けようとすると、エドガーの手が動かないよう頭を押さえてしまう。振り向くなと暗に示しているのは、見られては困る表情にでもなっているのだろう。
 マッシュは当時の詳細について尋ねはしなかった。とうに整え終わった髪を、こめかみから後頭部に向かって無言で撫で続けるエドガーの好きにさせていた。
「それからも毎年、兄貴の絵を買った。だからコルツ山で逢った時、すぐ顔が分かったよ。誕生日と言ったら、俺にとっては兄貴の絵だった」
「それでわざわざサウスフィガロまで買いに行ったのか」
「きっと今年も売ってると思ってさ。夜の間にチョコボを走らせて、朝イチで買えたら昼までには戻れるだろうって。黙って抜け出して悪かったよ。言うのがなんか照れ臭くて」
「珍しく寝付けなくてな、お前の部屋を尋ねたらもぬけの殻だった。誕生日前夜に出奔したのかと青ざめたぞ」
「ごめん」
 マッシュは苦笑いを零して、やや寂しげに目尻を下げる。
「どうしても欲しかったんだ。……毎年買ってた肖像画、修練小屋に置いてたせいで世界の崩壊と一緒になくなっちまったからさ。折角大事にしまっておいたのに」
「……それを聞いてホッとした」
「なんでだよ、宝物だったのに」
 拗ねて勢いよく振り向いたマッシュを止められず、マッシュの視界にエドガーの仄かに赤く染まった頬が映る。見えたのはほんの一瞬、すぐに首を捻られて前を向かされたマッシュは、苦笑しつつ大人しくエドガーの気恥ずかしさを受け入れた。
 肩に手が触れ、こつんと後頭部に何かが当たる。エドガーの額だとマッシュはすぐに理解した。
 まるで崇めるように頭を垂れたエドガーは、照れ臭さを滲み出しながら、声を落として秘密の質問をするように囁いた。
「それで……今年の絵はどうだった?」
 マッシュはすぐには答えず、恐らくは帰城前にじっくりと見つめただろう新しい肖像画を思い浮かべて、確信を得て笑う。
「──いい顔だった」
 マッシュの低いながらもよく通る声が、二人だけの空間を打つように響いた。
「砂の下の城を浮上させた勇ましさも力強さも、戦の後にみんなを導く頼もしさも落ち着きも全部あって、今までで一番いい顔に描かれてた。いい絵だったよ」
 フッとエドガーの唇から吐息が漏れる。安堵の溜息に似たそれを短く飲み込み、エドガーは小さくもはっきりした声で囁いた。
「……それはきっと、頼りになる弟が戻って来てくれたからだ」
 そう言って静かにマッシュから身体を離す。
 エドガーの手と額の熱が頭から離れる瞬間目を閉じたマッシュは、優しい拘束が解けた後にゆっくりと後方を振り返った。
 王の装束を身に纏ったエドガーが柔らかく微笑んでいる。肖像画と同じく穏やかで厳かな微笑を見て、マッシュは目を細めて口角を上げ、椅子から立ち上がって恭しく頭を垂れた。
 コンコンとノックの音が響く。驚く素振りもなく、即座に扉を見たエドガーが「時間か」と声をかけた。扉の向こうから女官がはいと返事をすると、エドガーも今行くと返す。そうしてマッシュへ顔を向けた。
「式典が始まる。何とか間に合ったな、しっかり男前にしてやったぞ」
「なんかむず痒いや」
 無意識に頭を掻こうとするマッシュを視線で制し、扉に向かいながらそうそうと何かを思い出したエドガーは、揶揄うように目を弓形に細めて言った。
「あの肖像画な、城内でも売ってるぞ」
「え……、……えっ?」
「わざわざ夜中に抜け出してご苦労だったな」
 高らかに笑うエドガーの隣でマッシュは苦々しく眉を寄せる。くたびれ損だったと拗ねるマッシュの肩を叩き、エドガーが軽くウィンクをした。
「まあこれで来年からはサウスフィガロまで行く必要はなくなったな。俺が肝を冷やすこともなくなる訳だ」
「うー……ん、来年は、買わなくてもいいかな」
 意外な返事にエドガーが立ち止まる。
「おや、何故だ?」
 気恥ずかしいと言っていた癖にやや不満げにマッシュを睨んだエドガーへ、マッシュははにかんだ笑みを零してボソッと呟いた。
「肖像画を眺めなくても、これからはいつでも本物の兄貴に逢えるもんな。今年も、来年もずっと」
 エドガーは目を丸くして絶句し、微かに頬に朱が滲んだがそれも一瞬、福々しい笑みを乗せてマッシュの肩に腕を置く。
「……そうだな。一番近くで、見ていてくれ」
 囁きにマッシュは力強く頷いた。
 エドガーが肩に置いた腕を下げ、背中を押してマッシュを扉へ促す。時間が迫っている、大臣が痺れを切らしているかもしれない。
 控え室の扉を開いてするりと廊下へ抜け出して、正装に身を包んだエドガーとマッシュは笑い合い語り合いながら踵を鳴らした。
「来年はお前の肖像画も描いてもらうか。セットで売ればウケがいいかもしれん」
「ええっ、俺はいいよ……」
 高らかな笑い声に急ぎ足の靴音がふたつ、重なって遠ざかって行く。


 よく晴れた日だった。
 集った民衆は興奮で頬を紅潮させ、この国を統べる者に手を伸ばし、繁栄を願った。暗い砂の底から光差す地上へ、暁天を待ち続けた人々へ、太陽の昇るが如く道を示した彼らの名を大呼した。
 王と、王を支える王弟が揃った初めての誕生日は笑顔と活力に満ちていた。後の世の人々が称えた、二人の王の治世の始まりの年でもあった。