花咲みの君へ




 太陽が真上からほんの少しだけ下がった昼日中、昼食後の休憩時間を町外れの野原で過ごしたマッシュは、数本の花を手に居候先である師の家に戻って来た。
 丁度玄関先の花壇を世話していたダンカン夫人が顔を上げ、おかえりなさいとマッシュに微笑む。そしてマッシュが持っている赤橙の花に目を留めた。
「まあ、綺麗。お部屋に飾るの?」
 マッシュは軽く首を横に振って答える。
「いえ、道具屋のマリーが足を怪我してしばらく出歩けないって聞いたから。花でも眺めたら気が紛れるかなって」
「あら、じゃあその花は良くないわ」
「え?」
 首を傾げたマッシュを尻目に、夫人は今し方手入れをしていた花壇から、マッシュが手にしている花と同じ形の花を数本摘み始めた。
 それはマッシュの持つ花と色が違って太陽のような黄色で、マッシュは差し出されるままにもう片方の手でその花を受け取る。
「この花はマリーゴールドと言ってね、花言葉が『悲しみ』なのよ。お見舞いにはちょっとねえ。でも、黄色のマリーゴールドには『健康』という意味があるから、持って行くならこっちがいいわ」
「へえ……、花に言葉があるなんて知らなかったな。渡す前で良かった。ありがとうございます」
 マッシュは黄色のマリーゴールドをまじまじと眺め、それから夫人に頭を下げた。夫人はにこやかに首を振ってから、マッシュが持っている赤橙のマリーゴールドを見つめ、近頃めきめきと身長が伸びてきた青年を見上げて問いかける。
「そっちのマリーゴールドはどうするの?」
「ああ、こっちは……綺麗だから、おかみさんの言う通り部屋に飾ろうかな」
 マッシュが照れ臭そうにそう告げると、夫人の表情が綻んだ。
「貴方、花が好きよね」
「はい、見てると落ち着くし、癒されるから」
「……そうだわ、ちょっと待っていて」
 何かを思いついたように両手を合わせた夫人は、可愛らしい笑みを見せて家の中に入って行く。
 キョトンとしつつも素直にその場から一歩も動かずに待っていたマッシュは、戻って来た夫人が艶のあるリボンと掌サイズの本を手にしているのを見た。
 夫人はリボンと、小さいがそれなりに厚みのある本をマッシュに差し出して言った。
「このリボンでお花を結んで渡すといいわ。それから、こっちは貴方にあげる」
 こっち、と示された本の表紙に『花言葉集』とタイトルが記されているのを見たマッシュは、本と夫人の顔を交互に見て眉を下げた。戸惑いの表情を見て取った夫人は、マッシュから黄色のマリーゴールドをひょいと奪い、代わりに本を押し付ける。
「若い頃買った本でね。フィガロからサウスフィガロ、それからコーリンゲン辺りに咲く花が特にたくさん載っているのよ。私はもうほとんど覚えてしまったから、古いもので悪いけれど……貴方が持っていてくれたら私も嬉しいわ」
 そう言いながら夫人は見舞いの花にリボンを結び、「こっちは部屋に生けておくわね」と添えて赤橙のマリーゴールドと交換した。
 両手にそれぞれ花と本を持ったマッシュはしばしぽかんとしていたが、微かに頬を紅潮させて口元を笑みで緩め、夫人に礼を言って本を下衣のポケットに忍ばせた。
 余談だが、この時夫人はマッシュが道具屋のマリーに淡い想いを抱いていると勘違いしたらしい。町の中央に住む飲んだくれの老人が寝込んだ時にまで花を届けに行ったマッシュを見て、がっくりと肩を落としたというのはマッシュが大人になってから聞いた話だ。
 道理でわざわざ花言葉集だなんて小洒落たものをくれた訳だとマッシュは苦笑したが、元々花が好きだったマッシュにとってこの本は思いの外興味深いものだった。
 その日、家中の窓から灯りが消えた時刻に、ベッドの中にランタンを持ち込んで俯せに毛布を被ったマッシュは、昼間に夫人から貰った花言葉集を静かにめくっていた。
 文字や言葉の言い回しで確かに古い本なのだと分かる。ページ毎に花の名前と生息地に開花期、そして花言葉とイラストが添えられていた。若干掠れて変色した黒一色で描かれているが、色の説明があるので見覚えのある花ならこの挿絵でも見当がついた。
 マッシュが小さい頃からお気に入りだった花もそこに記されていた。オアシスに咲く青い花で、行くたびに兄とたくさん摘んで帰ったことを思い出す。
 ──へえ、あの花、修行小屋の近くにも咲いてるのか。
 今度行く時は探してみようと微笑んで、マッシュはそっと本を閉じた。そのまま枕元に置き、ランタンの灯を消してごろりと仰向けに寝返りを打つ。毛布から出した顔がひんやりと冷気に包まれた。
 しばらく闇の向こうにあるはずの天井をぼんやり見つめていたマッシュは、おもむろに瞼を下ろして眠りにつくために小さな息を吐き、四肢から力を抜く。暗い瞼の裏に、懐かしい笑顔が浮かんでくる。
 あの花の名前を初めて知った。今は離れて暮らす兄と、並んで花を摘んだ時の他愛のない会話が蘇る。
(ぴったりだな、花言葉)
 兄と二人、何の不安もなく、日々を幸せに過ごすことが当たり前だと思い込んでいた。
 あの頃は、ずっと一緒にいるものだと信じて疑いもしなかった。
(おやすみ、兄貴)
 どうか夢でも逢えますようにと、願いを込めて意識を手放す。鮮やかな青を瞼の裏に敷き詰めて。
 懐かしい青い花、ブルースターの花言葉は『幸福な愛』。




 ***




 夢でも見ているのだろうかと疑った。
 街中で見かけた肖像画よりも、ずっと凛々しく美しい輝きの青い瞳を目にして息が止まる。
 風に靡く金色の髪は昔と同じ。飾り気のない鎧を纏った旅装束でも滲み出る品の良さを前に、思わず頭を垂れて膝をつきそうになった。
 マッシュ、と呼びかけてくれた声は記憶より低かった。自分の声もまた十年前に比べて低くなっているのだろうと感慨深くなりながら、マッシュもまたこれが現実であるのかを確かめるために心を込めて兄に対して呼びかけた。
 一瞬ハッと見開いた目が、懐かしく細められた様にマッシュは見惚れた。覚えのある表情より大人びてはいるが、確かにマッシュが大好きな兄の優しい微笑みだった。
 兄でありフィガロの国王であるエドガーの旅に同行することになったマッシュは、日暮れ間近のコルツ山にて野営の準備を始めていた。
 エドガーの他に新たに仲間になったティナ、ロック
ともすぐに打ち解け、談笑混じりに薪を集めている最中に視界を掠めたピンク色を振り返る。
 丈の低い見覚えのある花が茂っている箇所を見つけ、マッシュは思わず薪を抱えたまま近づいた。
(この花……、確か、花言葉は)
 この山には何度も修行で訪れている。夫人にもらった花言葉集で覚えたこの花は見慣れて珍しさはないものの、兄と再会した今は花言葉の意味と相まって特別な存在であるように感じた。
 マッシュは抱えていた薪をそっと地面に下ろし、そして先程エドガーの前では出来なかった、地に膝をつけた敬うような仕草で、淡いピンクが花弁を縁取る可愛らしい花に手を伸ばす。一本ずつ丁寧に摘んで、大きな手の中に小さな花束を作り、ひっそりと唇に寄せた。
「マッシュ? 何してんだ?」
 呼びかけに立ち上がり、両手に薪を抱えたロックを振り返ったマッシュは、右手の花を軽く掲げて小さく笑った。
「兄貴にお土産」
「へえ、見かけによらずロマンチストだな」
 茶化す言葉に気を悪くすることなく、今度は大きく声を出して笑ったマッシュは、空いた手で集めていた薪を抱え直す。今し方摘んだ花を潰したりしないよう気遣い、先を行くロックに続いた。
 ──今の気持ちにぴったりの花が咲いていた。
 再び出逢えた喜びに胸を高鳴らせ、花を捧げる人の元へと足を急がせる。
 興奮で上気した頬と同じ色をした小さな花、ゴデチアの花言葉は『変わらぬ愛』。




 ***




 その街での滞在は珍しく長かった。
 一時的な旅の拠点となった宿の庭先で、薄明の頃から自主鍛錬をこなしていたマッシュは、すっかり陽が昇って明るくなった空の下で大きく深呼吸する。
 天に突き上げた両腕をゆっくり下ろして腰に当て、宿の二階の窓を振り返って見上げた。夕べ遅くまで書類と格闘していた兄はまだ眠っているだろうか。
 仲間が増えたお陰で全員揃って動かずとも人手が不足することはなくなったが、その代わりに一国の王であるエドガーは内向きの仕事を受け入れざるを得なくなっていた。
 ブラックジャック号の揺れる機内よりは地に着いた宿の部屋の方が捗るらしく、この街に着いてからはずっと缶詰状態で溜め込んだ書類を片付けている兄へ、何か気分転換になるものでも探しに行こうかとマッシュは早朝の市場をぶらつく。
 雑多な品が並ぶ活気ある店をいくつか覗いて、勧められた香りの良い茶葉を購入したマッシュがさて宿に戻ろうかと踵を返す前に、黄色が一際目立つ店先に目が留まった。
 赤やピンクなどたくさんの色がひしめく花屋で存在感のある黄色に惹かれたマッシュは、近くに寄って房状の丸い小花が連なる枝をまじまじと眺めた。
 本で見覚えがあるとポケットに忍ばせていた花言葉集を引っ張り出し、パラパラとめくった先に現れたページと見比べて、やはりこれだと目を細める。
「綺麗な黄色でしょう」
 マッシュに気づいた女主人が奥から顔を出した。マッシュは大きく頷いて、目当てのページをさらりと流し読みしてから本を仕舞う。
「この丸っこいポンポンが可愛くてね、人気なんですよ」
 あれやこれやと勧められる内容には適当な相槌を返しつつ、マッシュはすでにこの枝を挿す花瓶を何処で調達しようかと考えていた。
 一日中部屋にこもって難しい顔をしている兄も、この鮮やかで可愛らしい黄色の花を見たら表情が柔らかくなるかもしれない。先程買った紅茶と一緒に持って行けば、少しは気分が晴れるだろうか。
 いつだって笑っていて欲しいのに、今の自分に出来ることは限られている。
「この枝、ください。あるだけ全部」
 女主人が目を丸くする。
 ──こんなものじゃ足りないけど、あの人が笑顔になる手伝いが出来るのなら。
 十年想い続けた大切な人と傍にいられるだけで幸せだと思っていたのに、どんどん気持ちが欲張りになっていく。
 目の覚めるような黄色の花が鈴生りになった枝を腕いっぱいに抱えて、兄がどんな顔をするだろうかと胸をときめかせたマッシュは、小走りに宿へと急ぎ帰る。
 砂漠の太陽にも似た鮮やかな黄色のミモザアカシアの花言葉は『秘密の恋』。




 ***




 あいつら早く連れて来いとセッツァーに急かされて、やれやれと飛空艇から降りたマッシュは花畑の真ん中で談笑を続ける少女たちに声をかけた。
「おーい、そろそろ行くぞ〜」
 マッシュの声に緊迫感がなかったせいか、こちらを振り向いたティナとセリスとリルムの三人はにこやかな笑顔で手を振ってきた。
 腰を上げる気配がないことに溜息をついたマッシュは、やれやれと肩を竦めながら三人に近づいていく。
「セッツァーがカンカンだぞ。三人で座り込んで何やってんだ?」
 輪になって座る彼女らの手には、完成間近の野花の冠が握られていた。花序を中心にぐるりと細長く揃ったピンク色の花弁を見て、へえ、とマッシュの眉が上がる。
「ガーベラか。綺麗だな」
「よく見るお花だけど、そういう名前なの?」
 ティナがあと少しで編み上がる花冠を目の高さまで持ち上げた。
 マッシュは頷き、ポケットに入れっぱなしの花言葉集を取り出してページをめくる。
「ガーベラは、確か……そうそう、花言葉が『希望』だ」
「花言葉?」
 聞き返すセリスにマッシュはガーベラのページを開いて見せた。リルムがそれを覗き込む。
「わ、この本すごいね! いろんなお花が載ってる」
「ああ、ずっと前におっしょうさまの奥さんにもらったんだ」
「花言葉っていろいろあるのね。『希望』だなんて、素敵な花だわ」
 リルムに渡した花言葉集がセリスの手に渡り、そしてティナに回る。
 ティナがまじまじと花言葉集に見入っている間に、マッシュもまた数本のガーベラを摘み、その近くに生えていた赤紫の花の存在に気づいてほんの少し含みのある笑みを零してから、ゆっくりと手を伸ばした。
 短く白い産毛に覆われた赤紫の花を二本積んだ時、花冠を完成させたリルムがマッシュの集めている花に目をやった。
「その花、摘んでどうすんの? 花冠向きじゃなさそうだけど」
「これは兄貴にあげるんだよ。部屋に花があると気分が良いだろ」
「へー、クマみたいな見た目してんのに結構繊細なんだ!」
 クマは余計だ、とマッシュが花冠を頭に乗せたリルムと笑い合っていると、それまでずっと花言葉集を見続けていたティナがおもむろに呟いた。
「……マッシュ、よくエドガーにお花持って行ってあげてるわよね」
「ん? ああ、いい花があったらな」
「ひょっとして、ちゃんと花言葉も選んでるの?」
「え?」
 ギクリと胸が音を立て、マッシュの笑顔がぎこちなく強張る。
 ティナはページをめくりながら、素晴らしい発見をしたとでも言いたげに目を輝かせて解説を始めた。
「これ、前にマッシュが持っていたのを見たわ。白いバラの花言葉は『深い尊敬』……、それからこのお花もエドガーにあげていたわよね? ガザニアって言うのね……花言葉は『貴方を誇りに思う』……」
 マッシュの背中が冷や汗で濡れ始めた。ティナはマッシュからの同意を得ようと本から顔を上げ、マッシュが今現在手にしている花に気づいて目を瞠る。
「それもエドガーにあげるの? そのお花は……、どれかしら……」
「い、いや、その」
 手遅れだと分かっていても思わず背中に花を隠したマッシュが言葉を吃らせるのとほぼ同時に、飛空艇の方向から苛立ちを隠さない怒鳴り声が響いて来た。
「お前ら、置いて行くぞー!」
 セッツァーの雷が落ちたことに飛び上がったセリスとリルムが、慌てて花を散らしながら飛空艇に駆け出す。しめたとマッシュもティナの手からやや強引に本を引き抜き、素早くポケットに押し込みつつティナを手招きした。
「ほら、置いて行かれるぞ。急ごう」
「う、うん」
 ティナの背中を押して走らせ、ティナも先を行くセリスとリルムを追うことに集中し始めたのを確認して、マッシュはホッと息をつきながら握りしめた数本の花を一瞥した。
 ──この花のページを見られる前で良かった。もしあれ以上追求されていたら、どう誤魔化せば良いか分からなかった。
 渋い赤紫の頭を垂らしたこの花は、華やかさは控えめではあるが今の自分にぴったりの花言葉を持っている。
 だからこそ兄への贈り物として『希望』の花言葉を持つガーベラと共に選んだのだが、ティナの鋭さにはすっかり肝が冷えてしまった。
(しばらく、皆のいる前で兄貴に花を渡すのはやめよう)
 二人だけの時に、自分だけが知っている花言葉の想いを込めて。
 あの人は何も気づかず、いつものように嬉しそうに目を細めて受け取ってくれるだろう。
 その笑顔を見られたら、それだけで充分なのだ。
 ふんわりとした産毛に覆われて謙虚に頭を垂らしたオキナグサの花言葉は『告げられぬ恋』。




 ***




 気を失ってどのくらいの時間が過ぎていたのか、目覚めてすぐには把握できなかった。
 土埃が舞う乾いた地面に伏していた身体を剥がし、傷の有無を確かめる。全身に鈍い痛みが脈打つが、致命傷はない。小さな傷に張り付いていた血はとっくに乾いて赤黒く変色し、拭うというよりは払い落としてマッシュは立ち上がった。
 どんよりと濁った泥のような雲が覆う空を見上げる。魔大陸はあの雲よりずっと高いところにあった。
 最後に見たのは、真っ二つになった飛空艇の向こう側にいた兄の顔。思わず伸ばした腕は空を掠め、何も掴むことが出来なかった。
 あの高さから落ちて無事でいられたのは奇跡に近い。しかし、自分がこうして生きているのだから、他の皆も──兄も必ず生き延びていると根拠のない確信があった。
 兄の手を掴めなかった拳を握り締め、マッシュは眼光鋭く前を向く。あの一瞬で荒れ果てた大地にしっかりと両脚で立ち、果たさねばならない使命のために歩き出した。
 暗い空に淀んだ空気。世界を壊した元凶を討たねばならない。そのために仲間を探すべく、まずは人を求めて街を探すことにした。
 一体自分はどの辺りの土地にいるのか、何か目印になるものがないかと見渡しながら歩みを進めるマッシュの目に、薄紅色の花がほんの少しだけ集まった群生地が映る。
 干上がってひび割れた大地の片隅に見つけたささやかな色の存在にホッと安堵し、知らず力が入っていた肩を下げて傍に歩み寄った。膝をつき、身を寄せ合うように咲いている小さな薄紅色の花弁に指先で触れる。
 この花の名前は確か、と無意識にポケットを探り、そこに何も入っていないことに気づいてマッシュはほろ苦く微笑んだ。
 落下中に落としたのだろう。構わない、何度も読んだあの本の花言葉は全て頭に入っている。
 荒んだ世界でもまだ花は咲いている。きっと何処かで生きている大切な人を見つけ出し、あの時掴めなかった手を次こそは二度と離さないと胸に誓った。
(絶対に見つけてみせる。今度こそ俺が守り抜く)
 砂混じりの風に震える花をそっと撫で、立ち上がったマッシュは再び歩き出した。
 空に輝く星のような花弁を懸命に開いていた、薄紅色のカランコエの花言葉は『貴方を守る』。




 ***




 まさかこの目が違えるはずがない。
 髪も瞳も自分の知る金と青ではなかったが、あの眼差しと佇まいは紛れもなく愛する兄の姿。
 港町でマッシュが出逢った盗賊の頭だという男は、自らをジェフと名乗った。
 飄々とした口振りに乗る甘い声も、鮮やかにマントを払う仕草も兄エドガーそのものだったのだが、同行していたセリスの追求をさらりと躱した彼は背を向けて去って行った。
 間違いなくエドガーだと憤慨するセリスを宥め、何か訳があるのだろうとマッシュはセリスのみならず自分にも言い聞かせる。
 一年振りの再会だった。感極まる余裕すら与えてもらえず、含みのある目で一瞥されたことへの衝撃が小さく済むはずがない。
 しかし、兄は無分別な男ではなかった。正体を隠していること、盗賊たちを引き連れていること、その行動に納得はできなくともエドガーのやることに間違いなどないのだ、とマッシュは荒れる心を落ち着かせる。
 彼の動向を探るために同じ宿に部屋を取り、長旅の疲れで早めに休んだセリスには内緒で彼の部屋の前に立った。
 あれは兄だ。出逢えた喜びを本人に口にすることが出来ないのは辛いが、何よりも生きていてくれて良かった──マッシュは宿の入り口に置かれていた鉢植えから一輪だけ拝借した青い花をそっと戸口に置いた。
 世界が崩壊した後でも僅かな種や苗で花を育てている宿の主人には申し訳なかったが、色とりどりの可愛らしい小花が並ぶ中に今の気持ちを代弁してくれる花を見つけて、思わず手が伸びてしまった。
 黄色く丸い花序を青い花弁がぐるりと囲んだアスターの花言葉は『貴方を信じていますが心配です』。
 花言葉など知らないだろう兄はこの小さな存在にすら気づかず踏みつけるかもしれないが、それでも構わないと自己満足のためだけに青い花を置いた。
 ようやく見つけた大切な人。もう二度と貴方を危険に晒さないと誓いを込めて、マッシュは静かに部屋から離れた。

 灯りを落とし、カーテンを開いた窓からの月明かりだけの薄暗い部屋で、明日のために身体を休めねばとベッド脇で毛布をめくった時だった。
 コツン、と踵が鳴る音がドアの外から聞こえた気がした。
 直感だった。耳の反応とほぼ同時にドアに向かったマッシュは、今が夜更けであることを忘れて勢いよく扉を開け放つ。素早く廊下に突き出した顔がぐるりと辺りを見渡した先、右手の曲がり角にマントの端がチラリと踊って消えて行った。
「……兄貴!」
 思わず声を出すと、控えめに響いていた踵の音が一瞬止まる。
 三秒の間を置いて、再び聞こえ始めた踵の音は遠く小さくなって行った。
 無意識に荒くなっていた自身の息遣いのみが耳に纏わりつく廊下で、マッシュはしばらくぼんやりと佇んでいた。──兄が来てくれた。声もかけず姿を見せず、しかしあれは兄エドガーだ。
 緊張で硬く怒らせていた肩から力を抜くと、自然と目線が下がる。マッシュはその時初めて足元に何かが落ちていることに気づいた。
 窓の外の僅かな月明かりを背負って、仄かに照らした廊下の戸口に一輪の小さな花。その形に目を見開いたマッシュが慌てて拾い上げると、それは先程マッシュが兄の部屋のドアの前に置いて来たものと同じ花、アスターだった。
 ただし、色が違っていた。
 マッシュの胸が音を立てる。──白のアスター。マッシュはこの花の花言葉を知っている。しかし兄にその知識があるとは今の今まで思い当たらなかった。
(……まさか。偶然だ……でも)
 あまりに合い過ぎているマッシュの花への答えに、足が床に貼り付いたように動かない。
 恐らくは、偶然だろう。エドガーはマッシュとセリスが同じ宿を取ったことに気づいていた。ドアの前の花を見て、マッシュだろうと見当をつけてお返しのつもりで置いてくれただけなのだ。
 しかし、もしも兄が花言葉の意味を理解して白いアスターを置いたのだとしたら? ──マッシュの胸がざわざわと騒ぎ、背中がじっとり湿り出す。
 ──今まで贈って来た花々に秘められた言葉も、兄は気づいていたのだろうか?
 誰もいない暗い廊下に一人きり、ぽつんと立ち尽くすマッシュは切なげに眉を寄せ、白い花弁に小さくキスを落として目を閉じた。
 細長く揃った花弁が繊細に揺れる白いアスターの花言葉は『私を信じてください』。




 ***




 全ての闘いが終わり、晴れた空の下で子供達のはしゃぐ声がどの街でも響き渡るようになった頃。
 フィガロ城にも人々の往来が増え、活気付いた城内の様子にマッシュは目を細めていた。
  ケフカとの死闘に打ち勝ち、兄エドガーを守り抜いてこの城に戻すことが出来た時点で、自身の役目は終わったつもりだった。
 一度は国を離れた身である。のうのうと舞い戻って腰を据える気は最初から無かった。その上自分は兄へ肉親以上の想いを抱いてしまっている。
 許されない気持ちを持て余してしまう前に、存在ごと消えてしまうのが一番良いことをマッシュは悟っていた。
 兄は帰城後しばらくは忙しく動き回り、寝る間も惜しむ日々が続いていたが、ようやく午後のティータイムをマッシュと楽しむ程度には時間の余裕も生まれ始めていた。
 そろそろ潮時だろうと、誰にも告げずに少しずつ旅の準備を整えていたマッシュは、見回りと称して城の中を懐かしく巡り歩いていた。
 兄との思い出をひとつひとつ頭に浮かべながらゆっくりと進んだ先に、明るい陽射しの下で華やかに揺れる中庭の花々が見えてくる。
 城が浮上してすぐの頃、悪天候でなかなか育たないと庭師が零していた花がここまで鮮やかに咲くなんて、と感慨深く眺めながら、マッシュはゆっくりと花壇の周りを歩いた。
 庭師が鼻歌を歌いながら雑草を抜いている。足音に気づいたのか、ふと顔を上げた先にいたマッシュに頭を下げた。マッシュは困ったように笑って手のひらを向け、庭師の気遣いを押し留める。
 もうすぐただの旅人となる自分に敬意など不要。心の中の声は口には出さず、作業を続けてくれと頼みながら庭師が丹精込めて育てた花たちを見つめた。
 ひとつひとつ花の名前と花言葉を思い浮かべて、ふと一際見事な赤い薔薇の前で足が止まる。
 ──最後くらい、ストレートな言葉を選んでみようか。
 マッシュは庭師に顔を向け、申し訳なさそうに口を開いた。
「これ、一輪もらえないかな」
 別れの挨拶には不向きかもしれないけれど。
 胸に宿る情熱そのものの色をした赤い薔薇の花言葉は『貴方を愛しています』。


 人々が寝静まった城内に微かな靴音が響く。
 足音を忍ばせてはいるが、この静寂に溶け込むほどには気配を殺すことが出来なかった。それでも眠った人を起こすような音ではないだろうと、マッシュは息をも殺して目的の部屋の前に立つ。
 誰よりも大切な兄の部屋。この扉の向こうでエドガーは寝息を立てているだろう。その安らかな表情をもう二度と見ることができないのだと思うと、胸の奥がジンと痛みを滲ませた。
 手にした一輪の薔薇をじっと見つめ、願いを込めるように瞼を下ろす。そして小さな息を吐き、静かにドアの前の床に下ろそうと腰を屈めかけた時。
 前触れなく、ドアが開いた。
 驚きに声すら出せず硬直するマッシュの前に、軽装とは言えまだ寝支度を終えていない普段着のエドガーが立っていた。
「思った通りだ。やはり双子だな。行動を起こす日が一緒だ」
 マッシュがドアの前にいることを疑問に思うどころか、当然とまで思っているような口振りのエドガーに何と答えるべきかマッシュが戸惑っていると、エドガーはおもむろにマッシュの腕を掴んで室内に引き込んだ。
 引っ張られるまま中に入ることになったマッシュは、エドガーがドアを閉めただけでなく鍵をかけたことに音で気づき、ギョッとして振り返る。
 エドガーは鍵までかけたドアにぺたりと背をつけ、マッシュを逃がさないと意思表示するように出口を塞いだ。
「お前の考えていることなどお見通しだ。……城を出るつもりだったな。俺に何も言わずに」
 マッシュはあからさまに顔色を変えた。
「普段の様子を見ていれば分かる。内緒で旅支度を進めていたことくらい、俺はとっくに気づいていた」
 顎を軽く下げたエドガーに上目遣いでじとりと睨まれ、マッシュは言葉を詰まらせる。
 どう返したものか、目を泳がせて言い訳を探すがうまい返事は見つからない。何しろマッシュの格好はこの夜更けだと言うのに見事な旅装束だった。まさか出会すと考えもしなかったため、誤魔化すための言葉の用意などあるはずがない。
 狼狽えるマッシュを睨んだまま、エドガーはゆっくりとドアから離れて部屋の端に向かうが、視線はマッシュから決して外そうとしなかった。逃げるなよと口に出さずとも釘を刺されていることが分かって、マッシュは赤い薔薇を一輪持ったまま兄の動向をおろおろと見守ることしか出来なかった。
 エドガーは机に置かれた一冊の本を手に取った。その手が本を持ち上げた瞬間、見慣れた表紙に気づいたマッシュがあっと声を漏らす。エドガーの目がきらりと光った。
「これは、お前のものだな?」
 エドガーがマッシュに示した本はあの花言葉集だった。
 世界が崩壊した時になくしたと思っていたあの本が何故兄の元に? ──疑問符で頭をいっぱいにしながら、マッシュは曖昧に頷いてみせる。
「やはりそうか。……そうだとは思っていたが、今まで黙っていてすまなかった」
 今度は辿々しく首を横に振ったマッシュは、驚きに呆けた顔のまま半開きの口を持て余していた。
「あの日……世界の崩壊に巻き込まれて飛空艇から投げ出された後。目が覚めた時、これが傍に落ちていた」
 エドガーは軽く瞼を伏せて本を見つめ、懐かしむように一度目を閉じた。そして目を開いてからゆっくりと本を机上に下ろし、マッシュに顔を向ける。
「かなり前にね。ティナから聞いたことがあったんだよ。お前が花言葉の本を持っていたと」
「……ああ……」
 確かにティナに花言葉集を見せた日のことを思い出し、マッシュは肯定のためにまた頷いた。エドガーはマッシュの素直な反応に満足したようで、初めに比べて目尻を柔らかく下げる。
「ティナが興奮した面持ちで話してくれた。日頃マッシュが俺に贈ってくれる花にはちゃんと意味があるようだと。俺は単純にお前が花をせっせと運ぶのは俺を気遣ってのことだろうと嬉しく感じていたが、ティナに言われるまで花言葉には考えが至らなかった」
 マッシュの首から上の肌が真っ赤に染まった。
 ではやはり、ジェフに扮していた時の兄は全てを知った上で──変装を解いた後のエドガーにも旅の途中で見つけた僅かな花を贈っていたマッシュは、秘めた想いが筒抜けになっていたことへの恥ずかしさで唇を噛んで俯く。
 荒地にも逞しく残っていたナズナの花言葉は『私の全てを捧げます』。
 物珍しくはないが、生命力があり元気の出る黄色が眩しいタンポポは『真心の愛』。
 岩場に少しだけ咲いていたミセバヤは『大切な貴方』……
 どれもこれも、想いを込めてエドガーに渡していた。
 兄が全てを知っているなどと思いもしないで、なんて間抜けなんだろう──エドガーが今どんな顔でマッシュと向き合っているのか直視できず、マッシュは自身の爪先を睨みながらもうずっと言葉を失っていた。
 コツン、と音が聴こえる。兄の靴音が少しずつ、しかし確実にマッシュの元に近付いてくる音だった。
「この本を手にして、それまでお前に貰った花がどんなものだったかを思い出した。ティナは全ての花を覚えていた訳ではないようだが……俺は全部覚えている。記憶力には自信があるんだ」
 マッシュがぎゅっと目を瞑る。顔が燃えるように熱い。酷い拷問だと部屋を飛び出したくてたまらなかった。
「ミモザアカシアにオキナグサ……十年振りに出逢った時はゴデチアをくれたな。どれも嬉しかった。お前が忍ばせた意味など分からなくとも、お前からもらうものは何だって嬉しかったよ、マッシュ」
 声の近さに驚いて思わず顔を上げたマッシュの目の前に、エドガーが微笑んで立っていた。
 エドガーは青い瞳を細めて慈しむようにマッシュを見上げ、優しく弧を描いた唇をゆっくりと開く。
「お前がこの城から再び消えてしまう前に、今夜お前の部屋を訪ねようと思っていた。俺からの返事はこれだ」
 そう言うと、エドガーは背に隠していた白い花をマッシュに差し出した。
 マッシュが目を見開く。フリル状の華やかな花びらを持つアザレアの花だった。
 花言葉はすぐにマッシュの頭に浮かんで来た。だからこそ言葉が出なかった。
「お前、この花の花言葉……分かるな?」
 優しい声の問いかけに、マッシュは何も言えずに黙って頷く。エドガーが安堵したように、より口角を上げた。
「お前にこれを渡したい。だから……お前が今持っているその赤い薔薇を、俺に渡してくれないか?」
 半開きにした唇を震わせて、躊躇うマッシュをエドガーは根気強く見守る。
 ──これを、渡して良いのだろうか? 目の前でこの赤い薔薇を手渡した人が、白いアザレアを返事として渡したいと、兄はそう言っている……?
 ごくりと喉を鳴らしたマッシュは、ぎこちなく赤い薔薇をエドガーに向けた。マッシュの緊張が伝った花弁が小刻みに震えている。
 エドガーが嬉しそうに目尻を下げた。これまで贈ったどんな花も霞むような、鮮やかな笑顔だった。
 赤い薔薇を手にしたエドガーは、もう片方の手に持つ白いアザレアを改めてマッシュに差し出す。薄らと頬に朱を差したエドガーに目で促され、マッシュは怖々とアザレアに触れた。
 マッシュの大きな両手が、壊れ物を抱えるようにアザレアを包む。まだ戸惑いが大きいマッシュの赤い顔を、エドガーの微笑みが愛おしげに見守っていた。
「何処にも行かないでくれ、マッシュ」
 初めて聞く甘えた兄の声に眩暈を感じたマッシュは、辿々しく腕を伸ばして薔薇を持つエドガーの背に触れた。
 その手に合わせて身を寄せて来たエドガーの体温を確かに感じ、マッシュは今度はしっかりとその身体を抱き締めた。
 やがて、強請るように顔を上げたエドガーに何度も急かされて、ガチガチに身体を強張らせたマッシュは長い長い時間をかけ、ようやくエドガーの唇に触れるだけのキスを落とす。
 何処にも行かないことを約束する誓いのキスでもあった。

 愛する人によく似た、高貴な美しさと華やかさを持つ白いアザレアの花言葉は『貴方に愛されて幸せ』。