花咲みの君へ2




 控えめな音量で柔らかい鼻歌など響かせながら、昼食後の修行に区切りをつけてティータイムの準備へと向かう道すがら。中庭を通りかかったマッシュは、よく晴れた紺碧の空に自然と目を引かれて微笑んで、ふと視界の端に入った花壇の脇に座り込む三人の女官に気づいた。
 顔を向かい合わせて円になって、彼女たちは一様に目線を下ろして何やらせっせと手を動かしている。何をやっているのか興味を引かれたマッシュは、近づきながら軽い調子で声をかけた。
「そんなところで集まって何してるんだ?」
 低いがよく通る美声の呼びかけに女官たちの肩が跳ねる。同時に顔を上げて振り返った三人は、マッシュの姿を認めて目を丸くした。
「ま、マッシュ様!」
「そ、その、大したことでは……」
 動揺で頬を赤らめ吃る女官を上から覗き込み、その手元を確認して合点がいったマッシュは、ああ、と笑顔で頷いた。
「花冠作ってたのか。ここ、シロツメクサたくさん咲いてるもんな」
 庭師が丹精込めて育てている花壇からほんの少し離れて、歩道として敷き詰められた石畳の隙間を縫うようにクローバーの緑が広がる一帯があった。
 砂に埋もれていたフィガロ城の浮上後、少しずつ増え始めたその群生を当初は処分しようとしてどうしても出来なかったのだと、かつて庭師が話してくれたことをマッシュは思い出す。一度は失われた緑がささやかに広がる様を残しておきたかった庭師の気持ちがよく分かって、そのままで良いんじゃないかと背中を押したのだ。
 そうして庭師に見逃されたクローバーの葉が敷き詰められた絨毯の上、女官たちははしたなくも可愛らしく座り込み、初夏を思わせる温かな風と共に顔を出したシロツメクサの花を摘んで花冠を作っているのだった。
 マッシュから否定的な言葉が出なかったことに安堵したのか、女官たちの表情が分かりやすく和らぐ。マッシュが来たことで手を止めてしまった三人に自分のことは気にするなと告げて完成を促しながら、マッシュもまた辺りに蔓延るクローバーの上にどっかりと腰を下ろした。すぐ隣に座られた女官がギョッとして身体を硬直させるが、マッシュは御構いなしに晴天を仰ぐ。
「ああ、草の上気持ち良いな。兄貴も連れて来ようかなあ」
「えっ……エドガー様も、ですか」
「で、で、でしたら私たちは退席致します」
「いいって、気にすんなよ。へえ、みんなもうちょっとで出来上がるな。昔旅をしてた時に仲間も花冠作ってたよ。懐かしいなあ」
 高らかに笑うマッシュに対して三人の顔は笑みを乗せてはいるが遠慮がちに強張って、本当に君主を気安く連れて来かねない王弟の無邪気さに焦りを感じたのか、花を編む速度がぐんと上がった。やけにスピーディーになった手捌きを楽しげに見守っていたマッシュは、ふと隣の女官が花と共に編み込んでいるクローバーの葉に目を留めた。
「四つ葉だ」
「え?」
 マッシュの呟きに女官が再び肩を竦ませる。女官の萎縮には気づかず、マッシュは長い指を伸ばして葉を指した。
「ほら、編んでる葉っぱ。それ、四つ葉だな……あれ、こっちもだ」
「ま、まあ、本当……気が付きませんでした」
 間も無く真円に繋がろうとしている作りかけの花冠
を女官が持ち上げると、編み込まれた緑の中にチラホラと四つ葉のクローバーが混じっているのが見えた。意図的ではない割には多過ぎる。
 そこで周囲の群生をよく観察すると、驚くほど多くの四つ葉が見つかった。人に踏まれることで本来三枚葉であるクローバーの葉が増えることがある。たまたま人が立ち入りやすい箇所に集まったせいか、ここらは四つ葉が育成しやすい環境にあるのだろう。
 珍しいはずの四つ葉がこうまでたくさん生えているとは──四つ葉のクローバーと言えば誰もが幸運のシンボルだと知っている。
 咄嗟にマッシュの頭に浮かんだのは、金色の髪を彩る真緑の鮮やかさだった。これは良いとマッシュも辺りを見渡し、四つ葉のクローバーを探して丁寧に摘み始める。
「冠の編み方、俺にも教えてもらえるかい? 兄貴に良いお土産になりそうだ」
 歯を見せて笑ったマッシュを面食らった顔で見返した女官たちは、揃って悪戯っぽい微笑みを零す。この国の王とその弟の人となりを知っているからこその反応だった。
「まあ、それは……、ええ、勿論です」
「きっとお似合いになりますわね」
 女官たちはマッシュに丁寧に編み方を説明した。無骨な指で緑を掻き分け慎重に茎を摘み、自分たちの冠を編み終えた三人も総出で四つ葉を探して、ぐるりと立派な円を描くまでにはそれなりの時間を要した。全て四つ葉で編まれた冠を手にした時、マッシュも見守る女官たちも達成感に溢れていた。
「凄いわ、本当に四つ葉だけで出来てしまうなんて……」
「陛下に相応しい冠ですわ」
 褒めそやす女官たちに照れ臭く笑い返し、緑薫る冠を手に麗らかな陽射しの下で何とも長閑な時を過ごしていたところだった。
 コツンと靴音が聞こえ、中庭に整備された石畳の歩道を打つその硬質な音が誰の靴であるか即座に聞き分けたマッシュは、振り向くと同時に呼びかけていた。
「兄貴」
 その声に弾かれるように女官たちも顔を上げ、慌てて立ち上がって頭を下げる。現れたエドガーは穏やかに微笑んで、気にするなと言いたげに手のひらを下に向けて緩く振った。
「時間になってもさっぱり顔を出さないから、何処で油を売っているのかと思ったぞ。羨ましい奴だな、こんなに美しい場所で花も恥じらう美女たちとご一緒しているとは」
「あっ、ごめん。そうか、そういや兄貴のところに向かう途中だったんだ」
 ティータイムのことをすっかり忘れていた。頭を掻くマッシュの前でわざとらしく不貞腐れた表情をしてはいるが、眦が緩やかに下がったエドガーの柔らかい目に怒りの色は見られなかった。
 エドガーの金色の髪と、その髪を結ぶ青いリボンの端が風に靡いてひらひらと揺れる。その光景に微かな懐かしさを感じたマッシュは、壁のない陽の下でエドガーと会うのは久し振りだということを思い出した。
 晴れ渡った青い空に金の頭髪がよく映えていた。眩しさに目を細めながら、マッシュは完成したばかりの四葉のクローバーで編まれた冠をひょいとその頂に乗せた。エドガーが瞬きをして青い目を上に向ける。
「似合ってるよ」
 金髪を柔らかく横切った弧は鮮やかな翡翠を思わせて、世辞ではなく綺麗だとマッシュは破顔する。民に寄り添い同じ土を踏むことを好む兄王には、この緑の冠は誇り高く良く似合うと素直にそう感じた。
 エドガーは頭に手をやり、被せられたものを崩さないよう丁重に外して目の前でまじまじと見た。その顔が優しく微笑したのを確認してマッシュはホッと息をつく。
「へえ、クローバーか。器用なものだな、編んであるのか」
「うん、みんなに教えてもらって編んだんだよ」
「お前が? 凄いじゃないか」
 気遣いを含まず素直に賞賛してくれるエドガーの前で照れ笑いし、マッシュは後ろで肩を縮こまらせて立ったままの女官たちに改めて礼を告げた。エドガーが迎えに来たくらいだ、彼女たちにはかなりの時間を付き合わせてしまったのだろう──マッシュが詫びると三人は一斉にとんでもないと首を振り、それぞれ編み上がったクローバーとシロツメクサの冠を手にお辞儀をして去って行く。ふんわりと揺れたスカートからクローバーの葉が落ちるのを笑って見送るマッシュの傍で、ふとエドガーが葉の数に気づいた。
「おや、これは……四つ葉があるな」
「ああ」
 よくぞ聞いてくれたとばかりに大きくかぶりを振ったマッシュは、得意げに胸を張る。
「全部四つ葉で揃えたんだ。探すのに時間かかって待ちぼうけさせちまったのは悪かったけどさ」
「全部? それは珍しい……な……」
 驚きの表情を浮かべたエドガーの唇が動きを止め、途切れた最後の音のままの形を保って固まった。突然黙りこくってじいっとクローバーの冠を凝視するエドガーの顔を、マッシュが不思議そうに覗き込む。
「兄貴?」
 呼びかけるとエドガーはハッとして、僅かに目を泳がせた。奇妙な反応に首を傾げるマッシュの前で、エドガーは笑みともつかない曖昧な表情を作り、何処か遠慮がちな声で確認してきた。
「これは……、お前が、俺に、くれたのか?」
「? うん、そうだよ」
「そう、か……」
 エドガーはぱちぱちと不自然な回数の瞬きをして、それから手の中の冠を大事そうに抱え直した。口元が微かに綻んで、その多幸感を感じる面差しに思わず見惚れたが、背を向けるように踵を返したエドガーのマントがマッシュの視界を覆う。
「……ティータイムが終わるな。今日はこのまま仕事に戻る」
 心成しか上擦ったエドガーの言葉でアッと頭を抱えたマッシュは、申し訳なさそうにその手で頭を掻いた。
「ごめん、この後お茶だけ持って行くよ」
「ああ、それは助かる、ありがとう」
 そう答えたエドガーはすでに中庭を後にするべく歩き出していた。慌てて後を追いながら、声に不機嫌な空気は一切ないのに意図的に顔を逸らされているように感じてマッシュは一抹の不安を覚えるものの、先を行くエドガーが大事そうに冠を優しく抱えているのを見て気のせいかと首を捻る。
 そうして後ろ姿を見つめながら仄かに口元を緩め、マッシュは先程緑の冠を頭頂に据えたエドガーの姿を思った。──出来ればもう一度頭に被って見せてもらえないだろうか。緑がよく似合って綺麗だった。
 マッシュとエドガーは兄弟であり恋仲でもある。はずである。少なくともマッシュはそう思っている。そしてエドガーもそう思ってくれている、と、信じている。いや、信じたい、が正直な気持ちかもしれない。
 抱き締め合ったり口付けを交わす仲でありながら思考が弱気なのは、自身の不甲斐なさのせいであるとマッシュはきちんと自覚していた。
 マッシュはこれまで何度となくエドガーへ想いを伝えて来たが、直接口にしたことは一度もない。花言葉に託してせっせと花を贈っていただけである。
 その行為の意味にエドガーが気づいて反応してくれた。マッシュが自ら想いを打ち明けた訳ではない。心が通じたと信じているあの日、エドガーが先立って行動しなければマッシュは恋心を胸に秘めて城を出るつもりだったのだ。
 今の関係が在るのはマッシュの努力の賜物ではない、それは時折マッシュを不安にさせた。──エドガーは本当に自分と同じ強さで想ってくれているのだろうか?
 触れ合ったりキスをするのは兄弟としての愛情表現が多少行き過ぎたものと言えなくもないし、エドガーが自分に求めているのは本当に恋人としての振る舞いなのか? 心に問うても胸を張れるだけの自信がなかった。
 ならばはっきり伝えれば良いと思う反面、もしも気持ちにすれ違いがあったならと仮定して怖くなる。大抵の花が持つ花言葉はひとつの意味ではなく、マッシュが伝えたい想いをそのままエドガーが受け取ってくれている確証はない。
 尋ねれば良いだけのことが出来ずにいるのは、曖昧なままでも傍にいられる現状に甘んじているからに尽きる。だけど本音はもっと強欲で、抱き締めたり口付けたりするだけでは足りない下心も当然ある、その癖それを知られるのは怖いという体たらくだ。
 いつかははっきりさせた方が良いと考えはするものの、結局これまで行動に移すことなく時間だけが過ぎた。身近で手に入れられるありとあらゆる花を運び、そろそろ次に渡す花を選ぶのも困難になって来た。
 そうして溜息をつきながら、悩んでいるフリをしてのらりくらりと日々に身を任せる、この日もそんな流れの一部の出来事としか思っていなかった。



 夕食を終えたエドガーは珍しく早々に自室へ戻って行った。
 いつもなら食後に揃って酒を嗜む時間を作るエドガーがやけに落ち着かない様子で席を立つものだから、体調でも悪いのかと心配して引き留めたマッシュに対し、エドガーは問題ないと控えめに笑ってそそくさと立ち去った。
 普段と違って手持ち無沙汰な夜の始まりだった。仕方なく部屋に戻ったマッシュは、ぼんやりと椅子に腰掛け何をするでも無く腕を組み、虚空を見つめる。
 退屈だった。夜の長さにマッシュは苦笑する。共に食事を終え、他愛のない語らいを楽しみ、夜が完全に更ける前におやすみのキスをしてそれぞれ眠りに就く。そのささやかな日課がどれだけ大切な時間で、またその日々をどれだけ当たり前だと思っていたか。一度はエドガーから離れて城を出ようと決心までしたというのに、近くにいるうちにすっかり欲張りになってしまった。
 エドガーだって一人になりたい時くらいあるだろう。ただでさえ忙しい日々の中で僅かに得られた自由な時間を、マッシュのためだけに使わなければならない道理はない。マッシュもエドガーを縛りつけるつもりは毛頭ない。
 そう納得して、マッシュは寝支度を始めた。昼間であれば身体を動かして時間を使うところだが、今から汗を掻くには少々遅すぎる。
 着替えを済ませ、テーブルに置いていた花瓶に挿していた数本の切り花から花弁が落ちてしまったものを抜いて処分しながら、しばらくエドガーに新しい花を贈ることが出来ていないことに気づく。
 視察に出向いたり城下町の補修を手伝ったり、マッシュが単独で城を出るそういった機会が減っているからだろう。それだけ世界が平和になりつつあるのは素晴らしいことだが、新しい花との出会いが減ることは単純に寂しかった。
 中庭や城の近くで見つかる花は粗方贈り尽くしてしまったし、尚且つ花言葉で意味を持たせるとなると選定は容易ではない。しばらく遠出する予定もなく、今日たまたま渡すことになったクローバーのように毎度野草を捧げるのは気が引けて、どうしようかと悩んでいた時だった。
 コンコン、と小さく響いた音にマッシュは飛び上がるほど驚いた。確かにノックが聞こえたドアを振り返る。考え込んでいたせいもあるかもしれないが、誰かが部屋を訪ねて来るときは大抵足音で直前に気付くものだ。遠慮がちなノックの音から予測して余程の忍足で来たのだろうか。
 聞き間違えではないはずだと近づいたドアを開くと、そこに立っていたのはエドガーだった。そのことに改めて驚きもしたが、こんな時間に部屋を訪ねて来るのはエドガーしかいないことも分かっていた。
 ドアを開けた瞬間にふわりと漂ったいつもと違う香水の匂いに瞬きをする。初めて嗅ぐ、やや甘めの良い匂いだった。
 エドガーは夜着では無かったが軽装だった。いつもの髪留めやリボンではなく、ひとつに緩く結んだ髪を肩から胸に垂らしている。廊下の控え目な照明でさえ髪の艶を美しく光らせて、改めて綺麗な髪だとマッシュはつい目を奪われた。
 エドガーはと言えば、マッシュの格好を見て少し戸惑ったようだった。すっかり寝支度を終えていたのがまずかっただろうか、おやすみの挨拶くらい交わしに出向くべきだったかと焦るマッシュの前で、エドガーは日頃の明朗な様子は何処へやら、酷く頼りなくもどかしげな口振りでボソボソと呟き始めた。
「お、遅くなって、すまない……、その、手ぶらで来るのもどうかと思って、……探すのに、少し……手間取った……」
 歯切れの悪さも気になるが、エドガーが詫びたことでマッシュの疑問は大きくなる。夕食後、エドガーはマッシュとの話もそこそこに部屋に戻って行った。改めて夜に訪ねる約束はしていなかったはずだ。
 マッシュはもう一つエドガーの不思議な仕草に気づいた。右腕を背中に添わせて、どうやら何か手に持っているものを隠している。一体何を探して持って来たのかとマッシュが目を瞠る中、エドガーはそわそわと視線を揺らし、薄っすら頬まで赤く染めて隠された右手を前に出した。
 エドガーが握っていたのは、小さな白い十字花を幾つも付けたナズナの茎だった。か細いそれは力強く握り締められてやや萎れているが、茎の瑞々しさから見てたった今エドガーが外で摘んで来たもののようだった。
 中庭のシロツメクサ同様、雑草と言って差し支えないこの花は整備の甘い道の脇などそこら中で見かけて珍しくもない。しかし夜間に軽装でふらふらと城の外に出かける国王に声をかけない兵士が居るはずがなく、人目を忍んで何処からかナズナを摘んだからこそエドガーが「手間取った」のだということも把握した。
 問題はその理由だった。夜に辺りを憚って訪ねて来たエドガーがナズナを差し出している。
 マッシュは即座にナズナの花言葉を思い出していた。その言葉を携えてやって来たのだとしたら青天の霹靂だ。何故エドガーがナズナを持って来たのか、混乱の中でマッシュはとんでもない見落としをしていたことに気づいた。
 昼間にマッシュがエドガーに渡したクローバーの冠。クローバーの花言葉は『幸運』だが、大事なことを完全に失念していた──クローバーは葉の枚数で花言葉が変わるのだ。
 一つ葉から始まり二つ葉、三つ葉、そして四つ葉。
 覚えている限り十葉まで用意された花言葉の中で、四つ葉が意味する言葉を思い出してマッシュは愕然とする。
 四つ葉だけを選んだ冠を手にして、エドガーは確かにマッシュに「俺にくれたのか」と問いかけた。何故あの時頭が回らなかったのかと、絶句したマッシュの表情を見たエドガーの顔色が変わる。
 エドガーは素早くナズナを引っ込めた。部屋に訪ねて来た時のような浮ついた気恥ずかしさではない、純然たる気まずさのみでナズナを隠したエドガーの頬の赤みもまた、照れ臭さや恥じらいといったものが消えてただの羞恥に変わってしまった。
 まずいとマッシュは直感した。マッシュの浅はかな反応でエドガーが事実に気づいてしまった──即ち、マッシュが渡した四つ葉のクローバーに花言葉の想いが込められていた訳ではなかったということを。
「……ははっ、すまん。どうも、勘違いを……してしまったようだ」
 ぱっと笑みの形を作った唇に空元気を多分に含んだ明るい声を乗せて、エドガーは一歩後ずさる。空気がふわりと動いて香りまでもが遠ざかり、マッシュはハッとした。
「急に、悪かった。驚かせたな。……おやすみ」
 努めて笑顔を保つがぎこちなさを消し切れないまま、エドガーがドアノブに手を掛けた。マッシュの頭の中を駆け巡る幾つかの感情が問いかけてくる。このまま帰して良いのかと。
 想いをはっきり口にもせず、受け取る側のエドガーに感情の選択を任せっきりで、ただの一度も自分の言葉で本当の気持ちを伝えたことがないまま。この夜のために手ずからナズナを摘んでくれたエドガーを、黙って行かせてしまっては、きっとこの先も永遠に想いは告げられない。
 マッシュはノブを引こうとするエドガーの手を止めた。もう片方の手で肩を掴み、逃げ腰だった身体を室内に引き入れる。身を強張らせたエドガーの抵抗は強かった。
「気に、するな。俺が勝手に勘違いしたんだ、気を遣わないでくれ」
 エドガーの笑顔が歪む。マッシュと目を合わせないのは憐れまれたくないから、そんな思いが透けて見えて、マッシュは自分への苛立ちを抑え切れずにエドガーの身体を抱き締めた。強い力は拘束にも似ていた。
「マッ……」
 咄嗟にマッシュの胸に拳を当てたエドガーの声には、怒りが混じった哀しみが滲んでいた。丹念に梳かれただろう頭髪を大きな手のひらで覆い、マッシュはエドガーの頭を抱き込んで自分より小さい身体を包む。
「やめろ、マッシュ。これ以上惨めになりたくない」
 硬い声が震えていた。マッシュは力を緩めずに、一度大きく深呼吸してから胸に閊えた言葉を吐き出した。
「違う。違うんだ。気遣いじゃない。確かに昼にクローバーを渡した時、いつもみたいに花言葉を気にした訳じゃなかったんだ。でも、花言葉なんかに頼らなくても俺はずっと兄貴に伝えたい想いがあって、それなのにずっと口に出せなかった臆病者だ。いつだって兄貴に手を引いてもらって、俺はそれに頼りっぱなしで。……それじゃダメだってやっと分かった」
 ぎゅっと抱き込んだ頭に頬を擦り寄せてから、マッシュは腕を緩めてエドガーの両肩を掴む。
 向かい合った先にあるエドガーの顔にはすでに何も取り繕われることなく、強張って不安が渦を巻いていた。その怯えたように揺れる眼差しを覗き込み、早鐘を打つ鼓動の大きさに負けないように、マッシュは四つ葉のクローバーの意味を自分の言葉で告げるべく口を開いた。
「兄貴がここに来てくれなかったら、ずっと言えないままだったかもしれない。これからは、ちゃんと自分の口で言う。……俺のものに、なってください。……貴方が好きです。兄貴の全てを、俺にください」
 瑞々しい緑に希望を感じさせる四つ葉のクローバーの花言葉は『私のものになって』。
 見開いたエドガーの双眸が濡れて波を打つ。緊張で真っ赤にのぼせ上がったマッシュの顔を見上げて小さく口を開いたエドガーは、何かを告げようとして出来なかったのか、戦慄く唇を緩く噛んで、黙って萎れたナズナを持ち上げた。
 ナズナを握るエドガーの手ごと包んで握り締め、意を決したマッシュが震える唇を自身の唇で塞ぐ。エドガーは充分過ぎるほどマッシュに想いを伝えてくれたのだから、言葉で聞かずともそれで良かった。
 可憐な小花が幾つも寄り添うナズナの花言葉は『貴方に私の全てを捧げます』。
 マッシュはエドガーの身体を横抱きに掬い、大切な宝物のように抱き上げた。



 慎重にベッドの上に横たえた身体からすでに力は抜けていた。
 大きくぶるりと震わせたエドガーの身を包むように覆い被さり、マッシュは目と目を合わせる。普段ならそれだけでも気恥ずかしくて泳ぐ目を、今日は逸らさなかった。
 乱れて額に散ったエドガーの前髪を優しく掻き上げ、額に口付けた。一瞬目を瞑ったエドガーの瞼が開いた時、甘やかに蕩けていた青い目が愛おしくて、今度は唇に口付ける。エドガーにせがまれずにマッシュから口付けをするのはこの日が初めてだった。
 最初は恐る恐る、徐々に深く、絡む吐息で口付けの湿度が濃くなっていく。エドガーが少しだけ唇を開いたその奥へ、僅かな躊躇を振り捨ててマッシュは舌を挿し入れた。
(温かい)
 マッシュはエドガーの舌に触れ、上顎や歯列をなぞりながら自分のものではない熱に酔った。これまで触れるだけのキスしかして来なかったマッシュには初めての温かさと柔らかさだった。
 絡ませた舌を伝う唾液の糸が切れた時、うっとりと惚けた表情のエドガーと自分は全く同じ顔をしているのだろうとマッシュは確信する。
 辿々しく頬から首に触れ、肩から腕に降りたところでエドガーが握ったままだったナズナに気づく。エドガーもマッシュの視線を追い、擽ったそうに眉を下げて花からそっと手を離した。その手を真っ直ぐマッシュへ伸ばし、指先が頬に触れる。ピクリとマッシュが身体を揺らすほど冷えた指先がいじらしくて、マッシュはその手を包んで唇を当てた。
 慣れない手つきで衣服に手を掛けるマッシュをエドガーが手伝って肌を晒し、エドガー一人だけ恥ずかしい思いをさせないようにとマッシュも豪快にシャツを脱いで、胸を合わせた時に直に伝わる体温のあまりの熱さに二人は同時に吐息を零した。緊張からか薄っすら汗ばんだエドガーの肌から立ち昇る甘い香りが微酔を誘う。
 エドガーの肌は滑らかだった。日頃着崩すことのないエドガーは陽の下に肌を晒さず、砂漠の民でありながら胸も腹も目が眩むほど白い。
 マッシュの胸や背には修行で拵えた大小の傷痕が残るが、エドガーには目立った痕が無くマッシュはホッとする。エドガーはエドガーでマッシュの古い傷痕が気になるのか、まだ冷たい指先で引き攣れた肌をそっと撫でた。
 目が合うと、どちらともなく照れ臭い笑みが浮かび、自然と唇を重ねた。当たり前のように口付けながら、マッシュは今まで言葉や態度にはっきりと表して来なかった自分を悔いる。
 あの赤い薔薇を捧げた時、言葉に出して伝えていればここまで遠回りはしなかっただろうし、エドガーに哀しい顔をさせることもなかっただろう。
「愛してる」
 ずっと素直に言えなかった言葉を口にすると、これまで常に胸の奥に蹲っていた後ろめたさに似た靄が解けて消えていくようだった。
 たった一言、しかし簡単ではない愛の言葉は、花に託して大切に紡いできたものだった。エドガーが笑ってくれているうちはそれでも良かった。二人の関係を前に進めるためにはそれだけでは足りなかったことを、マッシュは今満ち足りて瞳を潤ませるエドガーを見下ろしながら改めて思い知る。
 エドガーは何度か瞬きをして恐らくは浮かんでくる水滴を飛ばし、目尻を下げて微笑んだ。
「俺も、愛しているよ。お前が花を持って来るのが嬉しかった。次はどんな花言葉だろうと、いつしか欲しい愛の言葉を持つ花や草の名前を覚えてしまって、お前が持って来ないか期待するようになっていた……」
 マッシュは少しバツが悪そうに息を呑んだ。エドガーが四つ葉のクローバーに気付いた時、様子が変化した理由が理解出来た。
「お前があの冠をくれた時、俺の頭に浮かんだのはとうとう、とかようやく、とかそんな言葉だった。傍にいられるだけでも嬉しいと思っていたのが、いつの間にかこんなにも貪欲になっていたんだな」
「それは、俺も同じで」
 思わず口を挟んだマッシュに優しい眼差しを返し、エドガーは開いたマッシュの下唇にそっと親指を触れる。
「お前が想いを込めて花をくれるのが好きだった。今でもそれは変わらない。だが、お前の声で言葉を添えてくれるなら、たとえ貰った花が枯れても俺の胸にずっと想いが残ることが分かって、とても……幸せなんだ」
「……兄貴……」
 これまで贈った数多の花にも劣らないエドガーの豊麗な微笑みに胸を突かれて、マッシュは何度も口付けを降らせた。愛していると繰り返し、まるで譫言のように囁かれる愛の言葉をエドガーも感極まった眼差しで受け止めて、同じだけ言葉を返してくれた。
 もどかしく下衣を下ろし、拙い手つきで背や腰を撫でながらエドガーに四つ這いの格好を取らせた時、形の良い双丘の奥がしっとりと濡れていることにマッシュは気付く。エドガーは恥ずかしそうに自分で準備して来たことを告白した。今は枕の脇で萎れて眠るナズナの花言葉の通り、本当に全てを捧げるつもりで来てくれたエドガーが愛しくてたまらなくなった。
 窄まった孔に恐々触れると、指先は潜るもののすんなりと入るほどの余裕はなさそうだった。エドガーが自身で触れてから時間も経っていることだしとマッシュが丹念に解し始めると、枕に額を押し付けたエドガーが小さく呻き声を漏らす。
「……うっ……ん」
「痛い?」
 慌てて聞き返すと、エドガーは振り向かずに頭だけを横に振った。
「変な、感じがする、だけだ……」
「……嫌かい?」
 再びエドガーは黙って頭を横に振る。体勢を変えずに拳だけを強く握り締めるエドガーを見て、マッシュも決意を固めた。
 傷つけないように、決して乱暴はしないように。もし少しでもエドガーが恐怖を感じたり本気で嫌がる素振りを見せたら無理は強いない、そう心に決めてゆっくりとエドガーの身体を解していく。
 最初こそ声を押し殺してじっと耐えていたエドガーだったが、マッシュの指が奥を拓く度に思わず零れる鼻にかかった声を二度三度と許すうちに、やがて啜り泣きに似た嬌声が漏れっ放しになっていた。
 時折膝がガクガクと揺れるのを心配そうに見つめながら、唾液を塗り足し濡れそぼって解れた薔薇色の蕾から静かに指を抜いたマッシュは、深く息を吐いて自身の腹の下に手を伸ばす。
 手を添えたそれはすでに充分すぎるほど猛っていて、先端から溢れる蜜が指を濡らしていることに戸惑った。ろくに触れてもいないのに硬度を満たしたものは酷くグロテスクに見えて、小さな蕾を侵すことに躊躇したマッシュの機微を悟ったのか、少しだけ後方に顔を向けたエドガーが腰を上げて臀部に手を当てる。
 羞恥を隠すために顔を前に戻し、自ら双丘を開くエドガーの健気な仕草に喉を鳴らして、マッシュはエドガーの手の甲に自分の手を重ねた。そしてゆっくりと蕾に充てがった先端を沈めて行く。
 思いの外肉の抵抗は少なかった。気が急くのを堪えて押し進める陰茎に熱い壁が絡みついて来る。自慰では得られない圧に即根負けしてしまいそうになりながら、荒い息を長めに吐いてマッシュは押し寄せる快楽の波をやり過ごした。
 エドガーは枕に顔を伏したまま、息も声も布に吸わせて耐えている。盛り上がった肩甲骨や固く握った拳がシーツにめり込んでいることから少なからず苦痛はあるのだろうが、抵抗を示すことはなかった。
 そんなエドガーを労わるように、緩く掴んだ腰を撫でながらマッシュは慎重に腰を進めて、エドガーの身体に力が入る度に動きを止め、一番深いところまで辿り着くまで実に多くの時間を費やした。
 二人の身体が完全に繋がる頃には全身に汗が吹き出ていた。ろくに動いてもいないのにくらくらと眩暈を感じるほどに頭は逆上せ、深く繋がった箇所は溶けそうに熱い。肉壁に包まれているだけで興奮して脈打つものをこれ以上強く押し込むのが怖くてしばらくそうしていたが、ふいにエドガーが切なく息を吐いて懇願するように呟いた。
「マッシュ……、は、やく」
 堪え切れない切実さを孕んだ掠れた声を聞いて、一気に頭に血が上ったマッシュは思わず腰を深く沈めた。
「ああっ……」
 エドガーの顎が上がり上擦った声が露わになる。同時にきつく締められた孔に圧されて早くも達してしまいそうになったマッシュは、下腹に力を込めて必死で快楽を逃した。
 一度突く毎に全身が総毛立ち、腰から下が蕩けてそのまま混じり合う錯覚に溺れそうになる。理性を保とうと努めていられたのは僅かな時間だった。粟立って微かにザラついたエドガーの腰を捕らえて、肉を貫く心地良さを一心に求めた。聞いたことのないエドガーの高い声がよりマッシュを狂わせた。
「あーっ……」
 弓形に反った背中が綺麗だと見惚れた瞬間、張り詰めていたものが弾けたように下肢が脱力し、気付けば不規則に収縮する陰茎がエドガーの身体の奥へ精を吐き出していた。
 吐精の影響でビクビクと痙攣じみた震えを起こす身体を抑え、少しずつ萎んでいくものを静かに引き抜くと、濡れた花弁のような孔にぽっかりと穴が空いていた。
 途端に崩折れて俯せになったエドガーを背中から抱き締める。汗だくの身体はまだ過敏で自由が利かず、ほとんど倒れ込んで伸し掛かるように覆った背中は腕の中で弱々しく身動ぎをして、マッシュに向き合う形で身を収めた。
 マッシュが整わない呼吸のままに見つめたエドガーは、緩く顎を持ち上げてぼんやりとした目を向けていた。
 すっかり上気して赤くなった頬に潤んだ蒼玉さながらの瞳が綺麗だと見惚れていると、ふいにエドガーが蕩けるような微笑みを見せた。花が咲き溢れる様を思わせて、たまらずにマッシュはきつくエドガーを抱き締める。
 これからも花を贈り続けるだろう。そして自分の言葉で愛を添えよう、花が萎れてしまうその前に。
 世界で一番愛しい花咲みの君へ。