花冠




 まあるく編んだ花冠を金の髪に優しく乗せて。
 きれいだねえと薔薇色の頬で太陽みたいに微笑んだ、その笑顔が何より好きだった。
 本当は女の子のような見た目が少し不服だったのだけれど、拙い手つきで一生懸命作ってくれた、その気持ちが嬉しくて。
 花嫁さんみたいだねとうっとり見つめられ、調子に乗って髪を解いた。
 約束したのはついこの間、二人は大きくなったら結婚して、天井まで届くようなケーキを半分こして食べるのだ。
 それじゃあ少し練習してみよう。腕を組んですまして歩き、忘れてしまった神父様の言葉は適当に。
 幼い二人の世界は狭く、いつも一緒でそれが幸せ。ずっとこうして暮らすものだと、疑うことすらしなかった。
 砂漠の城に作られた花咲き誇る中庭で、見様見真似で再現をした、二人の秘密の結婚式。






 ***






「わあ、綺麗!」
 飛空艇から一番に飛び出したリルムが、目を輝かせて花畑に突進して行った。その後をガウが追いかけ、更にティナとセリスが微笑み合いながらゆっくりとした歩みで続いて行く。
 空の旅に慣れるにつれて、日々の移動距離は長くなって行った。初めの頃のような物珍しさが薄れたのもあって、地上を恋しがる仲間のために度々の休息時間も必要になっていた。
 巨大な飛空艇を停めても差し支えない陸地は何処にでもある訳ではないが、今回の休憩ポイントは平坦な土面のすぐ傍に広々とした花の群生地があり、仲間たち、とりわけ女性陣からの評価が高かった。日暮れにはまだ時間があるが、今日はこのまま停泊しようとめいめい夕食までの時間を楽しむことになった。
「おーおー、はしゃいでんなあ、リルムのやつ」
 甲板の縁に肘を乗せ、煙草片手に地上を見下ろしたセッツァーが鼻で笑いながら言った。
「羽を伸ばせて嬉しいのでござろう。子供は元気が一番でござる」
 リルムを追いかけるガウを見つめ、セッツァーの隣でカイエンも優しく微笑む。
 そのカイエンの更に隣、風に煽られる前髪を手で押さえながら束の間の休息を楽しむ仲間たちを眺めるエドガーもまた、穏やかな笑みを浮かべていた。
 花の間を縫うように駆け回るリルムとガウの楽しげな様子は、大人たちに今が戦いの最中ということを忘れさせてくれる。二人の傍で可憐に花を摘むティナとセリスの姿も、見る者の心に安らぎを与える和やかな光景だった。
「おっ、真打ち登場」
 セッツァーが紫煙を吐き出しながら眉を持ち上げて呟いた。エドガーとカイエンが釣られてセッツァーの視線の先に顔を向けると、飛空艇から降りたばかりのマッシュが大股で花畑に入って行くのが見えた。
「花畑ってガラじゃねえな、あいつ」
 セッツァーの言葉に思わずエドガーが口を挟む。
「そんなことはない。あいつはああ見えて花が好きなんだよ」
「そうなのでござるか」
「ああ、小さな頃からね」
 意外でござるなと顎に手を添えるカイエンに軽く笑い返して、エドガーは目を細めて逞しく成長した弟の背中をじっと見つめる。
 リルムとガウに近づき何やら話しているマッシュの腕に、ふいにガウが飛びついた。もう片方の腕にもリルムが飛びつき、二人をぶら下げてぐるぐる回るマッシュの笑顔がチラチラと目に映る。
「あいつはガキに馴染むなあ」
 呆れたような口振りのセッツァーにエドガーはほんの少し苦笑した。地上に並ぶ爛漫な三つの笑顔は実に無邪気で純粋に見えた。
 ふと、マッシュが動きを止めて二人を下ろす。ティナが何やら呼び止めたのか、マッシュたちの方へ野花の花束を手に小走りで駆けて行った。
 三人のすぐ手前まで来たティナは、何かに躓いたのかバランスを崩して前方によろめく。咄嗟に飛び出したマッシュが、胸にティナを受け止めた。
 エドガーの胸がチクリと痛む。耳にピュウッとセッツァーの吹く口笛の音が飛んで来た。
 ティナが慌ててマッシュに預けた身体を起こし、恐らくは顔を赤らめて必死に謝罪しているのだろう、優しく首を横に振って大人の笑顔を見せるマッシュがいる。
 スマートにティナの肩に触れ、一言二言マッシュが声をかけて、ティナの表情にも笑顔が戻った。子供達に花束を渡したティナは、もう一度マッシュを見てはにかむように微笑んだ。
「案外似合いじゃねえの」
 揶揄い混じりに呟くセッツァーへ、エドガーは苦笑いを零すのが精一杯だった。
 地上では再び子供達が歓声を上げて走り回っていた。




『だって、女の子、苦手なんだ』
 何度も同じ箇所でストップをかけられ、王子だからときつい口調ではないものの、ダンス講師の言葉に棘が目立ち始めたところでその日のレッスンは終わりになった。
 うまくリードができないマッシュのダンスはパートナーに引きずられた挙句に彼女の足を踏むという、ソツなくこなすエドガーに比べてあまりに悲惨な出来だった。レッスン終わりに中庭の片隅で花壇のレンガ塀に座り込んで、顔を付き合わせて反省会を持ちかけたエドガーは項垂れる弟に喝を入れる。
『できないままじゃまた嫌味言われるぞ。悔しいだろ? 練習しようぜ』
『でも、もうデイジー帰っちゃったし』
『俺が代わりにやってやるよ』
 すっくと立ち上がったエドガーが威勢良く胸を叩いた。体格の良い兄を見上げてマッシュはくすりと笑う。
『兄貴の方が俺より大きいのに』
『構わないさ、俺はレディのパートも踊れるからな。ほら、やろうぜ! あいつ言いたい放題言いやがって、見返してやるんだ』
 エドガーに腕を引っ張られ、無理やり立たされたマッシュはまだ気乗りしない様子だったが、正面に立ちマッシュの構えを待つエドガーをまじまじと眺め、照れ臭そうに小さく笑った。
『なんだよ』
 眉を寄せたエドガーにマッシュは首を横に振り、マッシュはエドガーの手を取ってもう片方の手を背に添える。
『兄貴相手なら緊張しないのになって』
『それは当たり前だろ』
『でもデイジーより兄貴の方がずっとキレイだ』
 不意にうっとりした目でそんなことを言われて思いがけなく赤面したエドガーは、マッシュから顔を逸らして薄っすら赤い頬を膨らませて、締まりなく緩んでしまいそうになるのを誤魔化した。
『俺は男だぞ。嬉しくない』
『はは、ごめん』
『じゃあ始めるぞ。まず最初のステップは……』

 大人しくて引っ込み思案で、とりわけ女の人の相手が苦手だったマッシュは、いつも自分の後ろに隠れて小さな身体を更に縮めるような子供だった。
 自分を慕うマッシュは可愛かったし、頼られるのも好きだった。マッシュには自分が付いていなければと勝手な使命感を燃やし、細々とサポートするのが当然だと思い込んでいた。
 いつか二人とも大人になるのだと、そんな当たり前のことにあの頃は気づいていなかった。



 *



 サインを書き終えた書類を脇に避け、フッと小さな溜息をついたエドガーは眼鏡を外して目頭を押さえた。
 窓に顔を向け、明るさを確かめる。まだ陽が落ちてはいない。とはいえ三時間ほどペンを握り続けた腕に疲れを感じ、少し休むかと首と肩を回した。
 はらりと垂れる前髪がいつもより視界を遮ることを訝しがり、手探りで髪の束の根元を確かめると髪留めが少しズレている。結い直すべく外した髪留めを一度卓上に置き、長い髪を手櫛で整えたエドガーは、その髪留めを何とはなしにぼんやり眺めた。
 長く使っている髪留めは塗装が剥げて酷く古びて見えた。大人の手のひらにすっぽり収まるサイズのそれは、即位した頃から愛用している大切な存在だった。
 ずっと手元に置いておきたかったが、そろそろ手放さなければならないだろうかと、旅を始めてからエドガーはしばしば悩んでいた。
 髪から手を離し、髪留めを手に取って、その裏面をそっと覗く。その時ドアを軽快に叩く音がして、エドガーは慌てて髪留めを隠すように握り締めた。
「兄貴、お茶──って、どうしたんだよ、それ」
 カップを乗せたトレイ片手に現れたマッシュの笑顔が、不思議そうな表情に変化した。
 いや、その、と髪留めを握りながら言い訳を探すエドガーを横目に、マッシュは足を進めて卓上にトレイを置いて、チョコレートを乗せた菓子鉢をテーブルに移しながらあっけらかんと言い放つ。
「髪。下ろしてるの珍しいな」
 なんだ、そっちか──マッシュの言葉にホッと安堵の息を吐いたエドガーは、苦笑いを見せて首を軽く振った。
「少し緩んでな。結び直すところだ」
「そっか。はい、どうぞ。ストレートでいい?」
 カップをエドガーの前に滑らせるマッシュの問いに頷き、香り高い湯気にエドガーは目を細める。そして手早く長い髪を纏め、マッシュに見つからないように手の中に潜めていた髪留めで留めた。
「昼前に上から見ていたよ。ガウとリルムの追いかけっこは終わったのかい」
「なんだ、兄貴も来れば良かったのに。みんなで外で昼飯食ったんだぜ」
「書類が溜まっていたからな」
 残念そうに笑ってみせたエドガーは、カップを手に取り唇に寄せた。一口含んだ紅茶の香りが鼻に抜けて、暖かく喉を潤していくのを心地よく堪能する。
「仕事落ち着いたのか?」
「大体はね」
「なら気分転換に外に出ようぜ。広くて、花がたくさん咲いてていい眺めだよ」
 机に両手をついて身を乗り出してくるマッシュを、エドガーは眩しそうに目を細めて見上げた。
 子供の頃から変わらない青い瞳の輝きの下、顎に散らばる無精髭がアンバランスに感じる。ほんの少し淋しげに視線を落としたエドガーは、口元だけは笑みを湛えて静かに答えた。
「……ああ、そうだな……。後で、出てみるよ」
「日暮れ前にな。俺、また少し外で身体動かしてくるから」
「分かった」
 じゃあ、と空のトレイを手にしたマッシュは、機嫌良く鼻歌を歌いながら部屋を出て行った。
 閉じたドアの余韻に目を伏せたエドガーは、マッシュが置いて行った金の包み紙のチョコレートをひとつ手に取る。包みを開き、楕円のそれを口に放り込んだ。前歯で噛むと、甘いチョコレートの中に潜んだ香ばしいアーモンドが真っ二つに砕ける音がした。
 二人でこっそり持ち出したチョコレートを分け合って、口いっぱいに頬張ったのはいつの頃だったか。
 世話係の婆やは王子の我儘は許さず、欲しいだけの菓子を与えることはしなかった。物足りなさに厨房に忍び込み、見張り役のマッシュと共にチョコレートを一握りずつ、部屋に戻って数を数え、ぴったり二人で同じ数に分けた。
 奇数でひとつ余ったチョコレートを半分齧り、もう半分をマッシュの口に押し込んだ時、エドガーを見るマッシュの目が何とも言えない陶酔の色を浮かべたことを思い出す。



『チョコレート、美味しかったね』
『ばあやに怒られたけどな』
『やっぱりバレちゃったね』
『今度はちゃんと口拭いておかないとな』
 毛布を被ってくすくすと笑い合い、悪事の反省どころか再犯の相談をするエドガーとマッシュは、甘い余韻に浸りながら口中に溢れる唾液を飲み込んだ。
『もっと腹いっぱい食べたいなあ』
『早く大人になろうよ』
 脈絡がなく感じたマッシュの言葉にエドガーが首を傾げると、毛布の薄闇の中でマッシュが笑う気配がした。
『大人になってケッコンしたら、いっぱいケーキ食べられるよ』
 それを聞いてエドガーもふふっと笑い返した。
『うん』
 叔母の結婚式で見たウェディングケーキは料理長渾身の一作だった。色とりどりのフルーツで飾られ、小さな双子の身長を遥かに超えたそのケーキは、天まで届く錯覚すら覚えたものだった。
 あんなに大きなケーキなら、きっとお腹いっぱい食べられる。婆やに二人でせがんでみたが、あれは結婚式の特別製で幼い兄弟のためには作れないと諭された。
 ならば二人で結婚しよう──名案だとエドガーとマッシュは喜び合った。父も乳母も大好きだけれど、この世で一番好きなのはお互いだけ。好き合う同士が結婚するのなら、何の問題もないではないか。小指を絡めて約束した。
『そうだ、あれ書こう』
『なに?』
『ケッコン式でおばさまが書いてたやつ』
 代わり番こにペンを取り、下手くそな文字を懸命に綴った。
『忘れるなよ、レネ』
『忘れないよ、ロニ』
 秘密の名前を呼び合って、大人になるのを夢見て眠った。
 あれは遠い昔のこと。



 *



 外の空気は昼前より冷えて、風の強さは相変わらずだった。飛空艇から降りたエドガーは一歩一歩土を踏み締め、足から伝わる感触がふんわりした草原に変わったことにホッとする。
 花の群生地に腰を下ろしているのはティナとセリスとリルムの女性陣、その傍で腰に手を当て彼女らを見下ろしているマッシュの笑顔を見つけたエドガーは、目的地を定めて四人の元へ向かって行った。
「兄貴」
 エドガーに気づいたマッシュが顔を向けて手を上げる。微笑みで応えたエドガーは、風が巻き上げる前髪を払いながら何やらせっせと手を動かしている女性陣に声をかけた。
「やあ、君達が並ぶと花が霞むな。何をしているんだい」
 覗き込むエドガーの眼前に、リルムが何かを突き付ける。あまりの近さにそれが何か分からなかったエドガーは、軽く頭を後ろに下げて確かめてから僅かに表情を凍らせた。
「じゃーん! 花かんむり! 可愛いでしょ」
 リルムが両手で握って見せたものは、小さな花を散りばめて丸く編まれた花冠だった。
「マッシュが作ってくれたのよ」
「私達も作り方を教わっているの」
 ティナとセリスも言葉を添え、編みかけの花冠を見せてくれる。エドガーはぎこちない笑みを浮かべ、対面に立つマッシュに顔色を気取られないように努めた。
「ね、色男、しゃがんで」
「ああ、うん? 何だい?」
 動揺したまま、リルムに腕を引かれるのに任せて腰を落としたエドガーの頭に、ふわりと何かが乗せられた。
「わ、やっぱり! 似合う〜!」
「ホント、似合うわ」
 リルムとティナが笑いながら囃し立てるが、エドガーは強張らせた顔を上げることができない。
 頭を飾るこの僅かな重みには覚えがある。小さな指で懸命に編んだ、今にも解れそうな花冠。
 忘れることができなかった、幼い頃の想い出の記憶。
 ふと悪戯っ子の顔になったリルムが、硬直したエドガーの背後に回り込んだ。頭の後ろでパチンと音がしたことにハッとして、思わず顔を上げたエドガーと驚いたように目を見開いたマッシュの視線がぶつかった。
 さっと顔が朱に染まった瞬間、はらりと長い髪が広がった。状況を把握するのに時間がかかった。吹き抜ける風が髪を煽って、金の毛先が視界に入ったことでようやくエドガーは髪が解けたのだと理解した。
「あら、エドガー素敵じゃない」
「ね、花かんむりつけるなら髪下ろした方が──」
「やめてくれ」
 楽しげな会話に割って入った低い声で、ティナもセリスも、エドガーの髪留めを持ったままのリルムもぴたりと動きを止める。
 青ざめたエドガーは立ち上がり、乱雑に頭の花冠を取り去って地に放った。傷ついたリルムの表情が目に飛び込んできて気まずく唇を噛む。
「……すまない、少し……疲れているようだ」
 取って付けたような謝罪を残し、エドガーは四人に背を向けた。足早に飛空艇へと急ぎ、風が強いのをいい事に呼びかけが聞こえないフリをした。
 振り返らずに進んだため、落ちた花冠をマッシュがゆっくり拾い上げたことは知らないままだった。




 頭では分かっていたのだ。
 あれは子供の頃の戯れで、覚えている方が可笑しいのだと。
 そしてあの頃の自分たちはあまりに無知で、愛に様々な形があることを知らなかった。その形すら、成長するにつれて普通は変わっていくものだということを知らずにいた。
 かつてのマッシュは小さくて、一人では何もできない少年だった。いや、そう思いたかったのだ。
 守ってやらねばと自分勝手に暗示をかけて、マッシュには自分が必要であると信じたかった。コインに未来を託した時、やはり一人では生きて行けない、城に残ると言うのではないかと、僅かに期待していた自分もいた。
 蓋を開けてみれば、マッシュは自分の加護なしでも逞しく成長し、できないことはなくなっていた。女性相手に臆することなく、紳士的に振舞うことも。
 あのオドオドして自分の背中に隠れていた少年はもういない、だから早く捨て去るべきだったのだ。忘れられた想い出にいつまでも縋っているなんて惨めったらしい。
 そう、もっと早く──髪留めに手をのばしかけて、エドガーはハッとする。
 髪が解けている。先程リルムに髪留めを外されたまま部屋まで戻って来てしまった。早足で来たため呼吸が乱れ頬も紅潮していたのが、一気に青白い顔になる。
 あの髪留めを誰かに見られては、と元の場所に戻るために足を向けかけたドアから、コンコンとノックの音が響く。狼狽えて立ち止まったエドガーが返事をしなかったのにも拘らず、ドアは静かに開いた。
 心の何処かで予測していた通り、そこにいたのはマッシュだった。胸を締め付けるようなほろ苦い痛みが、すぐにギクリと鋭く変わる。マッシュの手に握られた花冠を認めたエドガーは暗い顔を強張らせた。
「……大丈夫か、兄貴」
 ドアを閉めて心配そうに尋ねてくるマッシュを前に、エドガーはどうにか笑顔を取り繕おうとする。
「ああ……、さっきはすまない。彼女たちも驚かせてしまったろう……後で謝らなければ」
「みんな心配してたよ、様子がおかしいって……。リルムは自分のせいだって落ち込んじまうし」
「……彼女のせいではないんだ……。ただ少し、驚いて」
 チラリとマッシュが手にしている花冠に視線をやり、無理に作った笑顔が消えそうになる。
 子供の頃の自分ならいざ知らず、あれから二十年以上も経った大人の男性の頭を飾ったところで何になるのか。みっともなさを想像するととても我慢ができなかった。
 ティナもセリスもリルムも、彼女たちなら可愛らしく華やかな花冠がさぞや映えることだろう。いくらマッシュが覚えていなくとも、過去の自分と比べられてしまう怖れがエドガーに花冠を拒否させた。
 もう大人になってしまったのだ。お互いに、あの頃のままではない。
 言い澱むエドガーをまだ不安そうな目で見つめたマッシュは、花冠をひょいと手首に引っ掛けて、尻のポケットを探り始めた。そこから取り出したものを一度手の中に握り締め、エドガーに向かった指を開いてみせる。
「これ、忘れて行ったろ」
 そこに例の髪留めを発見し、エドガーの額にサッと影が落ちた。
「リルムがふざけて悪かったって──」
「返してくれ」
 マッシュの言葉に被さるように鋭く言い放ったエドガーの顔を、マッシュが訝しげに見つめる。その表情にハッとしたエドガーは、自分の不自然さをどうにか誤魔化そうと目を泳がせた。
「か、髪を結んでいないと、落ち着かない、から……」
 マッシュはわざとらしいエドガーの言い訳には答えず、自分の手の中の髪留めをまじまじと見た。エドガーの胸が嫌な音を立てる。
「頼む、返してくれ」
 マッシュの眉がピクリと揺れた。何かに気づいたのか、何度か瞬きをしてから改めて髪留めを摘んで確かめようとするのを、止めるべく思わずエドガーの身体が動く。
 咄嗟にマッシュは取り返そうとするエドガーを避けるように髪留めを高く持ち上げた。そして見上げた髪留めの裏面に目を留め眉を寄せる。
「マッシュ……!」
 咎めるエドガーの声に答えず、マッシュは高い位置で裏面に挟められている紙片を取り出した。三センチ四方に小さく小さく畳まれた古ぼけた紙を不思議そうに指で摘むマッシュを前に、エドガーは真っ青になる。
 マッシュはチラリとエドガーの様子を伺った。言葉がうまく出て来ずに、エドガーは何とか首を横にだけ振った。
 その動作でこれがエドガーの様子をおかしくさせている根源だと確信したのか、マッシュは紙を開き始めた。エドガーが慌てて追い縋る。しかし力を込めてマッシュの腕を引いても、厚みのあるそれはビクともしなかった。
 もう届かない──力の差を思い知らされ顔を歪めたエドガーは、マッシュが紙を開き切った光景を前に苦渋に揺れる目を閉じた。
 マッシュの反応を見ないよう、エドガーが背を向ける。もう二十年以上も前の古ぼけた紙切れは、見たところで文字も掠れてそれが何なのかマッシュは分からないだろう。
 いよいよ覚悟を決める時だと、エドガーは息を吐いてマッシュに見えていないことを理解しながら無理に笑顔を繕った。
「……ほんの、落書きのようなものだ。古いもので……、つい、懐かしくて捨てられずにいたんだが、いい加減ボロボロで……もう読めたもんじゃないだろう」
 努めて明るい声を出し、自分の未練を吹っ切るように。滲む視界を晴らすように、瞬きで風を呼んで。
 もう夢見る子供ではない。エドガーは思い切って口を開く。
「捨てておいてくれ。お前の手で」
 これできっぱり想いを断ち切ろう──ようやく言えた言葉を噛み締め、エドガーが役目を果たした後のように感傷的に目を伏せていると、背後からマッシュの戸惑うような吐息が聞こえてきた。
「……、これ……」
 振り返るべきか迷ったエドガーの背に、思いがけない言葉が飛び込んでくる。
「二人で、書いた……、兄貴、これ、まだ持って……」
 目を見開いたエドガーが思わず振り向くと、折り畳まれた跡がくっきり黒ずんで薄汚れた紙面を手にしたマッシュが、その紙を微かに揺らす程に指を震わせて呆然と立ち尽くしていた。
 切なげに眉を垂らしたその下で薄っすら潤んで見える青い瞳は、子供の頃のそれと同じでエドガーの息が詰まる。鼓動が速度を上げて胸をうるさく叩き始めたのを、押さえつけるように拳を当てた。
「マッシュ、お前……覚えて……?」
「兄貴こそ……、ずっと、持っててくれたのか……」
 マッシュの言葉にエドガーの唇が震え出す。
 数年前に一度開いてみた時、紙は痛みインクが掠れてまともに読めはしなかった。他人が見ても何が書いてあるのか分かりはしないだろう。
 そんな紙切れをいつまでも持っていて何になると、マッシュと再会してから何度も何度も捨てようとした。大人になった二人には、もうこれは忘れられた記憶なのだからと。

『何だっけ、ケッコンしょめい……しょうめい?』
 首を傾げるエドガーと同じく首を曲げたマッシュは顔を見合わせ、何でもいいかと悪戯っぽく笑った。
 参列した叔母の式で新郎新婦が何やらペンを手にした、あれは何を書いていたのかと乳母に尋ねてみたところ、二人の結婚を証明するために互いに名前をサインしたのだと教わった。
 出鱈目なスペルで結婚証明書と記し、二人で名前をそれぞれ書いた。秘密のミドルネームも忘れずに。まだ字が下手くそなマッシュは、真っ直ぐ綺麗な文字を書けずに苦戦した。
『おれ、代わりに書いてやろうか』
『ううん、がんばる。自分で書かないと、ロニとケッコンできなくなっちゃう』
 よれよれの文字で、しかし兄の助けを借りずに最後まで書いた。並んだ二人の名前を見て、これでもう大丈夫と歯を見せて笑い合った。

 初めて捨てようとしたのはマッシュが城を出たその日の夜。もう二度と逢うことはないのだろうと、思い出を封印しようとして、できなかった。
 そして十年後に再び相見えて、あの時捨てなかったことを後悔した。マッシュはもう何も知らない子供ではなくなっていたからだ。
 互いのいない十年間を、それぞれの足で歩いたのだ。いつまでも持っていて何になる。強く逞しく、優しさはそのままに大きく成長した弟をこれ以上邪な目で見てはいけないと、何度も自分に言い聞かせたのに。
 結局は手放せなかったその証明書を、マッシュは両手でしっかり開き、穴が開くほど見つめていた。細めた目が愛おしそうに文字とも取れない跡をなぞる様子を、エドガーも夢を見ているような気分でぼんやりと眺める。
 顔を上げたマッシュが、小さく笑った。泣きたくなるような笑顔だった。
「うまく書けなくて、癇癪起こしながら書いたんだよな、俺」
「……ああ」
 本当に覚えている。エドガーは声が震えないよう腹に力を入れるが、呼吸すらブレて隠し切れない。
「兄貴は、こんなのとっくに失くしたと……忘れてると思ってた」
「お前、こそ……」
「忘れないよ」
 きっぱり返すマッシュの穏やかな眼差しが、エドガーから言葉を失わせた。
「……忘れないよ」
 もう一度念を押すように呟いたマッシュは、瞼を伏せて証明書を懐かしく見下ろす。
 ゆっくりと目を閉じたその脳裏に何が映っているのか、緩やかに上がった口角を見ていると胸が締め付けられて苦しくなるのに、エドガーは目を逸らせない。
 ふうっと肩を下げながら息を吐いて、目を開いたマッシュの表情は晴れていた。子供の頃と同じく曇りのない目で、しかし精悍な大人の顔で、マッシュは微笑み口を開く。
「俺、城を出てから兄貴のこと、忘れた日はなかったよ」
 低く穏やかな声色は心地良く耳に届いた。
「絶対に強くなって、もう一度胸張って兄貴に逢うんだって……毎日必死で修行して、早く相応しい男になりたかった。でもいざ逢えたら、兄貴はすっかり見違えて立派な王様になってて……俺、ちょっと遅かったなって思ったよ」
 ほろ苦く眉を下げて笑うマッシュに、笑い返せないエドガーはただ黙って唇を噛む。
「ただ傍にいられたらそれだけでいいって、思ってたんだ。兄貴は忘れちまってるだろうし、ガキの頃の約束だし。叶わなくても、傍にいられるだけで……」
 感極まったように一度言葉を区切って、マッシュは再び深く息を吐いた。そして手にした証明書をチラとエドガーに向けて泣き出しそうな笑みを見せる。
「これ、捨てなきゃダメか……? もう、兄貴には必要ない?」
 眉を下げたエドガーは、答えるために口を開こうとしたが、顎が震えてうまく声が出ない。やっとのことで絞り出した声に、嗚咽を含めないようにするのは至難の技だった。
「……っ、お前が、捨てなくても良いと、言ってくれるのなら……っ」
 エドガーの言葉を受け取ったマッシュは照れ臭そうに歯を見せて笑い、折り目の通りに古びた証明書を小さく畳み直した。そして元通りに髪留めの裏に挟み、エドガーに一歩歩み寄って目線を合わせるためにほんの少し屈む。
 マッシュが髪留めを差し出し、エドガーは恐る恐る手のひらを広げた。その上に髪留めを乗せたマッシュは、大きな両手でエドガーの手を包み込む。大切にして、と目で語りかけられているようで、エドガーは気恥ずかしそうに頷いて俯いた。
 そっと手を離し、満足げに微笑んだマッシュが少しだけ戯けたように口を開く。
「サイン、直筆だし、まだ有効だろ?」
「……かもな」
 声が上擦るのを堪えて無理に笑ったエドガーを見て、ふとマッシュは手首にかけたままだった花冠の存在を思い出したらしい。懐かしく見下ろした花冠を、両手に持ってくるりと回した。
「昔を思い出して編んだんだ。上手になったろ」
 多少乱暴に扱ってもバラバラと解けない花冠は小花が散りばめられて、マッシュの無骨な指で編んだというのが信じられないほど可愛らしく出来ている。
「今の兄貴が被ったらどんなかなって、想像してた」
 もうひと回しした花冠を、マッシュはおもむろにエドガーの頭に乗せ、肩から胸に垂れた長い髪を指先で背中へ流した。
 驚いて目を見開いたエドガーが頭に手をやるより早く、エドガーの両の二の腕を掴んで動きを制したマッシュは、愛おしげに目を細めて鮮やかに笑う。
「やっぱりあの時より綺麗だ」
 瞬きを忘れたエドガーの目に手のひらを翳し、そっと瞼を下ろさせてから、マッシュは震える唇へ誓いのキスを捧げた。


 まあるく編んだ花冠を金の髪に優しく乗せて。