花恋慕




 雪片が微風に煽られて揺れるように、綻びた花弁がはらはらと舞い落ちる。
 瑠璃の石を思い出させる深い青が次々と地に落ちて行く。曲線を描きながらめいめい不規則な動きで地上を目指すそれらは、無数の青い花だった。花弁を散らかしながら、足先を隠さんばかりに降り落ちて行く。
 足元が青で敷き詰められていく様を愕然と見下ろして、エドガーは唇に手を添えた。正しくは拭った。唇の端から中央までひと撫でしたところで何の液体も指を濡らすことはなかったが、舞い損ねて引っかかっていた花弁が一枚指先に付着した。
 指の腹に捕らえた花弁を凝視した目は瞬きを許さない。まさか、と小さく動いた唇から、ころりと最後の花が落ちた。
 夢か幻覚か疑いようもない。
 確かに今、エドガーはこれらの花を吐き出したのが自分だということを認めなければならなかった。





 ***





 ──伝染病だと?

 珍しくあからさまに眉を寄せた君主に対し、束ねた書類と厚みのある古ぼけた本を重ねて手にした大臣は神妙な面持ちで頷いた。
「サウスフィガロにて先月より一名、報告があり調査させておりました」
「一名?」
 エドガーが寄せた眉を持ち上げる。
「一名で何故伝染病と分かる」
「伝染病なのです」
 きっぱりと断言した大臣を見据え、エドガーは表情に冷静さを取り戻した。彼が根拠なく重要事項を断定するはずがないことを、長年の付き合いでよく分かっていたからだった。
 問いかけを止めて報告を一通り聞き入れる体勢を取ったエドガーへ、大臣は待ち構えていたとばかりに手にした本を開いて差し出しながら話し始めた。
「症状があまりに奇妙なものだったため、学者たちに調べさせました。こちら古い文献ですが、該当の病気と思われる記述が見つかっております。まず間違いありません」
 エドガーは黙って本を受け取る。大臣の説明を漏らさず聞きながらも目は文字を追った。
「……『花吐き病』……」
 エドガーの眉間に再び皺が寄る。──単純な字面でありながら、今まで馴染みが一切ない不可思議な病名だった。
「その名の通り、花を吐く病気です」
 思わずエドガーは顔を上げた。その目にはあらゆる疑問が溢れていたが、エドガーはそれを眼差しのように分かりやすく口にすることを堪え、まずは手元の本に視線を戻した。
 状態からしてかなり古い本であることは察しが付いたが、使われている文字も所々が旧字体で読みにくい。難儀なことだ、と小さく息を吐く。
「花を吐くとはまた不可解だな。吐瀉物に花が混じっているということか?」
「いえ、花そのものを吐くのです。胃の残留物や体液は付着しません。花だけを吐く病気です」
「……理解が追いつくのが難しいな」
 エドガーは今度ははっきりと溜息をついた。言葉としては理解できるのだが、大臣の話したそのままの光景を思い浮かべるのは簡単なことではない。
「花を吐いて、そしてどうなる」
 まずは聞いた方が早いと判断したエドガーは、ページを追うのを諦めて改めて大臣を見た。
「どうもなりません。花を吐く、それのみです」
「どうもならない? ……悪化すると死に至るような病ではないと?」
「気が触れた以外の死亡例は記載されておりませんでした」
 何か言うために開きかけた口を噤み、エドガーが黙り込む。顎に手を添える考え事をする時のいつものポーズで目線を斜めに逸らせた君主は、一つの公務に長く時間を割くことができない立場だということを大臣はよく理解していた。
「本に寄れば病の起源は七百年以上前……幻獣が一度この世界から姿を消した時期に共通するそうです。そのため幻獣の力が発症に何らかの影響を与えているのではとの説もあるようです」
「幻獣、か……」
 懐かしい言葉だ、とエドガーは目を細める。
「今回の感染源は何だ」
「特定できておりません」
「特定出来ていない?」
 語調強めに同じ言葉を返したエドガーに対し、大臣は真顔をやや苦めに歪ませた。
「発症者には思い当たるものがないと。……奇病ゆえ周りに伏せていたところ、症状を家族に見咎められて診療所に出向いたことから発覚しました」
「感染源が見つかっていないのは問題だ。発症者への治療は?」
「治療と呼べる手段が無いのが現状です。感染の条件が限定的のため、他者へ広げないよう本人には通知しておりますが、何処で感染したのか分からないとなると他所で広まる可能性もあります」
 エドガーが溜息の相槌を打つ。
「サウスフィガロは旅人や流民の往来も多い街、感染が広まれば混乱は必至でしょう。先の大戦より時間もそれほど経っておらず、生活が不安定な者も多い中で、幻獣絡みの奇病が広がるのは国として宜しくないかと」
「早めに手を打った方が良いと言うわけか。……分かった、学者たちには引き続き対策を協議させてくれ。この本には目を通しておく」
「御意」
 短く答えて足早に去った大臣の足音が聞こえなくなってから、エドガーは沈鬱な面持ちで開いた本を見下ろす。読み始めるか僅かに迷って、ゆっくりとした瞬きの後に本を閉じた。

 再び本を開いたのは、公務を終えて自室にて迎えた就寝前の刻だった。
 眉間付近を指の腹で強めに押さえてから、ベッドサイドのテーブルに置いたままにしていた眼鏡を手にとる。大きめの枕をヘッドボードに立てかけて背を凭れさせ、膝まで毛布を引き上げた格好でパラパラとページをめくった。
(花吐き病)
 枕元のランプの火に合わせて揺らめく掠れた文字を追いながら、エドガーは徐々に目を細めていった。
(特定の相手に一方的に募らせた恋情を、花の形で吐き出す病……?)
 記されている内容を少しずつ読み解き、頭の中で整理していく。
 ──花吐き病とは、恋煩いの一種。
 相手を想う気持ちが花に変わり、嘔吐する。吐くものは花のみであり、消化器官の残留物は含まれない。
 症状は片恋の場合にしか現れない。花の色や形状は様々で、想う相手によって変わる。
 吐き出された花は丸一日経てば枯れて砂になる。また、非感染者が吐き出された花に接触すると感染する。感染力は恐ろしく強く、花弁一枚のみに触れた程度でも感染例がある。
 治療法は無いが、恋が成就すると症状は消える。その際、白銀の百合を最後に吐き出すのが目安となる。または、恋そのものが消滅すれば花は吐かなくなる──
(白銀の百合……御伽噺のようだな)
 字体が旧いだけでなく、文章も現在では使われていない言い回しが多い。余計に昔物語でも読んでいる気分になりながら、この病の発症が現実に統治下で起こったという実感が持てずにいた。
(恋煩いで嘔吐とは何とも生々しいものだ。恋の成就の判断はどこで下されるものなのか)
 小さく欠伸を零し、眼鏡の隙間から目尻に浮かんだ涙を指で拭い取る。とうに日付も変わり、下肢を温めたことで眠気が一気に襲って来る。
(吐き出すものが花だなんて、ロマンティックな話じゃないか。命に関わるものでもなし、恋が実れば治癒するというのなら身体的なものというより精神の病のようだが、伝染するのは厄介だな)
 本を閉じてテーブルに置き、同じく外した眼鏡をその上に乗せた。先ほどより大きめの欠伸が出る。
 ランプを消して本格的に毛布を被り、深く長い息を吐いた。薄明かりで本を読んでいたせいか、閉じた目の奥が鈍く痛んだ。
(相手を想う気持ちが花に変わる、か……)
 身体がずんと重くなる。横たえた身体は重力に逆らわずにベッドの中へ沈んで行くようで、一日の疲れをしみじみ実感しながら吐息を漏らした。
(もしも叶わぬ恋ならば、恋心が続く限り花を吐き続けるのだろうか)
 考えは頭の中で四散して、エドガーは欲求に抗わず眠りを受け入れた。
 夢現に思い浮かべた笑顔があった。


 あれが二月ほど前のことだっただろうか。
 今、エドガーは自身の靴を覆い隠す青い花を、花に負けない青い顔で見下ろしている。
 何処かで見た覚えのある花だった。
 確かに自ら吐き出したものだ。この身で体験しなければ、何処か他人事のように捉えたまま事務的に対応し続けただろう。実際目にしても未だ信じられないくらいなのだから。
 思わず口を覆った手は震えていた。氷のように冷えた指先が触れたせいで、ざわっと全身が粟立った。それを皮切りに膝の震えも止まらなくなった。
 まともに立っていることが難しくなって、ヒビの走る煉瓦が組まれた外壁に片手をつく。そこで初めて己と花以外のものが存在することに気づいたような顔をして、エドガーはその家屋を振り返る。
 視線の先に位置する窓には羊皮紙が貼られているが、大きな破れ目が外界を遮断する効果を半減させていた。ひらひらと揺れる破れた羊皮紙の隙間から、エドガーは縋るように室内にいるその男を見る。
 自分に良く似た顔の、血を分けた双子の弟であるマッシュその人だった。
(ああ、やはり)
 思わず唇を噛み締めて、エドガーは口内に溢れる咽せ返るような甘い花の香りが鼻腔を漂っていることに顔を歪めた。
 胸焼けするように甘く、そのくせ喉の奥から迫り上がる刺々しい苦味。とても好ましいものではないのに、己の身を侵す不快な感覚にしみじみ浸るように、エドガーはゆっくり目を閉じた。


 ──やはりこれは、恋なのか──






 ***




 ケフカとの戦いを終え、到来した太平の世を喜び合ったは束の間だった。
 巨悪を討つだけで人々の生活が安定する訳ではない。君主が健在のフィガロでさえ治安は悪化した。統治者を失った多くの国は言わずもがな。
 混迷を極めた他国からは流民も訪れ始めた。エドガーは自国領のみならず、世界中の再興支援に取り掛からなければならなかった。
『動き回る仕事は俺に任せてよ。俺なら体力も有り余ってるから、あっちこっち行くには適任だろ?』
 マッシュが城に戻って来ただけではなく、公務、それも主に外交に助力すると申し出てくれたことは素直に嬉しかった。
 再会するきっかけとなった一連の戦いが終われば、また王族の地位に拘らず自由に生きる道を選ぶかもしれないと案じていたのは事実だった。それを止める権利もないと考えていた。
 だからこそ、マッシュが再びフィガロの人間として同じ場所でエドガーを支えることを表明してくれた時、エドガーは胸がいっぱいで言葉を詰まらせたほどだった。
 実際にマッシュの協力はエドガーを大いに助けてくれた。各地から陳情を下げて人々が訪れるフィガロを離れることは難しく、エドガーはかつてのように自由に城外へ抜け出すことを憚った。
 代わりに動くことになったマッシュは、王の名代としては意外なほど適任だった。行動力があり、持ち前の明るさで人々を和ませ誰とでも打ち解ける。信頼関係を築いて得た情報は、現地に行けないエドガーを大いに助けた。
 ドマ、アルブルグ、ツェン、マランダ、数週間から数ヶ月程度の滞在まで、昨年一年でマッシュが出向いた地域はかなりの広範囲に渡った。マッシュは各都市の状況を把握し、こまめにエドガーの元へ伝書鳥を飛ばした。今の見目ではやや意外に感じるが、実は昔からほとんど変わらない端正な字で書かれた手紙を開く度、エドガーの顔は綻んだ。
 復興地に暮らす人々の様子、必要な物資、道中出会った打倒ケフカの旅の仲間とのやり取り、そして必ずエドガーの体調を気遣う文が挟まれていた。欲しい情報が得られる心強さだけではない、仕事に忙殺される日々が続くエドガーにとって、マッシュからの手紙を読むのは胸が内からじんわり温まるようなささやかな喜びのひと時だった。
 そしてエドガーは物寂しさも同時に感じるようになった。
 マッシュが城に戻ってエドガーと過ごしたのは僅かな時間だった。ほとんど世界中を飛び回って、戻って来ても少しの間身体を休めればまた次の場所へと出向いてしまう。
 命じているのはエドガーであるため、不満を誰かにぶつけることも出来ない。ただ、送られて来る伝書鳥とマッシュ本人の帰城をいつも心待ちにしていた。
 十年もの長い間離れて暮らしていた時でも、ここまでの寂しさは記憶がない。最早今生の別れかと覚悟を決めていた違いなのか、一度は手放した存在が戻って来たことによって執着が増したのか、とにかくエドガーは常に頭の何処かでマッシュのことを考えていた。
 時勢が今より落ち着けば長期の視察も減るだろう。その時まで耐えようとエドガーは執務に没頭した。マッシュが長く城に留まるようになったら、自分はどうしたいのかはあまり考えてはいなかった。
 やがてエドガーの思惑通り、マッシュが城を空ける間隔が短くなっていった。城内で稽古に勤しむマッシュの姿が見られるようになった。二人で晩酌を楽しむ夜を迎えることが出来るようになった。満ち足りたはずのエドガーの胸には、しかし不思議と小さな風穴が空いているようで、エドガーにもその正体は分からなかった。
 マッシュが五度目となるドマへの復興支援に出かける予定日の前日、エドガーはマッシュを探していた。
 明日マッシュが発てばまたしばらく顔を見ることも出来ない。今夜の夕食は何が良いか、そんな他愛のない、相手がエドガーでなくとも良いような話題を餌に、ただ出来る限り言葉を交わしたくて城中を訪ね歩いた。
 探し回るほど暇がある訳ではないのに、散漫な状態で執務室に篭るよりはマシだと自分勝手な理由をつけて、城のあちこちを見て回った。だから休息中に無駄話をしていた兵士たちがエドガーに捕まったのは、ただの偶然で不運でしかなかった。
『マッシュ様、またサウスフィガロに行かれたのか』
『最近戻って来たらしょっちゅうだな。こりゃああいつらの言ってた女性の話も本当なのかもな』
 気付けば兵士たちを引き留めていた。
 余裕など欠片も無い笑顔で。

『サウスフィガロに配属されている兵から聞いた話なんですが、度々マッシュ様が私用でお出でになられて、女性と会ってらっしゃると』
 兵たちはしどろもどろになって説明した。
『あの、陛下は御存じでは……?』
 なんと答えてその場を切り抜けたのかエドガーには記憶がなかったが、その後の執務には全く身が入っていなかったのだろう、らしくないチェックミスを後から大臣に咎められた。
 寝耳に水だった。マッシュと会話する機会はこれまで幾度もあったのに、本人の口からそんな話は一度たりとも聞いたことがない。
 マッシュのことだ、照れ臭くて黙っているのか、もしくは話すタイミングを見計らっているのかと思うと、不思議なことに胸に開いた風穴が一気に広がった。
 空いた穴から通り抜ける風が呼吸を邪魔して苦しい。息苦しさはほとんど痛みに近かった。
 その日の夕刻にマッシュは普段と変わらない笑顔で帰って来て、エドガーは結局何をも問うことは出来なかった。
 これが良くない感情であるということは自分でもよく分かっていた。

 
 そこを通りかかったのも偶然だった。
 機械師団の演習を監督し、そのまま執務室に戻る前にと気分転換を兼ねてチョコボ小屋が視界に入る辺りまで歩いて来た時、丁度誰かがチョコボに跨って出立するのが見えた。
 砂漠超えには必須である深めのフードを被っていても、エドガーにはそれが、つい昨日ナルシェから二週間ぶりにフィガロに戻ったばかりのマッシュだとすぐに分かった。──同時に、今日はマッシュに出かける予定があったとは聞いていないことも思い出した。
 数分後、エドガーはチョコボ小屋の管理を担当する兵に詰め寄っていた。
『ええ、確かに今出られたのはマッシュ様ですが……、サウスフィガロに行くと仰っていましたよ。はい、ここしばらく何度かお一人で向かわれることがありました』
 兵に大臣への言伝を頼み、困り果てる兵を顧みずにエドガーもまたチョコボに飛び乗った。幸か不幸か、砂漠での演習直後で長距離移動には申し分ない格好だった。
 時間差は僅かなものだと判断し、エドガーはチョコボを全速力で走らせた。

 追ってどうすると言うのか。エドガーは極力「その後のこと」を考えないようにした。
 マッシュを追って、追いついて、それから。例えば先の兵の言う通り、マッシュがもしも女性に会っているのか、それを確かめたいのか、否定したいのか、それは何故なのか。
 自問に答えは出ないのだからと、エドガーは思考を遮断する。追いたいから追うのだ、職務を放棄して恐らくは多くの人間に迷惑をかけ、それでも身体が勝手に動いたのだからもう戻れない。
 僅かでも冷静さが優って踏み留まることが出来たのなら、この心にそもそも風穴など空きはしなかったのだろう。
 走り出してしまった。止まれない。早鐘を打つ心臓の、より深い奥の奥から通り抜ける冷たい風が、小さな穴を起点に裂け目を大きく広げようとしていた。

 砂漠を抜けて洞窟を迂回しサウスフィガロの街に着くと、先を進んでいたマッシュと思しき人影がチョコボに乗ったままチョコボ屋に入っていくのが確認できた。
 エドガーはそのまま街の裏手に回り、目立たない場所にチョコボを繋いでフードを深く被り直す。
 サウスフィガロの街は随分と活気を取り戻していた。港があるため旅人も多く、様々な服装の人波に紛れてしまえば体格の良いエドガーでも目立たない。
 目深に被ったフードの下から、注意深く行き交う人を探った。マッシュは存外すぐに見つかった。頭ひとつ飛び出た長身は遠目からでもよく分かった。
 マッシュは街の端に位置する住宅が犇いている中の、一軒の家に入るところだった。ダンカンの家ではない。エドガーの記憶の中に、マッシュとその家との接点はなかった。
 不自然にならないよう人の流れに逆らわず、その家に向かう。軒先からさりげなく路地に滑り込み、人目がないことを確認しながら窓を探した。
 壁に手を伝いながら羊皮紙が貼られた二箇所の窓を見比べる。丁度エドガーの頭の高さと重なるそれに影でも映ることがないよう、腰を下げて近づいた時だった。
「すまない」
 聞こえて来た声に身が竦む。聞き違えようのない、マッシュの声だった。
 思わず顔を上げたエドガーは羊皮紙の破れ目に気付いた。足音を殺して背を壁につけ、振り返るように破れ目からそっと室内の様子を伺い覗く。
 被っていたフードを外したマッシュの後ろ姿と、その対面に栗色の髪をひとつにまとめた妙齢の女性が立っていた。
 まるで頭を殴られたかのようだった。はっきり感じた目眩が視界に火花を散らして、エドガーは咄嗟にふらつく身体を支えるため壁の煉瓦に爪を立てる。
 女性とマッシュが何か話している。が、会話が耳に入って来ない。エドガーの頭の中で、たった今見た光景が木枠に切り取られたかのように一枚の絵となって、大きく居場所を主張した。
 本当に女性に会いに来ていた。ただの一度もエドガーに存在を話したことのない女性を、時間を得る度に訪ねて来ていたのは本当だった。
 そのような相手が出来たのなら、一言話してくれれば良いものを。
 口の中でそう呟いた途端、自分の言葉ながら強烈な違和感に襲われ寒気を感じた。
 ──マッシュの口からなんて聞きたくない。見たくもなかった。
 ──ならば何故追って来た。マッシュが話をしなかったものを、わざわざ見に来たのは己だろう。
 ──そんなことはどうでもいい。マッシュが黙して行動するのも女性と会うのも知りたくはなかったし、その事実に立ってはいられないほど衝撃を受ける自分だって知りたくはなかった! ──
 声無き叫びで目の奥がカッと熱くなった瞬間、胃の臓が捻れるような不快感にエドガーは背を丸めた。
 途端、冷や汗が全身からどっと吹き出し激しい悪心が胸から迫り上げ、嘔吐の恐怖に手で口を覆う。
 これまで感情の起伏が嘔気を呼んだことなどない。何とか抑えようと心と身体を整えるも間に合わず、二、三度鳩尾が大きく凹んだ後に込み上げてきたものを吐き出した。
 そして驚愕したのだ。眼下に散らばる青い花に。


 荒い呼気を吐くのみとなってしばし経ち、ぽたりと顎先から水滴が落ちて地上に転がる青い花を打った。
 口内から滴ったものではない。エドガーはようやく両の目から涙が流れていることに気づいた。嘔吐の苦痛で自然と溢れたのか、涙の筋を追うようにこめかみから汗の玉も滑り落ちて来た。
 もう口の中に花は残っていない。口どころか、体内に花などあるはずがないのに、胃液すら纏わず吐き出したこれらの花は何処から来たのか。
(俺が作り出したのか)
 相手を想う気持ちが花に変わる。かつて目を通した文献の一説を苦々しく思い起こし、何がロマンティックだと忌々しげに奥歯を噛む。
 胸の奥が苦しくて痛い。嘔気を堪えるため強張らせた背も腹も痛いし、喉に残る苦味を上から無理矢理塗り潰すような花の甘い香りが花についてうまく息が出来ない。
 名前も知らない青い花。体内から溢れ出た割に不思議と濡れてはおらず、そのくせやけに瑞々しくピンと花弁を反らして咲き誇っていた。
 内腑を掻き回したような苦痛と共に産み出されたものがこんなにも美しいとは、他人の家の外壁にみっともなく手をついて汗と涙を滴らせて肩で息をしている自身の惨めな姿とはあまりにかけ離れていて、思わず零れたエドガーの笑みは酷く自嘲に満ちていた。
 腹に抱えた醜い感情を、かくも鮮やかな花に変えるのは己のエゴではないのか。
 それとも恋心はどれも皆、花を騙るに相応しいものだとでも言うのだろうか。
 実の弟に懸想した男の哀れな恋さえ、花と形容しても許されるのだろうか。
 再び込み上げて来たのは嘔気ではなく涙だった。口元から離した手で目を覆ったエドガーはしばらくその場に立ち尽くし、何かきっかけがなければ動くことは出来そうになかった。
 そのきっかけは不意に訪れた。
 羊皮紙に覆われた窓の向こう、室内から聞こえた呻き声にエドガーは弾かれたように顔を上げた。
 マッシュの声ではない。あの女性だとすぐに把握したエドガーが羊皮紙の破れ目から中を探った時、彼女は胸を押さえて身体をくの字に折り曲げ、そうして真っ赤な血を吐いた。──ように見えた。
 それは赤い花だった。紅玉を思わせる鮮やかな赤い花が散らばる様にエドガーが目を見開く。
 そうして足元を占める花と見比べた。──こうまで形状が違うものなのか。
 動揺でフラついた足が、窓下近くに詰まれていた木箱に当たった。中身がほとんど入っていなかったのは不運だった。軽い木箱は思いの外大きな音を立て、それは室内にいる二人を窓へと注視させるのに充分な騒音となった。
 不運が重なり、路地裏を風が擦り抜けていった。破れてはためいていた羊皮紙の端は風に煽られめくれ上がり、エドガーははっきりと中にいるマッシュと青い目と目を合わせてしまった。
 ほんの数秒、しかし確かにマッシュの唇が声もなく
「あにき」と動いたのをエドガーは見た。
 全力で駆け出すほかなかった。


 こちらを振り返る道行く人を避けながら、街外れを目指して走る。戻る先は城しかないのだから、いずれはマッシュに問われるだろう。しかし今はとにかく逃げ出すことしか頭になかった。
 その混乱した頭にはまた別の不安も過っていた。
 吐いた花をそのままにしてしまった。触れたらうつる伝染病だと言うのに、対策すべき立場の人間が病の元を放置するとは。許されることではないと分かっていても、身体は言うことを聞かなかった。
 街並みを抜けてチョコボを繋いでいた場所までもう一息のところで腕を掴まれ、喉の奥から奇妙な声が出た。後ろを振り仰いだそこには血相を変えたマッシュがいて、エドガーはただ胸の内で己の浅はかさを呪う。
 逃げ出したこと、覗いていたこと、後をつけたこと、どれ一つ取ってもまともな弁解は浮かんで来ない。言葉が出ずにただ唇を戦慄かせていたエドガーは、マッシュがもう片方の手にあの青い花を握り締めているのを見てサッと蒼ざめた。
「馬鹿ッ、触るな、その花は──」
「なんで同じ花なんだ!」
 重なった言葉は力強さでエドガーがやや押し負けた。驚いて眉を寄せたエドガーへ、マッシュがもう一度念を押すように同じ言葉を呟く。
「なんで……、同じ花なんだ……」
 困惑してたじろいだエドガーの目が、ふと大きく見開かれた。
 花吐き病は伝染病。花に触れることで感染し、例外は無いとあった。
 ならばこの身はいつ感染した? いつ花に触れただろうかと、記憶を揺すって呼び起こした光景は。

 マッシュがナルシェに発ったその日の夜だった。
 またしばらく会えないと思うと寂しさが募って、鍵の掛かったマッシュの部屋へひっそりと忍び込んだ。
 城主であるから管理されている合鍵を持ち出すことは訳無い。しかし実際に室内へ入り込むと、今はいない部屋の主の残り香がかえって胸を締め付けて、エドガーは背徳感に苛まれた。
 余計な物のないシンプルな部屋は、かつて旅の途中に立ち寄ったコルツ山そばの修練小屋を思い出させる。それでいて家具の配置や控えめな色など見慣れない部屋の景色は、しばらくエドガーがマッシュの部屋に招かれていないことを突きつけてくるようで、どうにも息苦しくなった。
 早々に部屋を出ようとしたエドガーを引き留めたのは、素朴な文机の上に置かれた皿型の花器だった。
 ──こんな花器を持っていたのか。
 小さな青い花の模様が描かれた陶磁器の皿の中に、水も張らずに青い花がぎっしりと敷き詰められていた。城の庭園では見たことのない、名前も知らない花だった。
 マッシュが城を出たのは昼前だというのに、その花は今し方摘んで来たような瑞々しさを保っていた。水も無いのに萎れていないことに首を傾げつつ、その瑠璃の石を思わせる美しい青の花弁に魅かれてそっと指で触れた。
 マッシュの目の色にも似た、穏やかな優しい色合いの青だった。

 自ら吐いた花に見覚えがあった訳がやっと分かった。覚え得る限り、ここしばらくで花に触れたのはあの時一度きり。
「お前……あの花……」
 漏らした呟きでマッシュはある程度のことを悟ったのか、エドガーから静かに手を離す。そして申し訳なさそうに、苦々しさを滲ませた控えめな笑みを浮かべた。
「……捨てるのが勿体なくて、飾ったままにしちまったんだ」
 マッシュの呟きにエドガーが天を仰ぐ。
 あの花の正体が分かったと共に、エドガーが留守中に部屋の中を覗き見たことも把握しただろう。どうにも弁解の言葉が思いつかず、小さく「すまん」とだけ零したエドガーに対してマッシュはゆっくり首を横に振った。
「どうせ一日で砂になると思って、そのままにして行った俺が悪い」
 その顔でエドガーは思い出した。
『いい酒があるんだ。後でお前の部屋に持って行こうか』
『俺の部屋、いつも散らかってるからいいよ。代わりに兄貴の部屋にお邪魔していいかな』
 何度となく誘った言葉は、今のような苦笑を添えてさり気なく躱されていた。部屋は散らかってなどいなかった。そもそも散らかるほどの物もろくにない簡素な部屋に、花を飾る花器があることも知らなかった。
 いつからマッシュは誘いを断るようになったのだったか。
 ──あの花はいつから飾られるようになったのか。
 文献には、花の色や形状は想う相手に寄って変わるとあった。先の女性が吐き出した花は火がついたような赤だった。見たのは一瞬だが、エドガーの花よりは随分大きなものだったように思える。
 ならば何故、エドガーはマッシュと全く同じ花を吐いたのか。あの夜に見つけた花の印象が強く残ったためだろうか。そんなことでこの病は同じ花を吐かせることが出来るのか。
 改めてマッシュに顔を向け、エドガーは怯む。思えばこんな風に正面から視線を合わせるのはいつ振りだろうか。
 エドガーをじっと見据えるマッシュの目は真っ直ぐで、雄弁だった。
 ──ああ、この男はいつからこんな目で自分を見ていた。
 じわじわと熱くなる頬の色が傍目にも赤く変わってはいるのではないかと気が気ではなかったが、それでもエドガーは尋ねずにいられなかった。
「……いつからだ」
 マッシュが僅かに眉を寄せる。
 エドガーは短く溜息をついて、走って乱れた前髪を乱雑に掻き上げながらもう一度問いかけた。
「……、いつからなんだ……、マッシュ……」
 あらゆる意味を持つ「いつから」だった。
 マッシュは軽く目を伏せ、ふいに顎を上げて空を睨む。フッと小さな吐息と共に肩をストンと落としたマッシュが再びエドガーに顔を向けた時、その表情は腹の据わった男のそれだった。
「……一年くらい前に、ドマで花を触っちまったんだ。俺は初めて聞く病気だったけど、ドマではそうでもないみたいでカイエンにいろいろ教えてもらった。三日に一度は吐いてた。同じ日に何度も吐くこともあった。でも一日経てば砂になって消えちまうから、誰かに知られることもなかったんだ。ここ……サウスフィガロでヘマするまでは」
 マッシュは手に持ったままの青い花を軽く掲げ、短い茎を摘んでくるくると回した。
「半年は前だったかな。吐いた花を見られて触られちまった。……あの人、バルガスの……俺の兄弟子の幼馴染みなんだ。よりによって、彼女に移しちまった……」
 エドガーは思わず口を開けた。マッシュが自ら手に掛けた兄弟子の名を聞いて眉を顰めて目を閉じる。コルツ山での戦いの記憶はすでに朧げだが、あの真っ赤な花を思わせる激しさを持った男だったように思う。
 うまく言葉が出ない代わりに、勝手な詮索で花まで吐いた自分を恥じて深く長い息を漏らした。
 マッシュは軽く後方を振り返る。ここからでは見える訳もないが、女性に心を馳せたのだろう。眉が心苦しげに顰められていた。
「俺のことはずっと黙っててくれてたんだ。フィガロから医者が送られてきたって時も、俺のことを思って知らないふりしてくれた。おっしょうさまのところで暮らしてた頃に世話になってた恩もあるし、どうにか償いたくて、時間見つけては通ってたんだ。何か役に立たないかと思って。……でも今日、もう来なくていいって言われたよ」
「え?」
 聞き返したエドガーへ、マッシュはまた申し訳なさそうに微笑む。

 ──最初の頃は何度も吐いていたけど、最近あまり吐かなくなっていたの。だんだん、気持ちの整理がついてきたみたい。

 ──でも貴方を見ると彼を思い出しちゃうのよ。……これ以上花を吐きたくないの。私はもう自分一人で大丈夫だから、貴方も自分のことだけ考えて、ここにはもう来ないで。

 ──貴方だって、花を吐くほど好きな人がいるんでしょう──

 二人の間を風が通り抜ける。強い風がマッシュの指から青い花を攫った。ハッとして花を目で追ったエドガーの横顔へ、マッシュが独り言のように小さな声で囁きかけた。
「俺は、花を吐くのは嫌じゃなかったよ。そりゃ吐いてる最中は苦しいけど、出て来た花はいつも綺麗だった。青くて綺麗な花を見る度、ああ、俺はちゃんと……、……兄貴を好きなんだって実感できて、幸せな気分になれたんだ」
 エドガーの顔が歪む。
 そんなエドガーを宥めるようにはにかんだマッシュは、覚悟を決めたのか胸を張って、その割には普段の彼らしくない控えめな静かな声で告げた。
「ずっと前から、……ガキの頃から、兄貴が好きだよ」
 エドガーに向けたマッシュの目は清々しく澄んでいたが、僅かな迷いや後悔も確かに透けて見えた。
 こんな状況にでもならなければ、マッシュがエドガーに想いを告げることはなかったのだろう。しかし二人は同じ花を吐いてしまった。
 また申し訳なさそうに笑うマッシュを見ているのが苦しくなって、俯いたエドガーは緩く握った拳をマッシュの胸に押し当てた。
「……俺が吐いたのは一度きりだ」
 呟きは耳に届いたのだろう。エドガーには見えない位置でマッシュが小さく頷く。
「苦しくて苦しくて、たまらなかった」
「……うん」
 今度は微かな相槌があって、その声のあまりの穏やかさにエドガーは唇を噛んだ。
「苦しかった。涙は出るし息はできないし、胸が痛くてまともに立ってもいられなかった」
「うん」
「たった一度、あの一度でさえ辛くて辛くてたまらなかったのに、お前は……、お前は、あんなに苦しい想いを抱えて、それでも幸せだったなんて、言うのか……っ」
「……、うん……」
 肩に温かい手が触れる。声を詰まらせるエドガーの震える肩を、マッシュはややぎこちない動きでそっと撫でた。
「吐いた後に咲いてる花があんまり綺麗で、兄貴を見てるみたいで嬉しかったのは本当だよ。でも、俺は兄貴に笑っていて欲しいから……兄貴が苦しんで花を吐くのは、嫌だな」
 エドガーが顔を上げると、照れ臭そうに苦笑しているマッシュが優しく自身を見下ろしていた。ぐしゃっと崩れた顔を見られまいと、エドガーはマッシュの胸に額をぶつけて吐き捨てる。
 俺だって、お前が苦しむのは嫌だ。そう答えるのが精一杯だったエドガーの頭を、マッシュが愛しむように何度も撫でた。
 胸に空いた穴から吹く風が緩やかになり、花の芳香を纏って温かく二人を包み込んだ。





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 ──花をあのままにして来てしまって大丈夫だろうか。
 ──今日は風が強いから、もう散らばって遠くに飛ばされてる。明日には砂に変わるから、それまで誰の手にも触れないよう祈るしかないな。

 ──すっかり遅くなってしまったな。大臣に何と言い訳しようか……
 ──俺も一緒に考えるって言いたいけど、どうせ良い案なんか浮かびっこないから、一緒に怒られるよ。

 ようやく漏れた、気の抜けた笑い声が風に混じって溶けて行く。
 エドガーはチョコボの手綱を握り直した。
 未知の伝染病に手をこまねいていたが、思いがけず感染源も経路も把握することができた。あの女性が本人の言葉通りもう花を吐くことがなくなれば、ひとまずフィガロにおいてはこれ以上の感染拡大は免れるのかもしれない──風に散らばった青い花が誰かの手に触れない限り。
(それでも人が恋をする限り、あの病がこの世界から完全に消えることはないのだろう)
 鎧を蹴るとチョコボが元気良く鳴き、砂を巻き上げて駆け出し始める。
 振り向いた隣には同じくチョコボを駆るマッシュの姿がある。フードの下の優しい笑顔がこちら見ているのを確かめて、エドガーは懐かしい胸の痛みに微笑した。

 黄昏月が照らす伽羅色の砂漠に、風に縺れながら転がる白銀の白百合が二輪。