必然




「さよならだよ、マッシュ」
 いつもと変わらない、穏やかで悠然とした微笑みを湛えて兄が告げる。
 婚礼が決まったんだ、とまるで舞い込んで来た新しい仕事の内容をさらりと伝えるように簡潔に今後の予定を説明した兄は、呆けた顔でぼんやりと話を聞く自分の首にふいに腕を回し、息のかかる距離まで顔を近づけてゾッとするほど綺麗な笑顔で囁いた。
「だからお前に抱かれるのはこれが最後だ」






 いつから見開いた目で暗い天井を見つめているのか分からなかった。
 噴き出した汗が冷えて裸の肩が寒い。まだ心臓の音が頭の奥まで響いてくるほど大きく早鐘を打っている。夢と現実の境目が何処にあったのかすぐには理解できなかった。
 怖々顔を隣に向けると、肩に頭を寄せて眠る兄の姿。規則的な寝息と暗がりでも分かる柔らかな寝顔はいつもと変わりない。そして少しずつ昨夜の記憶を取り戻していく、確かに互いを求め合った。あれだけ胸が満たされた後に、背筋が凍るような夢を見るのは何故なのだろう。
 はあ、と大きく溜息をついたせいで肩が揺れ、兄が少し身動ぎした。起こしてしまったことを申し訳なく思いながら、寝ぼけた様子で胸の辺りを弄ってくる兄を何も言わずに眺めていた時、ふと兄が「寒いのか」と呟いた。
 汗の冷えた身体が冷たく感じたのだろうか、それとも鳥肌でザラついていたのか。いいや、と否定しかけて、途切れてしまった言葉についほろ苦い笑みを零す。
「……うん、寒い」
 答えると、兄は少し肩に頭を乗せて胸を覆うように腕を伸ばし、ぴたりと肌を密着させて来た。素肌の兄に包まれた右半身がじわりと熱を持ち始める。鎖骨に頬を寄せて、どうだ、と優しい声で尋ねられ、暖まった身体の奥で心臓がぎゅうっと軋んだ。
「……あったかいよ。すごく」
 毛布からはみ出た兄の背中が冷えないように抱き寄せて、髪に顔を埋めて目を閉じる。
 この人が愛しくてたまらない。抱き合えばこんなにも暖かい。では何故あんな夢を見てしまうのか。心の奥底に潜む不安がふとした弾みで頭を擡げるのは何故なのか。
 それはあの夢はいつか訪れる現実だから。


 冗談が好きで偉そうで、饒舌でちょっと気取ってて。悪戯心を忘れなくて、笑顔も出し惜しみしない、時々ほんの少し我儘で意地っ張り。品はあるけどやんちゃもする、子供っぽいところと人の上に立つ大人の顔の両方を持っている人。そして本当はとても優しい。
 十年振りに再会し、別れた時よりずっと魅力的な王の姿になっていた兄を見て、嬉しさ半分淋しさ半分。自分の知らない兄の顔がどれだけあるのだろうと、離れていた時間の長さを思い知りながら傍にいられる喜びも噛み締めていた。
 触れたいと思ってはいけないと自分を必死で抑えていたのに、先に手を伸ばして来たのは兄だった。誰かに盗られるくらいなら、とそう言って絡みついて来た腕を拒めなかった。呆気ないほど簡単に深みに落ちた。兄の全てに溺れ切った。
 旅が終わって城での暮らしに戻った後も、互いの部屋を訪ねたり訪ねられたりする夜は変わらず、今に至る。共にいる時間はいつも泣きたくなるくらい幸せなのに、決して消えない一握の不安がしっかり胸に根付いて時折顔を出す。
 この時間はいつまでも続かない。兄も自分も間も無く三十路になり、王族の直系として血を残すことをより一層求められるようになるだろう。
 自分は躱せても兄はそうは行くまい。フィガロの王。世界を束ねる指導者。一挙一動全てに注目を浴びる兄が自由な独り身でい続けられる訳がないのだ。
 分かっているのに、日頃穏やかな笑顔ながら緊張感を保ち続けている兄の表情が、二人だけの寝室では枷から解放されたかのように安らいだものに変わる様を見ていると、できることなら生涯かけてこの人を隣で、一番近くで支えてあげたいと願ってしまう。
 それでも少しずつ時間をかけて、隣でなくとも、一番でなくとも、傍にいられたら──近くで守り続けることができるなら、それで兄が幸せでいられるのなら、今いるこの場所でなくとも耐えられると思えるようになってきた──自己陶酔と言われても構わない、兄の幸せのためなら何だってしてみせる。望まれたら脈打つ鼓動ごと差し出すこともできるのだ。
 いつかあの夢のように別れを告げられたとしても、それで想いが消えることはない。見返りはなくていい。この人の幸せが自分の幸せなのだと、共に過ごす時間が長くなる度に思い知る決意の強さが、きっと不安を潰してくれるだろう。
 最後の時が来る日まで、温もりを分け合うことで兄が穏やかに眠れるのなら、そのためだけに生きたって構いやしないのだ──……




 ***




 ふう、とソファに凭れて満足げに息をつく兄の前、テーブルの上に兄が好む紅茶を滑らせてやり、嬉しそうに微笑む姿を見つめて目を細める。
「あの子はすっかり腕を上げたよ。来週の成人の儀が楽しみだ」
 カップを手にして口に含む前にそう告げた兄に頷き、兄貴直伝の槍術だもんな、と返すと、軽くこちらを振り向いた兄が若い頃より更に彫りの深くなった目で小さくウインクをした。
 品を保ったまま歳を重ねた兄は、つい先月五十の誕生日を迎えたと言わなければそうは見えないほど若々しくあった。美しいブロンドにチラホラと透き通るシルバーが混じる様にはなったが、それがかえって人の上に立つ者としての威厳を際立たせているようで、王たる佇まいは昔にも増して洗練されていた。
 兄が『彼』と出会ったのは十年ほど前のことだった。外遊の途中で立ち寄ったモブリズにてティナと久しぶりの再会を喜び合った時、彼女が管理する孤児院で彼を見つけた。
 薄いブラウンの髪に翡翠のような目をしたまだ四歳の幼児が、背格好に似つかわしくない分厚い本を抱えている姿に兄は興味を持った。一言二言話しかけるうちにすっかり会話は盛り上がり、帰る頃には兄は上機嫌になっていた。
「あの子は頭がいい。ちゃんとした教育を受ければもっと多くのことを吸収するだろう」
 モブリズでは大人たちが子供に本を読んで聞かせる程度しか教育の機会がなく、兄はこれをきっかけにモブリズのみならず他の小さな町にも学校を建てる政策に力を入れ始めた。
 その関係で度々訪れることになったモブリズで、兄は必ず彼に会いに行った。新しい本を差し入れし、工具をプレゼントし、次に訪れた時に簡単なゼンマイ仕掛けの時計を作って待っていた彼を手放しで褒めた。照れ臭そうにはにかんだ彼は、兄を心から慕っているようだった。
 彼を養子に迎えると兄が言い出したのはそれから二年後だった。当然役職のあるほとんどの人間が反対を唱えた。何処の馬の骨とも知れない孤児を王家に迎えるなど、との声は他でもない自分たちの母である先代王の妃が孤児であったことを理由に兄が黙らせた。
 おどおどと落ち着かない様子で城にやって来た彼は、初めて見るもの聞くものを恐るべき速度で自分の中に取り入れているようだった。成程確かに頭の回転の速い子だっだ。彼が躊躇わずに兄を父と呼ぶようになった頃には、立派に王族としての気品も備わって兄と本当の親子のように見えていた。

 兄は妃を娶らなかった。とうとうこの手を離すことなく齢は五十を迎えてしまった。
 いつか来ると思っていた別れの時が来ないまま、今もこの身は兄の隣を独占している。反対隣に兄の息子が増えたという変化はあったが、そのことで自分たちの関係が変わることはなかった。
 勿論この関係を続けるために兄は彼を養子に迎えた訳ではない。全ては偶然であり、兄に言わせれば必然だったらしい。欲しいものは遠慮しない、この手で掴んで離さないと不敵に笑った横顔の凛々しさはずっと記憶に焼き付いている。
 歳を重ねて物腰が柔らかになりつつも鋭い眼光は衰えず、戦火を潜り抜けて来た若い頃と同じように前を見据えて歩みを止めない兄は、何一つ諦めることなどなかったのだ。その強い意思で運命すらも味方につける、兄には一生敵わないのだと思い知る。
 不穏な夢はもう見ない。寒ければ肌を寄せれば愛しい人が応えてくれる。死ぬまでこの日々を守り抜くと今の歳になってようやく覚悟ができた自分に対し、兄は最初に手を掴んだその日から未来を射抜いていたのだろう。
 カップをテーブルに置いた兄が、途切れた話の続きを口にし始めた。
「それで、無事に成人の儀を終えたら一度モブリズに行ってティナに挨拶をしたいと言うんだよ。それに異論はないが、折角だから俺も久しぶりにティナに会いに行こうかと思うんだ」
「ああ、いいんじゃないか」
 答えると、兄は少し含みのある目になって口角を上げた。
「あまり仰々しいのを彼女は好まないから、内々に訪れるつもりだ。それでお前に俺のボディガードと、モブリズでのデートをお誘いしようかと、ね」
 どうだ? と悪戯っぽく視線を流されて、頷きながら微笑みを返す。
「一番近くで守ってみせるよ」
 ご用命とあらば、いつまでも。