イノセント・インモラリティ




 ギシギシと木の軋む音に合わせて腰を動かす頭上の男は、もうずっと泣き出しそうな顔をしていた。と言うより目尻に涙が滲んでいるのだからすでに泣いている。口からは荒い呼吸の合間にぼそぼそと言葉が漏れて、そのどれもが自分を呼ぶものか最中であるこの行為がどれだけ良いかを伝えるもので、その余裕のなさに却って自分の頭は冷静になっていく。
 弟を受け入れた。もうずっと前から気持ちには気付いていた。決して越えるまいと思っていた一線をとうとう越えてしまった。
 服を全て剥ぐのももどかしく、半裸のままの自分の胸に恭しく口づけをして、辿々しい指が足を腹を撫でていく。不快感はなかった。元々ひとつだったものが別れて産まれてきたのだ、自分の半身が触れる箇所は初めてとは思えない程的確だった。
 開いた脚の付け根に埋め込まれたものの圧迫感で呻き声は漏れるが、その場所はこうなることが自然であったかのようにぴったりと収まっている。快楽と呼べるほどではなくとも、体がこの行為を望んでいたと思わせられるには充分な適合感があった。
 突き上げられると呼吸は弾むが矯声を上げてはいけない気がした。頭上の弟を見上げると、変わらずに泣き出しそうな情けない顔をしている。小さい頃の、少しのことでベソをかいていたあの幼い姿そのままの表情に思わず目を細める。
 まだ俺にそんな顔を見せてくれるのか──彼が自分よりも背丈が低かった当時を思い出し、頭を撫でていたあの頃がついこの前のような遠い昔のような、不思議な感覚に囚われた。
 無防備で無垢な弟。受け入れるのが怖かった。こちら側の世界に引き込んでしまいそうで。どす黒い感情を腹の奥に押し込めて、薄ら笑いを浮かべる自分の中に引き摺り込みたくなくて。
 彼は純粋に愛を謳う。不器用で真っ直ぐな愛情表現はたまらなく愛おしい。その青い瞳には表も裏もないのだと、かつて自分が空に放ったコインに似た輝きを見て思い知らされる。
 天井に吊るされたランプに透ける弟の髪がキラキラ輝く。無骨な腕に指。自分の脚を抱え上げて腰を振る動作は獣じみているのに、恍惚に蕩けた瞳は何処までも優しい。彼が全身で訴える、自分のことが好きで好きでたまらないというストレートで狂気じみた想いが繋がった箇所から注ぎ込まれているようで、突き上げられる度に呼吸を忘れてしまいそうになる。
 切なげに寄せた眉の角度も、涙に潤んだ瞳の青さも昔と全く変わらない。変わらないでいて欲しいと願ったのは自分だった。だからこそ彼を変えてしまうかもしれないこの行為は恐怖だった。
 ところがこれほど深く繋がっても、弟の眩さは失われるどころかより一層輝くのだ。目が眩みそうになる。触れられた肌が焼け付くように熱を持つ。もっと奥まで、と浅ましい期待さえまるで悪気のない顔をしてあっさりと叶えてくれる。
 ふと、弟の目尻から一筋の雫が滑り落ちた。転がる途中に光を受けて瞬間キラリと煌めいたそれがあまりに美しくて、何ひとつこの澄んだ弟を侵すことはできないのだと思い知らされる。
 ならば自分のこの身はどうだ? 弟に抱かれるに足るものだろうか? 自問に答える声はなく、ただ揺さぶられて意識だけは手放すまいと唇を噛むと、弟の親指がぎこちなく噛み締めた場所を覆った。
 唇から思わず力を抜くと、弟の目が安堵したようにふにゃりと歪む。その清らかな泣き顔混じりの笑みを見て、つい苦笑いが出てしまう。そんな自分を見て弟はまた笑う。笑顔がより濃く出た表情は、先程のべそかき顔よりも更にずっと子供のままで、自分もまた苦笑を捨てて微笑まざるを得なかった。
 ──ああ、そうか。こちら側に引き込むだなんておこがましい。
 彼の純真さは揺るがない。例え淫らな行為に耽り、血を分け合ったもう一人の自分と欲望のままに繋がろうとも、たった一度笑うだけで全てを白く塗り潰す力がある。
 泣き顔よりも笑顔の方がずっといい。腕を伸ばして弟の目尻に残った涙を拭き取ると、その手を握られて頬を寄せられた。少し剃り残しの髭の感触があってまた笑ってしまう。弟もまた笑った。優しい笑みを見ると無性に口づけが欲しくなった。頭の中を共用しているように弟の顔が降りてくる。
 柔らかく包まれ、弱さをそのまま吸い上げられているようで意識を手放しかける。重ねられた端から荒い息が漏れて、その隙間が嫌で自分からも強く唇を押し当てた。
 体の奥を貫いているものの昂りは限界に近いようで、更に速くなる動きに取り残されないよう広い背中に腕を回した。
 胸と胸が触れ合えば命の音も重なり合う。何て心地が良いのだろう。この世で一番愛しい人に包まれて、一番深くで絡み合いひとつになる。眩しいのはランプの灯りか、それとも……くらくら歪む視界に抗わず、理性も意識も手放した。

 目覚めれば温かい腕の中、まだ寝息を立てている相手を起こさぬようにそっと頬に口づけた。
 彼はきっと、ずっと変わらない。
 願わくば自分もそちら側に引き込まれたいと強く思った。