居場所




 目が覚めて数分間、ぼんやり天井を眺めながら何もせずにベッドに横たわるだけの退屈さを味わって、懐かしい景色だとしみじみマッシュは溜息をついた。
 頭の鈍痛は大分落ち着いているが、首筋に手を当ててみると自分でも体温が高いことが分かる。まだ熱が下がり切っていないことに落胆しつつ、ごろりと寝返りを打った。身体はやや汗ばんでいる。鍛え上げた肉体も病魔に蝕まれている今は重い荷物のようで、早く治さねばと瞼を下ろして再び休息を得ようとした。
 マッシュが瞼を下ろしたとほとんど同時、コンコンとドアにノックの音。女官が水でも替えに来たのだろうか、それならば寝ていても問題はないだろうと目を閉じたままでいた。思った通り返事を待たずに扉は開いたが、
「マッシュ、……寝てるのか」
 聞こえて来た声が女官ではなく、愛する兄のものとあってはマッシュも覚醒せざるを得ない。
 ぱちっと目を開いて身体を起こすと、戸口でエドガーが少し驚いた顔をしていた。
「起きて大丈夫か?」
「うん、大分。まだ熱はあるみたいだけどな」
 ドアを閉めてマッシュの元へと歩いて来たエドガーは、おもむろに上げた手をマッシュの頬に当てて首筋まで滑らせるように撫でた。
「確かに熱いな。でもかなり下がった……良かった」
 もう一度マッシュの頬に触れてから穏やかに微笑むエドガーに、マッシュも照れ臭そうに笑い返す。
「こんなに寝込んだの久しぶりで参ったよ。ガキの頃に戻ったみたいだ」
「ふふ、確かにな。しかし見た目は随分と変わったもんだ」
 頬に当てた指先ですっかり顔の下半分を覆ってしまった伸び放題の髭をふわふわと撫でるエドガーの笑みを見て、マッシュは苦笑いで歯を見せた。
「もう三日以上放ったらかしてるからな」
「まさに熊だな。不思議なものだ……俺は伸ばしっぱなしにすることがないとはいえ、ここまでにはならんだろうな。髭が生え始めたのは俺の方が早かったというのに」
 指で髭を摩りながら懐かしい姿を重ねているのか、マッシュを見て目を細めるエドガーの微笑みの美しさに一瞬見惚れて、マッシュはほのかに頬を染める。もっとも髭で隠れて顔色の変化は気づかれていないかもしれない。
「声変わりも兄貴の方が早かったよな」
 指の戯れを擽ったそうにしているマッシュに気づいたのか、エドガーはようやくマッシュの顔から手を離して腕組みをし、頷いた。
「そうだな。あの頃は俺の方がデカかったからな」
「俺は太れなくてひょろっとしてたしなあ」
「そう、ぜーんぶ俺の方がデカくて早かった。下の毛もな」
 しれっと告げるエドガーに対して言葉を詰まらせたマッシュはその弾みで咳き込み、それに動じることなくエドガーはサイドテーブルに置かれた水差しを手に取ってコップに注ぐ。
「ぬるいな。女官を呼んで替えさせよう」
 そう言いつつエドガーが差し出してきたコップを受け取り、二口含んだマッシュはおまけの咳をひとつしてフッと息を吐いた。
「いいよ。まだ量は残ってる、勿体無い」
「……そういうところは本当に昔と変わらない」
 マッシュが返したコップをテーブルに置いたエドガーは、また細めた目で微かに笑いながらマッシュをしみじみと眺めた。
「何か欲しいものは?」
 表情はそのままに尋ねるエドガーに、少し考えた素振りを見せたマッシュは何も、と答える。
「腹減ってないし、水は今飲んだ。逢いたい人は目の前にいるしな」
 エドガーの細めた目が柔らかく弧を描き、綻んだ唇から溢れる気品にマッシュはまた見惚れてしまう。
「じゃあ、また少し眠るといい。早く治して元気な姿を見せてくれ」
「……うん。ごめんな、心配かけて」
「慣れてるさ。そろそろ行くよ、また後で」
 エドガーが伸ばした腕の先、指がもう一度マッシュの髭をさらりと撫でて、微笑の残影を置いて背を向けたエドガーに軽く手を上げたマッシュは、兄が部屋を出たと同時に起こしていた身体をベッドに吸い込ませるように倒した。
 エドガーが何度も触れた顔を自分でも撫でると、確かに芝生のような感触だった。体調も良くなってきたことだし後で髭だけでも整えようか、などと考えつつ、まずは休息を得るため改めて目を閉じる。
 兄の声が低くなり始めたのは十四くらいの頃だった。喉仏が自分よりも大きくなり、並んで話すと明らかに声のトーンが一段下がったことがはっきり聞き取れた。
 髭が生え始めたのも、陰毛が生えて来たのも、兄の言う通り全てエドガーが先だった。そればかりではない、父に付いて城の内務に少しずつ関わり始めた兄とは身体の大きさも立場も差が開く一方で、知らない人間が見たら二人を同じ年の双子だと思うことはなかっただろう。
 それが、空白の十年で体格が逆転することになるとは当時の自分は夢にも思わなかった。兄に追いつき追い越す姿など想像も出来なかった。
 密やかに感じていた劣等感が薄れた実感はあれど完全に掻き消すことができなかったのは、身体の大きさは上回ってもなお兄の存在感を凌駕するには至らなかったためだ。
 十年ぶりの兄エドガーは一国を担う王の顔がすっかり馴染んでいた。
 その背に負う、個とは比較にならない単位の重みを想像するたび、果たして身体ばかりが大きくなった自分が彼の力になれるのか自問した夜は幾つあっただろうか。結局は城を出る前と変わらないのではないか、自分の居場所はここにあるのか──……
 マッシュは眠りにつく寸前の脱力を感じて細く長い吐息をゆっくりと吐き出す。
 ──だがそれも、今は昔。
 見舞いの去り際に見せてくれたエドガーの、支配者ではないマッシュの兄としての微笑を思いながら、微睡みのその先へ深く意識を埋めて行く。



 *



 清々しい目覚めだった。
 軽い目眩を伴った高熱は下がり、頭がスッキリとしている。マッシュは日頃早朝鍛錬で起きる時間よりはずっと遅くに身体を起こし、ベッドの上で大きく両手を天に突き上げ伸びをする。
 寝込み始めて丸五日、すっかり身体が鈍ってしまった。ようやく取り戻した本調子に心を弾ませていると、ドアを優しくノックする音がマッシュの顔を振り向かせた。
「どうぞ」
 半身は毛布に入ったままだが構わないだろうと返事をすると、開いたドアの向こうから何かを手にしたエドガーが現れた。そして迷わずベッドまで近づいて、上半身を起こしているマッシュを認め笑顔のまま眉を持ち上げた。
「おはよう。調子が良さそうだな」
「ああ、もうすっかり」
「声を聞いてすぐ分かったよ。張りが戻ったな」
 ウィンクを見せたエドガーの笑みには隠し切れない嬉しさが滲み出ている。自分の全快を喜ぶ兄が愛おしく、マッシュは照れ臭さに軽く視線を落として、そこで初めてエドガーが手にしているものに気づいた。
 取っ手のついた陶器のマグカップのような器と、小さな刷毛に似たブラシ。器の中にクリーム状の白い泡が見えて、カップの取っ手に重ねて握られた剃刀が決め手となり、成る程とマッシュは髭に覆われた顎を撫でた。
「熊から人間に戻れってか」
「よく分かってるじゃないか。それじゃ、横になれ」
「え?」
 エドガーの言葉に引っかかるものを感じたマッシュが不審げに瞬きをする視線の先では、兄が楽しそうにカップの泡をシェービングブラシで掻き混ぜていた。
「お、おい、髭剃りくらい自分で」
「病み上がりなんだから大人しく兄の言うことを聞け。そら、このまま剃ると手元が狂うぞ」
 取っ手と共に手の中に挟んでいた剃刀を抜き、目の前でヒラヒラと振るエドガーを前に顔を引き攣らせたマッシュは、観念してベッドに倒れ込んだ。
 鼻歌を歌いながら丸椅子を引きずってきたエドガーは、マッシュの顔の横に陣取ってサイドテーブルを引き寄せ剃毛の準備を整える。どうにでもしてくれ、とマッシュはわざとらしく嘆息した。
「随分と偉そうな髭だ。王よりも貫禄があるとは許せんな」
 言葉とは裏腹に弾んだ口調で歌うように呟いたエドガーは、泡をたっぷり含ませたブラシでマッシュの頬から顎を撫で始める。人肌よりも温かい泡のふわふわ湿った感触に、マッシュは軽く首を竦めた。
 掲げた剃刀を見つめたエドガーは、刃の方向を見定めたようで、スッとマッシュの頬に刃先を当てた。反射的にぎゅっと目を瞑ったマッシュの上から小さな溜息が聞こえる。
「そんなに顔に力を入れるな、やりにくい。黙って目を閉じてろ」
 呆れたように指示をするエドガーの言い分に納得した訳ではなかったが、相手は刃物を持っているとあってマッシュも大人しく従うことにした。目を閉じ、なるべく穏やかな鼻での呼吸を心がけながら、その瞬間を待つ。
 頬から顎を覆う泡が肌の上でプチプチと小さく弾け、なんとも言えないむず痒さを生み出していた。早く取り払ってしまいたいと思った時、頬に当たったヒヤリとしたものがチリチリと毛を削ぐ音を立てながら肌の上を滑り出した。
 剃刀が通り過ぎた箇所に空気が触れ、それまで外気を遮断していたものが削ぎ取られたことで涼やかに乾いていく。左頬の上から順に少しずつ、次は右頬、それから鼻の下。ゆっくりと、しかし確実に顔の下半分が軽くなっていく感触は素直に心地が良かった。
 剃刀を安定させるために頬に添えられた指の温もり。刃が通り過ぎた後の剃り跡を確かめるように、その指が肌を撫でるのもまた気持ちが良い。
 マッシュは薄っすら瞼の間に隙間を作り、睫毛の柵の向こう側にあるエドガーの顔を盗み見た。
 軽く伏せた目が時折瞬きで長い睫毛を揺らし、その中央にある青い瞳は真剣にマッシュの下顎を捉えている。通った鼻筋の下で緩く結ばれた唇の淡い珊瑚色が綺麗で、整った兄の顔の造形に見惚れながら四肢から力を抜いたマッシュは、ずっとこうしていても良いと思う程にリラックスしていた。
 静かな室内に聞こえるのは髭を剃る音と、エドガーの呼吸音のみ。刃物を当てられても警戒の必要がない相手は愛する兄だけ。
 エドガーは手を休めず丁寧に作業し続ける。ひたすら剃毛に励むエドガーの直向きな眼差しは、何かを取り戻そうとしているようにも見えた。
 剃り具合を確認するたびに肌に触れる指が気持ち良くて、うとうとと眠気さえ感じて来たマッシュが薄眼を閉じようとした時。
 ようやく剃刀から手を放し、端々に残った泡を丁寧にタオルで拭き取ったエドガーは、はっきり瞼を開いたマッシュの目と向き合って顔を綻ばせた。
「ほら、男前が帰って来た」
 嬉々として告げた兄にはにかんだ笑みを見せ、マッシュは顎を撫でながら身体を起こす。
 目の前にいるのは王たるエドガーではなく、昔からよく知る笑顔の兄だった。何処かホッとした表情を浮かべるエドガーは、普段人の上に立つ姿に比べて幾分か幼く見えた。
 無言でマッシュの髭を剃り落としたエドガーもまた、十年経ったのちのマッシュの姿に知らない一面を見て胸を騒がせたことがあったのだろうか。
 向かい合う今の自分たちは同じ顔をしているだろうかとマッシュが想いを巡らせていると、ふいにエドガーが掠め取るようにマッシュの唇に口づけた。
「こら、移るぞ」
 キスそのものより不意打ちのエドガーの動作の愛らしさに動揺したマッシュが慌てて告げると、エドガーは悪びれず、それでも僅かに頬を染めながらしれっと口を開いた。
「もう五日も我慢してたんだ、そろそろいいだろう」
 可愛いことを言う唇をこちらからも盗んでやりたい気持ちになりながら、気恥ずかしさを誤魔化すためにマッシュは再びつるりとした顎を撫でる。
 二人だけで向かい合うこの瞬間、対面にいるのは変わらず愛し続ける兄のエドガーであり、エドガーもまたマッシュを同じ瞳で見つめ返しているのだと、今は素直に信じられる。紛れもなく、ここが自分の居場所なのだ。
 念の為にとお返しのキスは頬にして、不服そうなエドガーをやんわり胸に抱き締めたマッシュは、ただいま、と小さく囁いた。