JINX




 オペラ座を出てから、いや出る前からもうずっと不機嫌な表情を固めているエドガーの隣で、先程観劇中に特別席で鼾をかいていたマッシュが困ったように頭を掻いている。機嫌が悪いことは当然ながら伝わっているだろうが、その理由まできちんと理解しているのかどうか。エドガーはマッシュから顔を背けて不満を吐き捨てるような短い溜息をついた。
 城を出る前にきちんと整えさせたマッシュの髪はすっかりぼさぼさになっている。そしてこの日のためにエドガーがマッシュのために見立てた服は、身につけてからずっと首元が苦しいだの肩がキツイだの文句を零し、すでにいくつかボタンが外されて鎖骨が覗く状態だった。
 更に悪びれずに大欠伸をしたマッシュを、エドガーはじっとりと睨みつける。
「……お前、あの席取るのどれだけ大変だったか分かってないだろう」
 怨みのこもった低い声でボソリと呟くと、目尻に浮かんだ涙を眠そうに拭ったマッシュがエドガーを振り返って首を傾げた。
「ん? まあよく見えたけど、なんか歌ったり踊ったりしてるの見てるだけって退屈でさ」
「それを楽しむところだぞ!」
「なら誰か女の子でも誘えば良かったじゃん。何でわざわざクリスマスに俺なんか連れてきたの」
 マッシュの疑問にぐっと言葉を詰まらせたエドガーは、この鈍感、と小さく舌打ちをしてぷいとそっぽを向いた。
 クリスマスに二人でオペラ鑑賞だなんて、デートでなければ何だと言うのだ──勿論そのつもりなのはエドガーだけで、何も知らないマッシュを責めるいわれはないと理解してはいるのだが。
 前々から暖めていた想いを今日こそ伝えようと、クリスマスという絶好のイベントに合わせてムード作りから気合を入れていたのに。この日に全てを賭けるはずが、今の時点で露ほども伝わっていない胸の痛みを持て余しつつ、エドガーは次のステージこそはと気を取り直す。

 オペラ座に併設されている高級ホテルのスイートルーム。カップル向けのキングサイズのベッドが鎮座するあの部屋の予約をクリスマスに取るのは至難の技だった。
 クリスマスに最上階のスイートルームで愛する人と過ごせば、その二人はずっと離れずに永遠に結ばれる──そんなジンクスのある特別な部屋は当然のように大人気で、いくらフィガロ王とは言え私用に職権を大乱用する訳にもいかず、それなりの労力を費やしたのだ。多少のコネを使ったことくらいは大目に見て欲しい、とエドガーは緊張で冷たい指が握るルームキーをチラリと見下ろす。
 マッシュはそんなジンクスは知らないだろうが、さすがにあのあからさまな部屋を見ればどれだけ鈍感でもこちらの意図に気づいてくれるはず……と、エドガーはルームキーをきつく握り締めていざ出陣とばかりに部屋に乗り込んだ。
 エドガーに続いて部屋に入ったマッシュが、二間続きの奥の寝室に馬鹿でかいベッドがひとつだけある作りを見てぽかんと口を開ける。チラチラとマッシュに横目で視線を送りながら、エドガーはどんな反応が来るのか期待に胸をときめかせた。
「兄貴……、この部屋」
 来た、と生唾を飲み込んで、心を落ち着かせるように胸をそっと押さえる。
「あ、ああ」
「手違いかな? ベッドひとつしかない!」
 がく、と肩を落としたエドガーは頭を振って気を保ち、大真面目のマッシュの真っ直ぐな目に挫けそうになりながらも努めて明るい声を出してみせた。
「ま、まあ大きいベッドだし、ひとつでも……大丈夫じゃないか?」
 しかしエドガーの思惑に反し、マッシュは真顔で首を横に振る。
「俺こんな身体デカいのにさ、兄貴蹴落としたら大変だよ。フロントに言ってくる」
「え!? い、いやしかし、クリスマスの忙しい時期に手を煩わせるのも悪いだろう……?」
「何言ってんだ、兄貴はフィガロの国王だろ。頼めば部屋チェンジかベッドもう一台置くくらい、すぐにやってくれるよ」
 そのまま部屋を出て行きそうな勢いのマッシュを前にエドガーは大いに焦り、逞しい腕を掴んでしどろもどろになりながら引き留めた。
「だが、部屋はもう空きがないかもしれないぞ? それにこんな夜中にベッドをもう一台いれるなんて、騒々しくて周りの部屋にも迷惑だ」
「この部屋だけ随分奥まったところにあるだろ。こんなに離れてたら他の部屋に音なんか届かないよ」
「し、しかし、これだけ大きなベッドなら、その、く、くっついて眠れば……」
 抱いてくれ、の一言が言えずに目線を彷徨わせながらボソボソと口籠もるエドガーに対し、マッシュは実に滑舌よく「いや」と前置きしてきっぱりと言い放つ。
「兄貴に窮屈な思いさせられないよ。ちょっと待ってて、俺が掛け合って──」
 頑として主張を譲らず、フロントに向かうべくエドガーの腕を解いて踵を返そうとするマッシュを前に、それまで必死で追い縋っていたエドガーの胸の中で何かがパキンと音を立てた。
 心が折れるとはこういうことか──エドガーは自分の思惑を汲み取らないマッシュと、ストレートに気持ちを伝えられない自分への不甲斐なさとで、完全にやる気を失って作戦の失敗を受け入れた。
「……帰る」
「えっ?」
 立ち止まって振り返るマッシュを苛立ちを隠さない据わった目で睨みつけ、エドガーはもう一度「帰る」と呟いた。
「帰るって……、今から?」
「そうだ」
 間髪入れずに答えたエドガーの顔と、ベッドサイドテーブルの上の置き時計とを見比べたマッシュは、困ったように眉を下げてみせる。
「でももうこんな時間じゃ船もないし」
「俺はフィガロの国王だぞ、船は出させる」
 エドガーの言い草にマッシュが呆れて口を開けた。それでも構わずにエドガーはマッシュの横を擦り抜けて、ずんずん床を踏みしめながら扉に向かう。後ろから慌ててマッシュが追ってくる気配がした。
「いいよ、兄貴はここで待ってて。俺が行ってくる」
 後ろから引き留められるように両肩にマッシュの手が置かれ、その暖かさが苛立ちでささくれ立っていた胸にまで届いて軋むような痛みを感じる。
 ──折角気合を入れたのに。そんな気分ではなくなってしまった。最悪のクリスマスだ……
 この日のためにせっせと準備をした自分は何て愚かで惨めなんだろう。マッシュは悪くない、はっきり言えない自分が全て悪いのだ──泣きたくなるのを堪えながら、大きく深いため息をついたエドガーの後方で、マッシュはと言うと安堵のため息をついていた。
 ──良かった。あんなベッドで一緒に寝たりなんかしたら、我慢できなくて手を出しちまう──
 すれ違う恋心にお互い気づくことなく、二人は同時に溜息をついた。




「兄貴、船来るの一時間後だって」
 フロントから戻ってきたマッシュがエドガーに支配人の言葉を伝えると、足を組んでベッドに腰掛けていたエドガーはむすっとした顔のまま目を向けずに呟いた。
「遅い。もっと早くならんのか」
「だってもう客船は格納されちゃってたんだぜ、それを無理言って頼んだんだから」
「一秒でも早くここを離れたい」
「もー、さっき自分で手を煩わせるの悪いって言ってた癖に」
「いいからもう一度掛け合ってこい」
 有無を言わせぬ口調の兄に呆れ返って溜息が漏れるが、分かったよと小さく返事をしたマッシュは再び部屋を出るべくエドガーに背中を向けた。
 やけに兄の視線を感じる──見られている気配で背後が気になるが、振り向いてもあの陰鬱とした目がこちらを見ていると思うと行動には移せなかった。
 ここに来るまではあんなに楽しそうだったのに。マッシュは城で支度をしていた時のエドガーを思い起こして寂しそうに瞼を伏せる。
 今日の日の休みをもぎ取るために連日遅くまで仕事をこなし、前日だって相当の夜更けまで書類と格闘していたことは知っていた。朝の弱いエドガーが起きられるか不安だったが、マッシュが部屋のドアをノックした時はすでに身支度を整えていて大いに驚いたことを思い出す。
 初めて見るピアスに、恐らく服もおろし立ての特注品で、細やかな刺繍が施されたビロードのジュストコールにジレの組み合わせがよく似合っていた。まるで何処かのパーティーに出かけるかのような華やかな服装を褒めると、「クリスマスのオペラ座だからな」と嬉しそうに微笑んだエドガーの僅かに紅潮した頬がやけに兄を可愛らしく見せていた朝から、半日以上経ってこんなことになろうとは。
(やっぱり俺のせいかな)
 階段を下りながらマッシュは再び頭を掻く。
 オペラが嫌いな訳ではないが、どうにも話が退屈過ぎた。お互い想い合っているのにすれ違いを繰り返す男女のやり取りが辛くなり、内容を噛み砕くことをやめてしまったのだ。
 それで結果的に鼾をかくことになったのだが、あの特別席では流石にまずかったかもしれない。その頃からエドガーの機嫌が悪くなってきた。オペラを見ないで寝るなんて勿体無いと思われたか、悪目立ちして恥をかかせてしまったか──
 もしも同じだけの時間を使って隣の兄を見ていて良いと言われたら、時が過ぎるのも忘れてずっと見つめていられる自信があったのに。新しいピアスがよく似合っている、服の着こなしも惚れ惚れするしあの会場にいた誰よりも上品で華がある。オペラの内容よりも兄の良いところなら幾らだって語れるのだ。
 ──大体なんで兄貴は俺なんか連れて来たんだ。
 本人にもさり気なく尋ねたが、クリスマスに恋人ではなく弟を誘ってカップルの多いオペラ座や高級ホテルにやって来たエドガーはどういう心境だったのだろう。相手がお前しかいなかった、なんて来る前にエドガーは言っていたが、そんなはずは無い。兄が一声かければ喜んでついて来る女性がわんさかいるはずだ。
 たまたま降って来た急な休みならともかく、今回は何日も前からかなり無理をして得た貴重な休日なのだから、他の相手を誘う時間がなかったとは思えない。城から離れて、華やかな場所でお洒落をして。──まるでデートみたいに。
(勘違いしちまうよ……)
 そんなはずはないと分かっているから、うっかり期待してしまわないように何度も胸に言い聞かせ、フロントに向かうべくロビーを横切るマッシュの耳に貴族階級らしいカップルの会話が飛び込んで来た。
「今年も駄目でしたの? 最上階のスイートルーム……」
 ピクリと肩を揺らしたマッシュが思わず足を止めた。大袈裟にならないようそっと振り返って声の主を見ると、恐らく自分たちと同じくオペラ帰りなのだろう、着飾った妙齢の女性とその向かいの品のない派手な衣装の紳士が何やら揉めていた。
「申し訳ない……何とか予約を入れたかったんだが、やはり人気が高いようで」
「わたくし、あのお部屋じゃないと嫌ですわ。クリスマスの夜にこのホテルのスイートルームで過ごすと永遠に結ばれるジンクスは本物だって、アデリシアがとても幸せそうでしたのよ。クリスマスは絶対あのお部屋を用意してくださるって仰っていたのに」
「私も力を尽くしたのだよ……、しかしどれだけ金を積んでも無理だと言われてしまって」
 そこまで話した紳士がふと視線でも感じたのか、顔を上げてマッシュを見た。マッシュは慌てて小さく頭を下げ、不思議そうな顔をしている二人から足早に離れる。
 ──最上階のスイートルームって、俺たちの部屋だよな?
 歩幅を狭めて急ぎ足でフロントに向かいつつ、先程の貴族のカップルの会話を頭の中でぐるぐると巡らせたマッシュは、『永遠に結ばれる』という言葉に頬を赤らめて思わず手を団扇がわりに顔を扇いだ。
 そんなジンクスがあっただなんて、きっと兄は知らなかったのだろう。一国の王なのだから単純に一番良い部屋が用意されただけだ。そうに違いない……自分を納得させつつ、それだけ人気の高い部屋を中途半端にキャンセルすることへの申し訳なさも感じながら、マッシュは支配人を呼ぶようフロントの男性に声をかけた。


「はい、急がせます、はい……申し訳ございません」
 青い顔でへこへこと頭を下げ続ける支配人を気の毒に見下ろしながら、なるべく威圧感が出ないように腰を屈めたマッシュは何度も首を横に振った。
「いや、無理を言ってるのはこっちだから謝らないでくれ。船長との取り次ぎを任せっぱなしにしてすまないな」
「いえ、それが仕事ですから、はい、全力で準備させておりますのでエドガー陛下には今しばらくお待ち頂ければと、はい」
「ああ、できる範囲で構わないんだ。……本当に悪かったな。あの部屋、人気だったんだろ?」
 マッシュの言葉に支配人がハッとし、脂汗を浮かべていた額を皺だらけにして泣き出しそうな顔を見せる。
「そ……うなんですよ、はい、もうあのお部屋は一年前から予約が入っているような状態でして、いえ勿論エドガー陛下に最高のお部屋をご用意させて頂くのは当然なのですが、今回はかなり無理を致しましたので、はい……オペラ座のマスターやダンチョー殿からも何とかして欲しいとお口添えがあったことですし、我々もご期待に応えねばと……」
 よくぞ聞いてくれたとばかりに饒舌に話し始めた支配人に気圧されつつ、マッシュは両の手のひらを向けて宥めるように苦笑いを見せた。


(どういうことだ……?)
 スイートルームで待つエドガーの元に帰る道すがら、マッシュは腕組みをして左右に首を傾げながら先程の支配人の言葉を頭の中で反芻していた。
 かなり無理をして用意したと言われたが、ここに来る前のエドガーの説明は「偶然良い部屋が空いていたから」、だった。オペラ観劇の後は時間も遅くなるし、たまにはゆっくりホテルで過ごすのも悪くないよな、と。
 何度かオペラ座の窮地を救った恩人としてマスターやダンチョーが気遣ってくれたのだろうか? いや、それならわざわざ人気が集中するクリスマスでなくとも良いはずだ。
 何かおかしいなと考えながらも部屋に戻ると、出る前と寸分変わらない場所で相変わらずムスッとした表情のエドガーがマッシュに出迎えの言葉ひとつかけずに黙って座っていた。
「……なるべく早く手配してくれるって」
 そう伝えると、エドガーは「そうか」と小さく答えるのみで、マッシュの方に顔を向けようとはしない。
 マッシュはエドガーに届かない程度の小さな溜息をつき、兄からあまりに遠く離れるのも気が引けて、エドガーが座っている位置とは反対側のベッドの端に腰掛けた。背中合わせになったエドガーの身体が、マッシュが腰を下ろした弾みで少しだけ揺れた。
 無言の時が訪れる。直接的な喧嘩をした訳ではないが、それに近い気まずさがあった。エドガーの不機嫌の原因がはっきりと分かっていないから対処が分からず余計に落ち着かない。
 何か会話の糸口は、とマッシュがあれこれ第一声を考えあぐねていると、ぽつりとエドガーが小さな声で独り言のように呟いた。
「……悪かったな、無理やり連れて来て」
 どき、と心臓が不自然な脈を打つ。エドガーの声は怒っていると言うよりは、寂しさが溢れていて胸を締め付ける類のものだった。
「お前にも最悪のクリスマスにしてしまったな」
 その言葉にマッシュは振り向き、そんなことは、と否定しかけた。マッシュの気配を悟ってかサッと顔を背けたエドガーの横顔に、一瞬光る何かを見たマッシュはハッとして身を乗り出す。
「……兄貴?」
 エドガーは答えず、マッシュの視界には髪を結っているリボンしか映らない。──ああ、よく見ればリボンもいつもと違う。紺碧にさり気ない金のラインが入った柔らかそうなリボンは普段兄がつけているものより明らかに上質で特別なものだった。
 マッシュはベッドの上に片膝を乗せ、更にエドガーとの距離を詰めた。
「兄貴」
「……」
「兄貴、……泣いてる?」
「泣いてない」
 即座に返って来た声が僅かに震えているのを聞き漏らさなかったマッシュは、両膝でベッドの上を移動しエドガーの肩を掴んだ。
「嘘だ」
 エドガーが顔を背けたままマッシュの手を振り解こうとする。その手首をマッシュは掴み返した。
「顔見せて」
「嫌だ」
「兄貴」
「……、見るな……っ」
 やや乱暴にエドガーの左手首を引き、それでも必死で顔を背けるエドガーを振り向かせようと、マッシュは手を伸ばしてもう片方の腕をも掴む。身体ごとこちらに向かせるべく少し強めに引っ張ったが、想像以上にエドガーの抵抗が大きく、怪我をさせてはいけないと一瞬マッシュが怯んだ。
 力が緩んだことが予想外だったのか、エドガーは掴まれた手を取り戻すために身体ごと後ろに引こうとしていたため、そのまま背中からベッドに倒れこんだ。両手はマッシュに拘束されているせいで、上から覆い被さる格好になったマッシュの下でエドガーが驚きに正面を向く。
 マッシュと目が合った──途端、エドガーの潤んだ瞳を囲む肌が燃えるような赤に染まった。その見たことのない兄の表情に、マッシュの目が一回り大きくなる。
 エドガーは数秒金縛りにでもあったかのように硬直していたが、やがて辛そうに恥ずかしそうに眉を寄せ、それ以上は首が曲がらないという限界まで顔を横に向けた。その仕草がやけにいじらしく思えてしまったマッシュは、普段は白い兄の首筋すら真っ赤に染まっている様を見て、これまで浮かんでいた疑問を解消するひとつの仮説を立てる。
 まさか、と打ち消しかけたが、いやでも、と再び手繰り寄せ、確かめるために意を決して兄貴、と低く呼びかけた。
「この部屋の……ジンクスって知ってる?」
「!!」
 びくりと跳ねたエドガーの肩と強張った横顔はマッシュの質問にイエスと答えているのも同然だった。マッシュの鼓動が少しずつ速くなっていく。
「兄貴、本当は帰りたくない?」
「……、そ、れは……」
 エドガーの身を捩る素振りは先程までのような抵抗のものというよりは、恥ずかしさをどうにか誤魔化そうとしているように見えた。
 口籠もりはするが否定はしないエドガーが、何故自分をここまで連れて来たのか──これは自惚れではないのだろうかとマッシュが息を呑んだ時、コンコンコン! と高らかなノックの音が二間続きの奥の部屋であるこの寝室にもはっきりと響いて来た。
 マッシュとエドガーが顔を見合わせる。返答をするにはベッドから降りなければならない。
 二人が迷って動けずにいると、無反応であることを不審に思ったのか業を煮やしたか、支配人と思われる声の持ち主が大きな声でドアの外から呼びかけて来た。
「エドガー陛下、船の準備が整いました! 大変お待たせして申し訳ありませんでした!」
 その言葉を耳にしたエドガーの表情が紛れもなく落胆で歪んだのを見届けたマッシュは、エドガーの腕を掴んでいた手を離してベッドを降りる。
「あ……、マッシュ、」
 引き留めるようなエドガーの声にも構わず、隣のリビングルームを抜けてドアに辿り着き、急いで開放した。
 両手を揉み合わせてマッシュに作り笑いを見せた支配人に対し、マッシュは不必要に大きな声で、
「ごめん! やっぱり、泊まる! 船、キャンセルで!!」
 一方的にそう告げて大きく頭の上で両手のひらを合わせ、呆気にとられている支配人の目の前で扉をバタンと閉めた。わざと大きな音を立てて鍵をかけ大急ぎで寝室に飛び込むと、ベッドの上で曲げた肘を支えにして軽く身体を起こし、呆然と横たわっているエドガーが目に映る。
 寝室の入り口からゆっくりとベッドに近づき、もう一度その上に膝を乗り上げたマッシュは、瞬きを何度も繰り返すエドガーにじりじりと近づいて微かに震えている肩にそっと手をかけた。
「……あれで、いい? 俺、間違ってないかな?」
 顔を寄せて優しく囁くと、再び顔を真っ赤にしたエドガーが眉を下げて目の縁を潤ませ、ごく小さく、しかししっかりと頷いた。それを見届けたマッシュは、浮いていたエドガーの背中に腕を差し入れて強く抱き寄せ、薄く開いていた唇に口付けた。




 二回、三回、四回と、数えられなくなるくらい何度も唇を啄ばまれて、今起こっていることが信じられずにされるがままだったエドガーは、キスの合間に酸素を取り入れることを忘れて息苦しさに喘いだ。エドガーの異変に気付いたマッシュが唇を離してくれたおかげでエドガーはようやく呼吸を思い出したが、その間も力強く抱き締められて胸が詰まり息は荒くなる。
 何か応えなければと躊躇いながらマッシュの背に腕を回すと、唇が触れそうでギリギリ触れない近さにあるマッシュの顔が優しく微笑んだ。
「ごめんな、すぐ気づかなくて」
 マッシュの声が響く度に背中がぞくぞくと痺れてしまう。エドガーは自然と熱くなる頬を冷ますためにも、首を横に振った。鼻と鼻が擦れ合って擽ったさにマッシュが小さく笑う。その緩んだ目元を見ているとエドガーの強張っていた身体もほんの少し和らいだ。
「俺が、はっきり言えなかったから……」
 口にすると何て他愛のないことだと我ながら呆れてしまう。言えば良かったのだ、お前と二人でいたくてこの部屋を選んだのだと。それを遠回しに成り行き任せにしようとした上に、一人で臍を曲げてマッシュを困らせた。
 今こそちゃんと伝えなければと、開いた口はマッシュに塞がれる。濃厚ではないものの、何度も角度を変えて摘むように口付けられると息が上がる。
 縋るようにマッシュの肩に指を這わせると、気付いたマッシュが今度は顎から首にキスを移動させてきた。皮膚の薄い部分を軽く吸われるだけで腰が浮く。
「あ……、マッ、シュ……」
 まだ伝えていない──マッシュの頭を掴んで軽く髪を引っ張って訴える。あまり下がって行かれると言えないままどうにかなってしまいそうだった。
 マッシュが身体を軽く起こして澄んだ青い目で見つめてくる。同じ色のはずなのに、マッシュの瞳の方が淡く透き通って見えるのは何故だろう。その暖かな眼差しに勇気付けられ、思い切ってエドガーが口を開いた瞬間、
「好きだよ、兄貴」
 至近距離にある唇が甘い声で先に愛を囁いて、出鼻を挫かれたエドガーが目と口を大きく開いて固まった。
 悪戯っぽく、しかし何処か照れ臭そうに笑うマッシュを赤い顔で睨んだエドガーは、狡いぞ、と負け惜しみを呟く。マッシュはほんの少し肩を竦めて申し訳なさそうな仕草を見せてから、エドガーの頭を抱き寄せて耳に触れるほど唇を寄せた。
「言えると思わなかった。好きだよ、ずっと好きだった……手に入らないって諦めてたから、こんなベッドで一緒に眠るなんて冗談じゃないって拒んじまった。ごめんな」
 マッシュの低い囁きは耳から入って直接胸を揺さぶるようで、つい顎が上がってしまいそうになるのを堪えながら、エドガーもようやく邪魔をされずに唇を開いた。
「お、れ、だって……」
 マッシュがしたように唇でマッシュの耳朶に触れ、ずっと暖めていた想いを注ぎ込む。
「お前が、好きだ……お前に、愛されたかった。今日、伝えるつもりで連れて来たんだ、本当は……」
「うん……」
「一人で腹を立てて、すまなかった」
「ううん……」
 軽く首を振ったマッシュの髪がふわふわとこめかみを擦る。
「今思えば、どう考えてもデートコースだよな。鈍くてごめん」
「いや、でも」
「兄貴はいつも綺麗だけど、今日はもっと綺麗だもんな。俺分かってたよ、服もピアスもリボンもおろし立てだって」
 エドガーの頬が熱を持つ。気付いてもらいたくて洒落込んだとは言え、いざ指摘されると気恥ずかしさが優って素直に嬉しいと告げられない。
 落ち着きなく目線を彷徨わせるエドガーを見下ろして、マッシュは照れ臭そうに微笑んだ。
「凄く良く似合ってるけど、……今は、脱がしてもいいかい?」
 遠慮がちに首を傾げて尋ねられ、その意味を理解したエドガーは、「ああ」と吐息混じりの声で頷いた。

 めかし込んだ衣装はするりと脱げる作りではなく、エドガーも手を貸しつつマッシュによって晒された素肌に肌寒さを感じる前に、その身体を跨いだマッシュがやや乱雑に自らのシャツのボタンを外し、覗いた胸筋の逞しさがエドガーの心臓ごと全身を竦ませた。
 普段から軽装のマッシュの胸板は見慣れているはずなのに、下から見上げるとこんなにも威圧感があって男らしい。この胸に抱かれることを想像するだけで目眩がしそうで、エドガーはごくりと喉を鳴らす。
 マッシュの太い腕がエドガーを捕らえて抱き竦めると、初めて素肌と素肌を合わせた暖かさで触れているところから溶けてしまいそうな快楽を感じた。どうにでもして欲しい、と夢中で広い背中に腕を這わせて指で背骨をなぞると、マッシュの肩が微かに揺れる。
「くすぐったい……」
 笑いながら囁いた唇がエドガーの唇を塞ぐ。これまでは合わせるだけだった口付けが、ぬるりと口内に入り込んで来たマッシュの舌によって一気に濃厚な空気を醸し出し始めた。
 このまま理性を絡め取られてしまいそうで、こんなに序盤で気を飛ばす訳にはいかずエドガーも必死で応戦する。深い口付けの合間に下肢の衣類も少しずつ解かれ、マッシュの大きな手で腰を弄られる初めての感触にエドガーは吐息を漏らした。
「兄貴、こっち……初めて?」
 マッシュはそのまま手を移動させ、尻の割れ目の始点部分の谷を指でそっと撫で摩る。むず痒い感覚に思わず口をついて出そうな色づいた声を飲み込んで、エドガーは「当たり前だ」と呟いた。
「良かった」
 安心したように短く息をついたマッシュは、エドガーの下半身を弄くっていた指を口元に持って来て、おもむろに舌を這わせた。唾液を念入りに絡める様を目の前で見せつけられ、ぶるりと震える肩を寄せるとマッシュが少し眉を下げて微笑んだ。
「俺も初めてだから、……うまく出来なかったらごめん」
 最後に中指の腹をエドガーの目を見つめながらひと舐めしたマッシュは、その指を下に下ろしていく。エドガーも覚悟を決めて膝を曲げた脚を静かに開いた。
「大丈夫だ……、大丈夫だから」
 うまく言葉が出て来ずにそれだけを繰り返したエドガーを優しく見下ろしたマッシュは、頷いて開かれた脚の付け根に濡らした指を添わせた。
 ぐ、と潜り込む中指の圧迫感にエドガーは下唇を噛む。思わず入ってしまう力で指を押し戻した感触があり、マッシュが少し躊躇ったのが気配で伝わった。
「マッシュ、いいからもっと強く」
「でも」
「大丈夫だと言っただろう、……早くひとつになりたい」
 懇願するように目を細めて頼むと、マッシュは少しだけ眉間に皺を寄せてからゆっくりと頷いた。
 そして当てていた指を、多少の抵抗は押し戻す強さで潜らせてきた。異物が押し入ってくる鈍痛がエドガーを怯ませるが、力を抜けと自分に言い聞かせて何度も荒い息を吐く。
 最初は一本だった指が二本になり、中を掻き回される時に描く円が大きくなる度にエドガーの声は抑え切れなくなっていて、気持ち良いとは断言できない奇妙な感覚が啜り泣きのような掠れた音を溢れさせる。手の甲を口に押し付けて声を殺すと、ぐちぐちと水混じりの淫らな音が耳を刺激してどちらにせよ羞恥で頭の中はぐちゃぐちゃだった。
 どのくらい慣らされていたのか、気づけば目尻に浮かんだ涙が今にも転げ落ちそうな頃、ようやく引き抜かれた指を名残惜し気にヒクついて見送った蕾はすっかり柔らかくなっていて、マッシュが目でエドガーに合図を送る。エドガーも細く長く息を吐き出してから頷き、脚を開いたまま目を閉じた。
 瞼が光を遮る中、指よりも質量のあるものがゆっくりと中に頭を潜らせてくる感触だけがエドガーの頭と身体を支配した。
「あ……!」
 あまりの圧迫感に思わずシーツを握り締める。開いた脚が怖気付いて閉じてしまいそうになるのを、マッシュの腕でこじ開けられた。その瞬間目を開いたエドガーは、自分の大きく開いた脚の付け根にマッシュの下半身が繋がっている様をはっきりと見て、あまりに卑猥な光景に口を手で覆ってしまった。
 恥ずかしさに目を逸らすが、ぐいぐいと押し入ってくるものが奥に進む度に泣き声のような喘ぎがプライドなどお構い無しに漏れる。これが自分の声か、と聴覚からも羞恥心を刺激され、この浅ましい姿をマッシュがどんな気持ちで見下ろしているのか不安でたまらなくなった。
「兄貴」
 優しい呼びかけに瞬きをし、恐る恐る顔を向けると、マッシュは額に薄っすら汗を浮かべながら穏やかに微笑んでいた。
「入ったよ」
「あ……」
「辛くないか?」
 身体の奥に杭を埋め込まれたような気分で全く辛くない訳ではなかったが、暖かいマッシュの声に充分な気遣いを感じてエドガーは首を縦に振る。それを見て更に目尻を下げたマッシュは、嬉しそうに囁いた。
「ひとつになってるよ」
 その声にぎゅっと胸が甘く疼いたエドガーは、頼りなく笑い返す。うまく言葉が見つからず、せめて想いに応えたくて捧げるようにマッシュに腕を伸ばした。腕が届くようにマッシュが身を屈めたため繋がっている部分が更に深くなる。嬌声を抑え切れずそのままエドガーはマッシュの首にしがみついた。
「あっ、あっ……」
 最初はゆっくりと、少しずつ速度を増すマッシュの腰の動きに揺さぶられて、奥を抉られる初めての圧覚にただエドガーは声を上げ続けた。
 打ち付けられる痛みは徐々に痺れてやめて欲しいのかもっと欲しいのか混乱し、訳が分からずに縋るマッシュの首や背中に何度も爪を立てた。その度に低い声が好きだよ、愛してると不安を打ち消す魔法の言葉を囁き、エドガーもまたマッシュに腕を噛り付かせて好きだ、愛してると喘ぎ混じりに応え続けた。
 身体の奥に熱い迸りを受けた後に四肢は完全に脱力し、中途半端に頭を擡げていた自身のものは達するまでは行かず、それでも胸は満足感で満ち溢れていた。
 同じく疲れ果ててエドガーに覆い被さったマッシュの息も酷く乱れ、改めて背に手を滑らせると汗でびっしょりと濡れている。上下に揺れる身体の重みが愛おしく、エドガーはマッシュの頭に頬を擦り寄せて目を閉じた。
 それが合図のように、ずるずると睡魔がエドガーの意識を引き込んで行った。





 翌朝身支度を整えたエドガーは、表情は涼やかながらも昨日までとは明らかに違う色気が漂っていた。髪を結ぶ仕草に思わず見惚れてぼんやりとしたマッシュを振り返り、不思議そうに微笑を見せるこの人を確かに腕に抱いたのだと、昨夜のことを思い起こしてマッシュの頬も胸も熱くなる。
 部屋を出る前に一度長いキスを交わして、人のいない廊下は指を絡ませて歩いた。俯きがちのエドガーの横顔が酷く嬉しそうで愛おしく、何度も隣を振り向いては気恥ずかしそうな兄と目が合って二人で笑った。

「すっかり迷惑をかけてしまったな」
 フィガロに戻るための船の甲板にて、チェックアウト時に見た支配人の引き攣った顔を思い浮かべながらエドガーが呟く。
 部屋代の三倍程度の金額をチップと称して置いては来たが、また是非当ホテルにお越しくださいと最後を締め括った支配人の挨拶には心がこもっていなかった。
「いきなり船出せっつって急がせてキャンセルだもんな」
「悪いことをしてしまった……これは来年は予約を取らせてもらえんな」
 苦笑するエドガーを見て、チラリと周囲を見渡したマッシュは乗客が近くにいないことを確認し、そっとエドガーの腰に腕を回す。
「もう、いいだろ。ジンクス、当たるんだろ? 他の人にも分けてあげないと、二人占めしたら可哀想だ」
 振り返ったエドガーが優雅に微笑み、そうだなと頷いて、マッシュに肩と頭を寄せた。
「じゃあ来年は何処でクリスマスを過ごそうか」
「兄貴と一緒なら何処でも……、いや、そうだな、折角クリスマスだから雪が見られるところもいいかな……」
 ジンクスに約束された未来に想いを馳せながら、潮風の寒さを物ともせずに寄り添う二人の表情は幸せに満ちていた。