果報者




 ああ、すっかり遅くなってしまった──

 念入りにタオルで吸い取ったとは言え、まだ湿り気の残る長い髪が前に進むたびにぴたぴたと背中を叩く。
 仲間たちが寝静まった飛空艇の廊下に、エドガーの小さな溜息が小さく響いた。
 夕方には戻る予定で探索に出たが、予想外の大型モンスターを相手に死闘を繰り広げる羽目になり、すっかり時間を取られてしまった。
 携帯食をかじりながら汗と泥に汚れた姿で飛空艇に帰り着いた時には日付が変わる直前で、探索メンバーの一人だったロックなどはそのまま寝ると言って真っ直ぐ部屋に向かったが、エドガーは何はさて置きシャワールームを目指した。
 この薄汚れた身体でベッドに入るのは躊躇われるし、何より部屋で待っているだろうマッシュにこんなボロボロの状態で会うのは気がひける。
(ひょっとしたらもう眠っているかもしれないな)
 愛用の懐中時計の針を読み、エドガーの歩調が速くなる。
 出立前は帰りを待っていると笑顔で送り出してくれたマッシュだったが、夕食を共にできないどころかここまで深夜の帰宅になるとは思っていなかっただろう。
 毎朝早くから自主訓練を欠かさない弟なのだから、遅くまで待っていないで寧ろ寝ていて欲しいと願いながら、それでも澄んだ青い目が迎えてくれる景色に若干の期待を込めて、エドガーはドアノブに手を掛けた。
 寝ていた時を考慮して、ノックはせずに静かに手前にドアを開くと、思いがけず中から灯りが漏れて来た。
 どきんと胸が音を立てる。なんだ、起きていたのか、眠っていて良かったのに──マッシュの顔を見たら溢れ出ただろう言葉は、室内でこちらを振り返った人物を認めて引っ込んでしまう。
 粗末な木製の椅子に腰掛けて、仏頂面をエドガーに向けたのはセッツァーだった。
 エドガーは状況が理解できず一瞬頭を真っ白に染めたが、セッツァーの隣、同じく椅子に腰を下ろして小さなサイドテーブルに突っ伏す大きな背中に気づいてハッとする。
「よお、遅いお帰りで」
 不機嫌そうに見えた表情を裏付けるかのような低い声だった。
 エドガーは未だ事態を飲み込めていない風で肩を竦め、下ろしたままだった髪を手早く束ねる。
「珍しいお客様だな。私の可愛い弟に何をしたんだ」
 ドアを閉め、二人の声にも微動だにしないマッシュの元へ足早に近寄るエドガーに対し、セッツァーは鼻で笑って忌々しげに眉を寄せた。
「人聞きが悪りぃな。何もしちゃいねえよ、そいつが一人で酔い潰れた」
「マッシュが? まさか」
 十年ぶりに再会してからマッシュと深く酒を酌み交わしたのは数度だが、弟が酒豪であることを知るには充分な回数だった。
 マッシュが潰れる酒量であるなら、セッツァーが涼しい顔をしているはずがない。あからさまに疑いの眼差しを向けたエドガーに舌打ちして、セッツァーはわざとらしく首や肩を回し始めた。
「俺ぁ話に付き合わされただけだ。お前の帰りが遅いってんでな。最初は舐める程度に嗜んでただけだったが、気が緩んだのかそいつを一本空けた辺りから、飲む量もお喋りも止まらなくなった」
 セッツァーが指差した瓶はそれなりに度数が強い酒だ。瓶、セッツァー、マッシュと順に視線を巡らせたエドガーは、それでも状況に納得できずに首を傾げる。
「お喋り?」
「ああ。それはそれは盛大に聞きたくもない惚気をたっぷり聞かされたぜ。こっちはたまったもんじゃねえ」
 揶揄どころか心底うんざりした目でじろりと睨まれ、それまでセッツァーに対して不信感を露わにしていたエドガーの表情が気まずげに渋くなる。
 セッツァーは仲間で唯一、エドガーとマッシュが恋人同士であることを知る人物だった。バレた、と言うのが正しい。言い逃れできない現場を見られ、仕方なく本当の関係を説明して口止めをしたのは少し前のことだ。
 二人の関係などどうだっていいと言うセッツァーの無関心な態度は、エドガーに若干の安心を与えていた。彼は無用の詮索をしたり周りに余計な吹聴をする男ではなかったからだ。
 それでも一抹の不安を拭えなかったエドガーに対し、マッシュがやけにあっけらかんと口にしたのはよく覚えている。
 セッツァーなら大丈夫だろ。──人当たりの良い弟の言葉には妙な説得力があり、マッシュがそう言うなら大丈夫かもしれないとエドガーが押し切られたほどだった。
 そのセッツァーが夜遅くにエドガーの私室にいる。しかもマッシュに誘われたと言って。誘ったマッシュはセッツァー曰く随分とお喋りで、珍しくすっかり酔い潰れて眠っている。
 エドガーは軽く鼻先を天井に向けた。煙の臭いはしない。ヘビースモーカーであるはずのセッツァーが、マッシュが泥酔するまで煙草一本吸わなかったとでも言うのだろうか。
「そいつが部屋では吸うなってよ。お前さんの髪に臭いがつくのが嫌なんだと」
 エドガーの考えを見透かしたかのようなセッツァーの言葉に、エドガーは気まずく耳を朱に染めた。
 あーあ、と欠伸とも溜息ともつかない声を漏らし、セッツァーが気怠げに立ち上がる。相変わらずピクリとも動かない隣のマッシュを見下ろして、何かを思い出したのかフッと唇の端を持ち上げた。
「しかしまあ……あんなによく喋る奴だとは思ってなかった。よっぽど誰かに話したかったみたいだな」
「話したかったって、一体何を」
 思わず食いついたエドガーに呆れた目を向けたセッツァーは、今度ははっきりと溜息混じりに答えた。
「お前の自慢話だよ。こっちは散々惚気を聞かされてうんざりしてんだ。俺ぁもう帰らせてもらうぜ」
 そう言ってマッシュの横を通り過ぎざまに、セッツァーはテーブルに伏しているために丸まっている大きな背中を軽く叩いた。
「じゃあな、『果報者』」
 エドガーが眉をピクリと揺らす。
「……『果報者』?」
 すでに扉に手を掛けていたセッツァーの背に問うと、顔だけで振り向いたセッツァーが顎先でマッシュを示した。
「そいつが何度も何度もしつこいくらい言ってたんだよ。『俺は果報者だ!』ってな。お前さんがどんだけ素晴らしい男か、そんなお前さんと一緒にいられることがどんだけ果報者か、そりゃもう締まりのねえ顔で俺にとっちゃどうでもいいことを飽きもせずに」
 恐らくはマッシュの身振り手振りを真似しながら心底嫌そうに語るセッツァーを前に、エドガーの目が僅かに大きく広がった。

 ──私は果報者だ──

 蘇る懐かしい口癖が頭の中に響いて来る。
 オヤスミ、と後ろ手に手を振ったセッツァーが部屋からいなくなっても、エドガーはしばらくその場に突っ立ったままで、ぼんやりと思い出の景色を手繰り寄せていた。





『その時に見た瞳の色の美しさは今でもはっきりと思い出すことができる。初めて運命というものを感じたよ……私は彼女に逢うために産まれてきたのだと』
『ちちうえ、またおんなじこといってる』
『もうなんかいもきいたよね』
 同じ顔の少年が二人、顔を寄せてクスクスと忍び笑いをしているのを尻目に、琥珀色の瞳を夢見がちに輝かせた壮年の王はオーバーに両手を広げ、まるで歌でも歌うかのように亡き母への愛を語った。
『淑やかで控え目で、しかし芯の強い素晴らしい女性だった。一声発せば鈴を転がすよう。物静かな人だったが、笑い声はまた愛らしくてな……お前たちのように』
 顔を綻ばせる二人の少年を振り返った王は、優しく腰を屈めて右と左の手でそれぞれの少年の肩を抱く。穏やかに細めた眼差しに覗き込まれ、二人の少年は照れ臭そうに丸い頬を染めた。
『私は果報者だ』
 胸に沁み込むような声色で感慨深げに呟き、王は少年たちの青い瞳を交互に見つめる。
『美しく心優しい妻と同じ瞳を持つこんなに愛らしい息子が二人もいる。私ほどの果報者は世界中でもそうはいまいよ』
 少年二人は丸きりそっくりな笑顔を見せた。
 しかし一人の少年は笑みのままでやや寂しげに眉を下げる。
『ははうえもここにいっしょにいたら、もっとよかったのにね』
 父は最近とみに目立つようになった皺を口の端に刻み、愛に溢れた微笑みを浮かべた。
『それは勿論そうさ』
 軽い口調で頷いた父は、少年たちの肩に置いていた手を小さな背に回し、二人の顔を胸に引き寄せた。
『だが、お前たちの母上はいつも空から見守ってくれている。この愛すべき息子たちが悪しきものに道を阻まれることのないように……真っ直ぐに進むことが出来るよう、何時も、何時でもお前たちを護ってくれているよ』
『ちちうえは?』
『ちちうえは、ぼくたちがまもるね!』
 二人の柔らかな金の頭髪を撫でていた父の手が止まる。そして一瞬声を詰まらせて、強く抱き締めた二人を勢い良く抱え上げた。
『……私は果報者だ』
 少年たちは両側から感銘に酔う父の顔を見た。
『本当に』
 太く逞しい父の腕に支えられ、天にいる母に豊かな笑い声が届くようにと、高く掲げられた幼い兄弟が風に髪を踊らせる。

 惜しげも無く繰り返される父から母への愛の言葉。聞き飽きたと揶揄いながら、父が愛を謳うひと時を誰より楽しみにしていた。
 果報者だと父が目を細める度に、父のように誰かをひたむきに愛することができたらどんなにか幸せだろうと、未来に思いを馳せていた。





 エドガーは足音を忍ばせ、鼾混じりの寝息を立てているマッシュに近づき、ゆったりと上下する大きな背中にそっと手のひらを滑らせた。
「……お前の背中。親父に、似て来たな」
 ボソリと呟けば、組んだ腕に頬を潰したマッシュの唇がむにゃりと動く。
 あどけない寝顔に目を細めたエドガーは、先程までセッツァーが陣取っていた椅子の背を引いてそっと腰を下ろした。
「そういえば、ばあやが成長したお前を見て驚いていたな。親父にそっくりになったと」
 エドガーは軽く曲げた人差し指の背で、マッシュの鼻筋を緩やかに撫でた。擽ったそうに眉間に皺が寄るのを見て口元を綻ばせて、マッシュの身体がほとんどを占領するテーブルの端に肩腕を敷き、頬を乗せたエドガーはマッシュと目線を合わせる。
「お前、話し相手を探していたのか」
 ピクピクと小刻みに震えるマッシュの瞼と、縁に揃った金色の長い睫毛を見つめながら、エドガーはぼんやりと過去の記憶に想いを馳せる。
 何度も聞いたよと笑っても、父の果報自慢は止まらなかった。セッツァーには気の毒だが、この先マッシュに付き合わされる夜が度々来るのかもしれない。
 父と同じ身振りで謳うマッシュの姿が容易に想像できて、エドガーは小さな笑い声を漏らす。
 そして首を軽く伸ばし、眠るマッシュの鼻先に触れるだけのキスをした。
「……俺も果報者だ」
 十年の時を経て愛すべき人と再び巡り逢えた。
 気の置けない存在がいたら、この幸せそうに眠る可愛い男がどれだけ魅力的か、夜通し語り尽くしても飽きることはないだろう。
 今度は俺がセッツァーに付き合ってもらうかな──心底嫌そうに顔を顰める仲間の顔を思い浮かべ、一人忍び笑いで肩を揺らしたエドガーは、椅子ごと身体をマッシュに擦り寄せてしばし温もりに浸る。
 マッシュがどんな言葉をセッツァーに聞かせたのか、果たして目が覚めた後の弟は覚えているだろうか? 頬を緩めたエドガーは、大きな身体を揺り起こす前に、同じ夢の世界に心を委ねた。