潜航中にある箇所で動きが引っかかる── 運転士の訴えを元に半信半疑でフィガロ城から繋がる地下道調査に乗り出したエドガーを始めとするメンバーは、全員呆気にとられて目の前に広がる光景を眺めていた。 荒れた庭に剥がれた石畳、崩れた城壁を備える朽ちた古代の城がそこに聳えていた。人の気配はなく、怪しい妖気のような不穏な空気は漂うものの、引き返さねばと背筋が凍るほどのものではない。 頭の中に直接流れ込んできた過去の映像が、ここが千年前の魔大戦で滅びた都市であることを教えてくれた。調べる価値があるかもしれないと、エドガーを司令塔に仲間たちは城の捜索を始めた。 ふと、崩れた塔の影に何か靄のような霞んだ景色を見た気がして、マッシュが顔を上げる。足を止めたマッシュに気づき、前を歩いていたエドガーが振り返った。 「どうした、マッシュ?」 「いや、何か……。ちょっと見てくるから先に行っててくれ」 「……気をつけろよ」 気をつけろ、と言うものの然程心配した様子を見せず、どちらかというと呆れた様子でマッシュに答えたエドガーは、他の仲間たちと城の入り口を目指すべく足を進めていく。 彼らから離れ、今し方見た靄の気配を追って塔の裏側へ回ったマッシュは、そこに渦を巻くように歪んだ空気がそこら一帯をぼんやりと滲ませている光景に息を呑む。 なんだこれは、と思った瞬間、視界が真っ白になり瞬きをしても色に変化がなくなった。何かの魔力か──咄嗟に身構えて辺りの様子を伺うが、白い世界に他者の気配はない。 無駄だと理解しつつ目を擦って何度か瞬きをすると、全くの白だった景色に少しずつ色がつき始めた。ぱち、ぱち、と瞬きに合わせて世界がカラーに変わり、完全に戻ったと感じる頃にマッシュを取り巻いていたそこは見知らぬ森の中だった。 事態を飲み込めないマッシュは、呆然と周りを見渡す。古代の城がない。先ほどまで足元にあった所々土が露出していた石畳は、短い丈の草が生い茂る山道になっている。顔を上げれば木々が葉を茂らせ、鳥の声まで聴こえてくる。地下に埋まった古代城とはまるでかけ離れた場所で、マッシュは構えていた拳を下ろし弱り切ってしまった。 城が何処かへ行ったのか、自分がおかしなところへ来てしまったのか。どちらにせよ仲間たちと、エドガーとはぐれてしまったことに違いはない。単独行動を悔やみ、エドガーからの「気をつけろ」の言葉を思い出して頭を掻く。 さて、どうするか。 突っ立っていても仕方がないと、マッシュはひとまず歩き始めた。ここが何処なのか、見当をつけるための目印を探さねばならない。そして元の場所に戻るための手がかりを見つけなければと草を掻き分けた時、少し離れた位置で同じようにがさがさと草木を進む音が聞こえた。 さっと草むらに身を隠したマッシュは、葉と葉の隙間から様子を伺う。距離としては数メートル、草が途切れて少し開けた空間に人影が現れた。 身分ある貴族のような出で立ちで肩についた葉を払い落とし、不安げに細めた目で用心深く辺りを見渡す青年──長い金髪に白い肌、すらりと細身の体躯に若干の幼さが残る凛々しい面立ちは、マッシュの脳裏に深く刷り込まれている懐かしい姿そのもので、思わず立ち上がろうとしたその時。 青年の背後で何かが光った。マッシュが目を凝らす。草陰に兵士が潜んでいる──青年に向けてボウガンを構えているその意図に気づき、思わずマッシュは声を上げた。 「危ねえっ……!」 その声に弾かれるように顔を上げた青年が、ハッとして背後を振り返る。同時に撃ち込まれたボウガンの矢が青年の左肩を掠った。裂かれた衣服の隙間から小さく噴き出した鮮血を目にしたマッシュは、我を忘れて飛び出した。 突然現れた大男に青年も兵士も驚きを隠せず、動きが完全に止まっている隙に、マッシュは迷わず兵士の腹部に鋭い蹴りを食らわせてその身を吹き飛ばした。彼が手にしていたボウガンが草陰から転がり出し、青年がその様子に愕然と目を見開く。 マッシュも肩から流血する青年を振り返った。二人の瞳が正面からかち合う。金の髪を束ねるリボンにフィガロブルーのマントは紛れもなく王の装い。マッシュは目を疑う。しかし違えようもない、目の前にいるのは確かに愛する兄のエドガーで、しかし今知るエドガーより明らかに幼い。 しっかりとマッシュの記憶に刻まれたこの姿は、十年前に城を出る前の兄と全く同じものだった。 何が起こっているのか混乱するマッシュの耳に、複数の足音が飛び込んで来た。 ……は、どこだ…… 今、悲鳴が…… 改めてエドガーを見下ろし、足音と声の標的を悟ったマッシュは、エドガーの肩の傷を苦々しく見つめて自分に警戒の目を向けるエドガーの腕を掴む。エドガーは咄嗟に振り払おうと暴れた。 「何者だっ……! 離せ!」 「待ってくれ、俺は怪しいやつじゃない! 急いでここから離れないと、」 「無礼者、私を誰だと思って……!」 「……ええい、もう!」 埒があかないとエドガーの体をひょいと横抱きに抱えたマッシュは、手足を振り回して抗議するエドガーの抵抗を無視して走り出す。 追っ手の数は二桁には満たないようだが、闘いとなると手負いのエドガーを守り切れる保証がない。ひとまずは安全な場所へと、髪を掴まれ頭を蹴り上げられながらも、マッシュはしっかりとエドガーを抱えて走り抜いた。 どのくらい駆けていただろうか、こめかみを汗が滑り落ちる程度には走り、人目につきにくい岩陰でようやく足を止めたマッシュはエドガーの体をそっと下ろした。 その瞬間、ばちんと頬に痛みを感じて思わず硬く瞑った目を見開くと、唇を引き締めてマッシュを鋭く睨みつけるエドガーが手のひらを立てていた。見事な平手打ちを食らったマッシュは頬を押さえながら、年若いエドガーに漂うまだ未熟な威厳に苦笑いする。 「私をどうする気だ」 短く放たれた声がよく知るエドガーのものより僅かに高い。体つきも今のエドガーに比べて華奢で、背も十センチは低いだろうか。改めて過去のエドガーを見ると、自分と別れてからの十年で兄もまた前線で戦えるほどに肉体を鍛えていたことを思い知らされ、忙しい日々でそれがどれだけ努力を必要とすることかを今更ながら突きつけられた気がした。 マッシュはエドガーの肩の傷を目視で確認する。血は止まっているようだが傷口をそのまま晒すのはよくないと、二重に締めていた腰紐の一本を解いてエドガーに向かうと、エドガーは体を竦ませて後退る。 「傷口を縛るだけだ」 警戒を解こうと紐を持った手を高く掲げて何も仕込んでいないことを証明するが、エドガーの視線は緩まない。 「貴殿が何者であるか分からない以上好きにさせる訳にはいかない」 マッシュがやれやれと溜息をつく。エドガーは自分が弟であると気づいてはいないようだし、名乗ったところで信じてはもらえまい。彼の中にいる弟は、兄よりも小さく脆弱で目の前の男とはかけ離れているはずだった。 しかしこのまま若いエドガーを放ってはおけない。何の因果で若かりし頃のエドガーと対峙することになったのかはさっぱり分からないが、彼がエドガーである以上マッシュはどんなことをしても兄を守らねばならないと、怖がらせないよう穏やかな目でピリピリと殺気立つエドガーを見つめた。 「……身分は明かせないが、俺は貴方の敵じゃない。貴方が誰かは知ってる。……フィガロの国王エドガー、俺は貴方を守りたいだけだ。聡い貴方なら俺が嘘を言っているかどうか分かるはずだ」 エドガーの瞳に困惑の色が浮かぶ。マッシュは戸惑う若い王を刺激しないよう、飽くまで淡々と続けた。 「それでも俺を敵と見做すなら、その脚の短剣で刺しても構わない」 エドガーがハッとして自分の右腿に触れるが、真っ直ぐに向けられたマッシュの視線をしばし逸らさずに見返して、やがて手を下ろして肩の力を抜いたようだった。 「……おかしな動きをしたら刺す」 「信じてくれたならありがたい」 「完全に信用した訳じゃない。……ただ、貴殿は……俺のよく知る男に似ている」 その男とは恐らく自分のことだろうとマッシュは微笑み、改めて腰紐を手にエドガーに近寄る。エドガーの不安げな表情が変わることはなかったが、マッシュを拒絶しようとはしなかった。 縛られた左肩の傷を押さえながら岩陰に腰を下ろすエドガーの横に、人一人分の隙間を空けたマッシュも座り込んでいた。 さて、どうするか。あのおかしな靄の影響でこんなことになっているのは予想がつくが、ここから元の世界に帰るにはどうしたら良いのだろうか。 あれだけ走って森を抜け切らないのだから、ここは元の古代城とは全く別の場所なのだろう。少なくともあの地下空間にこんな規模の森があるはずはない。 では、ここは一体どこなのか。マッシュは横にいるエドガーをちらりと見て、それから天を仰いだ。十年ほど前の兄の姿がここにあるということは、過去の世界ということになる。もしやカイエンのように夢の世界にでも入り込んだのだろうか──うんうん唸りながら考え込むマッシュを、エドガーは不審げに横目で伺っていた。 何か言いたそうなエドガーに気づき、マッシュが軽く首を傾げてみせる。エドガーは躊躇いながら、少し視線を泳がせてぽつりと呟くように問いかけた。 「貴殿は……何者だ。フィガロの兵士を一撃で倒すとは」 質問の内容よりも、エドガーが「フィガロの兵士」と口にしたことがマッシュの胸に引っかかった。ボウガンを構えていたことからもしやと推測はしていたが、何故フィガロの兵が自国の王を狙うのか。 マッシュが声を上げなければ、恐らくは背中から胸を貫かれていたはずだった。あの一発がたとえ致命傷にならずとも、追っ手の数は一人二人ではなかった。確実に狙ってきていたのだ……エドガーの命を。 マッシュは疑問を一旦胸にしまい、エドガーに微笑みかける。困ったような顔のエドガーの頬がほんのり赤らんだのが分かった。 「……腕にはそれなりに覚えがあってね。大事な人を守るために修行したからな」 「そう、か……。では、何故私を助けた」 「その前に聞きたい。ここは何処だ? フィガロの国王が供もつけずに、ほとんど丸腰で歩いているなんて……フィガロの周辺にこんなところはないはずだ」 マッシュの言葉にエドガーが眉を顰める。 「ここは何処だ、とは? 自分が何処にいるのか分からないというのか」 「うっかり迷い込んでね。帰り道も分からない。せめて何処なのか把握しておきたい」 半信半疑を絵にしたような目でマッシュを一瞥したエドガーは、軽く溜息をついて独り言のように淡々と告げた。 「ここは、コーリンゲン近くのフィガロ王家所有の森だ。ヴァルチャー狩りに来ていたが供とはぐれて森の奥に迷い込んだ」 マッシュは考え込むように斜め上に眼球を動かし、軽く目を細める。ヴァルチャー狩りは一度だけ幼少時に父に付いて参加したことがあるが、王家の伝統行事でありながら父がそれ以上の存続を許可しなかったため開催されたのはあれきりだった。不要な殺生を好まない父の考えで廃止された行事が、何故エドガーの代で復活してしまったのか。 「ヴァルチャー狩りは廃止になったはずだろう」 「詳しいな。……一部で復活を希望する声が上がってね」 「それで逆らいきれずに謀られて殺されかけたのか」 エドガーがはっきりとマッシュを振り返った。信じられないという顔で目を見開き、薄く開いた唇が微かに震えている。 「……何者だ、本当に……」 「……ちょっとフィガロの内情には詳しくてね」 マッシュが苦々しく唇を噛む。 城を出る前は気づきもしなかったことだが、フィガロの国内には大きな派閥がふたつに分かれて水面下で争っていた。そのうち片方の勢力がエドガーを、もう片方がマッシュを擁して互いの権利を主張し合っていたと知ったのは国を離れたずっと後で、王として残ったエドガーがその派閥の中で板挟みとなり相当に苦労しただろうことは予想していたのだが。 「……王の代わりなど、立てようと思えばいくらでも立てられる。まだ何の実績もない私がいなくなっても国は動く」 「いや、フィガロは貴方じゃないとダメだ」 エドガーが長い睫毛を揺らしながら何度も瞬きをしてマッシュを見る。 ぽかんと開いた唇が何か言いたげに動こうとした時、遠くから微かな声が聞こえてきたのを即座に察知したマッシュは、エドガーの体をぐいっと引き寄せて胸にすっぽり収め、岩陰に身を低くした。 腕の中でエドガーが暴れかけたので、顔を近づけて立てた人差し指を口に当てる。至近距離でその仕草を見たエドガーは一瞬顔を赤らめたが、ガサガサと草を掻き分ける音が近くで響いたのを聞きつけたのか、その表情に緊張が走った。 「いたか?」 「いや、見当たらない……大臣と合流される前に探し出さねば」 「向こうも確認しよう、逃したらこっちの首が飛ぶぞ」 少なくとも三人の声がすぐ後ろでボソボソと話し合い、また足音と草を分ける音が遠ざかっていく。 安堵の息をつきつつ、マッシュはエドガーを追う男たちの口から大臣という単語が出たことに希望を見た。何とかしてエドガーを大臣のところまで連れて行くことができれば、ひとまずは安全に城に帰せる。 この世界が自分にとってどのような位置に属するのかは分からないが、そこにエドガーがいるならやることはひとつだけ──マッシュは腕の中で微かに震えるエドガーの肩に優しく手を置き、安心させるように穏やかに笑ってみせた。 うまく体に力が入らない様子のエドガーが立ち上がるのを助け、辺りを見渡して追っ手が近くにいないことを確認したマッシュは、エドガーに向かって手を伸ばす。 「大臣を探そう。合流できればあいつらの計画は失敗するだろう?」 エドガーはマッシュの手を取るのを躊躇い、困惑の瞳を揺らして真っ直ぐに自分を見つめる男を見上げた。 「……貴方は、誰だ……? 何故、私を助けてくれる……?」 その表情に僅かな怯えも含まれていることを察したマッシュは、地面に片膝をつきエドガーの手を掬い上げ、驚きに強張る若い王を敬うように見上げた。 「……それが俺の役目だ。俺は貴方を守るために産まれた……この命を賭してお護りします。エドガー・フィガロ国王陛下」 エドガーが小さく息を呑む。 そして戸惑いの眼差しに王に相応しい光を宿し、マッシュの手を握り返した。 手を繋いで森を走る二人の側面から何かが風を切って飛んでくる。咄嗟にエドガーの腕を引いて身を盾にしたマッシュの二の腕を矢が掠り、エドガーが顔を上げて目を見開いた。 マッシュは傷に動じることなく、逞しい腕でエドガーを庇いながら辺りに気を巡らせる。草むらからボウガンを手に飛び出してきた兵士は二人──それ以上の人数は来ていないと悟り、エドガーの肩を掴んで胸から背中へ追いやると、マッシュは兵と対峙して拳を握り指を鳴らした。 「蹴散らした方が早いな。やってやる」 「貴様何者だ!」 「答える義務はねえよ」 一人の兵がボウガンを構える前に地を蹴ったマッシュは、その腕ごとボウガンを蹴り上げて鳩尾に拳を叩き込んだ。 空気が漏れたような悲鳴と共に口から吐瀉物を吐き出した兵士がそのままうつ伏せに沈み、残る兵もひぃっと情けない声を上げ震える手でボウガンを構えるが、マッシュは即座に肘で叩き落とした。反動で尻餅をついた兵の前に仁王立ちし、尻で後退りする兵の胸倉を掴み上げてその額に強烈な頭突きを食らわせる。兵はぐるりと白目を剥き、口の端から泡を垂らしてだらりと動かなくなった。 先程倒れた兵の隣にもう一人の兵を放り投げ、マッシュは埃を払うようにパンパンと手を叩く。少し離れた場所で一部始終を見ていたエドガーが、ぽかんと口を半開きにしていた。それに気づいたマッシュがにこりと笑いかける。 「怪我なかったか」 「あ、ああ……、凄いな……鬼神のようだ」 「まだまだ修業中だけどな」 マッシュがエドガーの傍まで足を進めようとした時、その正面からマッシュの背後を見たエドガーがハッと何かに気づいたように瞳孔を広げた。そして素早く右腿に装着していた短剣を抜き、マッシュに向かって水平に投げる──短剣はマッシュの耳元で風切音を響かせ、その後ろでボウガンを構えていた兵士の眉間に突き刺さった。 振り返ったマッシュの目に、ゆっくり背中から倒れていく兵士の姿が映る。ピュウと口笛を吹き、豪快に笑ってエドガーを見た。 「さすが。やるな」 「運が良かった」 エドガーもホッとしたように控えめな笑みを見せる。 「助けてくれたってことは、信用されてると思っていいのか?」 エドガーの目の前まで歩を進めたマッシュが優しく見下ろすと、エドガーは青い目でじっとマッシュを見定め、軽く溜息をついた。 「……まだ測りかねる。だが」 「だが?」 「……私は人を見る目には自信がある」 不敵に笑うエドガーを見て、マッシュもにやりと口角を上げた。 「充分だ」 繋いだ手はそのまま、小一時間ほど森を彷徨ったところで、エドガーは辿り着いた場所の景色に見覚えがあると口にした。 「大臣と別れた場所だ」 「そうか……ここで待ってれば会えるかもしれないな」 マッシュはきょろきょろと周りを確認し、人目につきにくい浅い横穴を見つけてエドガーを誘導する。 入り口側にマッシュがどっかり腰を下ろすと、エドガーがそのすぐ隣にちょこんと膝を立てて座った。その近い距離にマッシュは思わず顔を綻ばせる。 「日暮れも近い。大臣だって探してるはずだ……きっと会えるさ」 「……貴方は、何でも知っているようだな」 「そんなことはない。でも、あの窮屈な城で王がどれだけ民のために尽くしているかは知ってる」 エドガーは顔を上げ、小さく首を横に振った。 「……私は無力だ。私の意志で国に為せることはほとんどない。爺やたちにいいように操られているお飾りの王さ」 「それでも意志を捨てなかった。じっと耐えて静かに力をつけてから、貴方は自分の力でフィガロを動かすようになる」 「……まるで見てきたように語るのだな」 ほんの少し笑ったエドガーにようやく少年らしさが垣間見えて、マッシュもまた微笑む。 自分よりずっと小さな兄の姿。十七で城を出た時、エドガーは当時のマッシュより上背があり体つきもしっかりしていて随分と大人に見えたものだが、今隣で膝を抱えている青年はやはり年相応の幼さを伴っていていじらしささえ感じる。 この小さな体で国を背負い、他国と渡り合うために神経をすり減らしてきた。それなのに彼はその苦労を人には見せないで、いつも大らかに笑い、新しいことに挑戦し、前を見て未来を語る。 エドガーが今のエドガーたり得るまでの十年、兄は一人で王としての自分を確立するためにもがき苦しんできたのだ。 マッシュを見上げていたエドガーが、少しだけ不安そうに眉を下げた。そこで自分の眉間に皺が寄っていたことに気づいたマッシュが、慌てて笑ってみせる。 「……やっぱり似ている」 エドガーがぽつりと呟く。マッシュはごまかすように微笑んだまま首を傾げた。 「私の、一番大事な……。貴方がそうであるはずがないのに、その、目……」 そっと伸ばされたエドガーの指先がマッシュの目元に触れ、愛おしむように撫でられる。誰かを懐かしむエドガーの眼差しに思わずどきんと胸が鳴り、マッシュは慌てて目を逸らした。 「よ、世の中には似てるやつもいるさ」 マッシュが軽い調子で空気を変えようと努めるが、エドガーは淋しそうに目線を落として自嘲気味に口角を上げた。 「そう、だな。貴方はあいつではない……。あの小さなあいつでは……、一人きりで行かせてしまった、あいつでは……」 目を見開いたマッシュが思わず振り向く。エドガーは目を伏せ、まるで泣いているように睫毛を震わせていた。 「……あいつは私を恨んでいるだろう」 エドガーが独り言のように零した言葉を捨て置けず、咄嗟にマッシュは首を横に振る。 「そんなことはない!」 マッシュの剣幕にエドガーが驚いたように目を大きくするが、すぐに哀しげに細められてまた切なく笑った。 「誰のことかも分からないだろう?」 マッシュは頭を掻き、もどかしい思いを伝えることができずに困った顔で肩を竦めた。それを肯定と受け取ったのか、エドガーは歪んだ唇で小さく笑う。 「寒空の下、たった一人で出て行った……行かせることしかできなかった……」 「……」 「大切な存在を守れなかった。今の私の立場はその罰を受けているのかもしれない」 我慢しきれなくなり、マッシュはエドガーの腕を優しく掴む。そして黙って首を横に振った。 エドガーはじっとマッシュの目を見つめ、眩しいものを見るように瞼を少しだけ下ろす。 「……どうも、貴方には……余計なことまで話してしまうな……」 「……話して楽になるのなら、いくらでも聞くよ。でも、自分を卑下するのはやめてくれ」 「どうして、そんなに優しくしてくれるんだ……? どうして、貴方は……」 ふいに言葉を途切らせたエドガーの唇が何かを模り、夢を見るような目でマッシュを見上げた。その薄っすら潤んだ青い瞳と、幼さの残る顔立ちに目眩のような心の揺れを感じて、マッシュは無意識に身を乗り出す。 近づけた顔と顔の間で唇に吐息がかかった時、確かにエドガーが自ら瞼を下ろした。そのあどけない唇をそっと摘むように口付けて、マッシュは思わずエドガーの体を抱き寄せる。 唇が離れて、ゆっくりと目を開いたエドガーの表情は陶酔に惚けていた。対してマッシュははたと冷静になり、とんでもないことをしてしまったと背中に冷や汗をかく。 あまりのいじらしさについ口付けてしまった。エドガーと思いが通じ合ったのは十年を経た再会後であるため、この頃まだ自分たちの間には何もなかったというのに。 つい先ほどまでマッシュを警戒していたはずのエドガーが、随分と心を許してくれたのか自ら身を寄せてくる。抱き締めてしまいそうになる腕を心の中で叱咤した。まだ即位間も無いエドガーにこれ以上手出しをしてはいけない──きつく煩悩を戒めた時、ふと視界の端が僅かにぼやけたように見えてハッと顔を向ける。 横穴を出たすぐ傍の草むらの向こう、空気が霞んで渦を描いているように見える。あれは、と目を瞠って確かめた──間違いなくこの世界に紛れ込んだ時に見た靄と同じだった。 あそこに行けば帰れるかもしれない。そう直感して身を乗り出しかけた時、やや遠くから呼んでいると思われる声が響いてきた。 ──ガーさま……エドガーさま…… マッシュとエドガーが顔を見合わせた。大臣の声と確信したマッシュは胸を撫で下ろし、エドガーににっこりと笑ってみせた。 「お迎えだ。……良かったな」 ところがエドガーは顔を曇らせ、マッシュの胸に置いていた手に力を込める。 「あな、たは……? この後、どこに」 「俺は……帰るよ。帰る場所があるんだ」 「いや、だ」 マッシュの服を握り締めたエドガーがはっきりと表情を歪ませた。その悲しみの熱を隠さずに晒け出したエドガーの、初めての本音を見たマッシュは驚きに言葉を失う。 「行か、ないで。私を護ると……命を賭すと言ったじゃないか! 置いて、行かないでくれ……」 胸に縋る細い手を見下ろし、マッシュは苦しげに眉を寄せた。攫ってしまいたい──震える肩を抱き竦めてやりたい衝動にかられるが、脳裏に浮かぶ兄の姿は紛れもなく十年時を経た今のエドガーで。 マッシュはそっとエドガーの怪我をしていない肩を掴み、優しく距離を空けた。そして今にも溢れそうな涙を湛えた瞳を見つめ、力強く微笑む。 「……フィガロには貴方が必要だ。辛いことの方が多いだろう。まだしばらくは傍で護ることができないけれど……大人になったら必ずまた逢える。その時こそ絶対に貴方を護る。二度と離れない」 「大人、に……?」 「ああ。約束する」 エドガーの額に誓いのキスを落とし、マッシュは手を離して立ち上がった。 まだ哀しみの残るエドガーの目を見てもう一度笑い、未練を残さないよう踵を返した。 背中にかかる声が聞こえないよう、全力で走って靄の中へ飛び込んで──また視界が真っ白に染まった。 ──シュ……マッシュ…… 頬に痛みを感じて目を開けると、心配そうに自分を覗き込んでいるエドガーの顔が飛び込んできた。 手のひらを立てたエドガーが打った頬に手を当て、先程も同じところを打たれたようなと記憶を巡らし、マッシュはがばっと起き上がる。 見渡せば朽ちた外壁の古代城。尻に敷いている地面はボロボロの石畳。何より目の前にいるエドガーが間違いなく自分と同じ二十七歳の顔で、元の世界に戻ってきたことを確信したマッシュは跳び上がった。 「おい、頭でも打ったのか? しばらくしても来ないから様子を見にきたら、こんなところでひっくり返っていて……一体何があった」 エドガーの問いに肩を竦めたマッシュは、どう答えたものかと迷いながら、おどけたように言葉を返した。 「……長い、夢を見てたみたいだ。懐かしい人に逢えたよ」 「なんだ、呑気に寝てたのか? 心配かけやがって」 「ごめん」 ああ、間違いなく今の自分が愛するエドガーがここにいる──マッシュは大人になったエドガーに淋しげな目をした若かりし頃のエドガーの面影を重ね、切なさを感じて微笑んだ。 *** 解いた髪を背中に侍らせ、まだ少し汗ばんだ体をマッシュに凭れさせて、その肩に頭を乗せるエドガーを受け止めたマッシュは、美しい金の髪を自分の手で束ねるように撫でた。 露わになった左肩を何気なく見たマッシュは、そこに残る傷痕に気づいて目を瞠る。 「……兄貴、こんなところに傷痕、あったか……?」 マッシュの言葉にエドガーが気だるそうに自分の肩に目をやり、ああ、と何が思い出したような顔をした。 「これは……矢傷だな。即位したての頃の……」 「矢、傷?」 マッシュの胸がぎゅっと音を立てる。 エドガーはぼんやりとした目で過去を探っているのか、マッシュに頭を預けて天井を眺めた。 「ああ……、あの頃は物騒で……俺もまだ浅くてな……。何とか難を逃れたんだが。……そういえば、あの時……」 ふと、エドガーが眉を寄せて考え込む。それからハッとして、マッシュに預けていた頭を起こして振り向いた。 エドガーがじっとマッシュを見定める。マッシュは喉を鳴らしてしまいそうになるのをぐっと堪え、不思議そうな顔をしてみせた。 やがてエドガーの眉が少し下がり、口元が「まさか、な」と小さく動いて、またいつものエドガーの悪戯っぽい目に戻り、 「まあ、いろいろあったのさ」 そう締めて再びマッシュに体を寄せてきた。 マッシュはエドガーを抱き留めながら、今度こそこの人を離すまいと艶やかな髪に唇を寄せた。 |