回想




 額の上にしっとりとした冷たい感触が降りて来て、薄っすら目を開けようとする。上の睫毛と下の睫毛が貼りついてしまったかのようになかなか開かない瞼の狭い視界で、大きな手が近づいて来るのが分かった。
 頭に触れた手が優しく髪を撫でる。瞼を震わせていたのが分かったのだろうか。何度も何度も撫でてくれる手のひらが心地よくて、それが離れて行こうとした時思わずマッシュ、と掠れた声が漏れた。
 カサカサに乾いた唇からはうまく音が出ない。ほとんど吐息のその呼びかけに気づいたのだろう、すぐそばの気配が椅子を動かして更に近づいてくれたのが分かる。
 もう一度マッシュ、と呼んだ。すると力の抜けていた腕がひょいと取られ、手を包み込むように握られた。
「ここにいるよ、兄貴」
 はっきりした優しい声が耳に届いて安堵する。
 無理に開こうとしていた瞼から力を抜き、視界はまた暗転する。
 エドガーは浅くて速い呼吸の合間に何か言葉を続けようと努めたが、締め付けられるように痛む頭がぼんやりして声がうまく出ない。全身は気怠く起き上がる気力さえ湧かず、たとえ体を起こしたところでこの熱ではまともに歩けやしないだろう。
 何年振りかの高熱を出し、ベッドに強制連行されて丸一日。仲間たちが戦っている中こうして寝ているのが申し訳ないが、久しぶりに崩した体調は気合で治すようなレベルのものではなく、こうして誰かがつきっきりで看病しなければならないものだったのだからどうしようもない。
 もちろんそばにいるのは弟のマッシュで、時折仲間たちが様子を見に来てくれているようだが、ほとんど片時も離れずについていてくれるのはマッシュだけだった。
 握られていた手が毛布の中に戻される。額から湿ったものが取り上げられ、ざぶざぶと聞こえた水音の後、またひんやりと生まれ変わった濡れタオルが乗せられた。閉じた瞼にも少し触れて、熱で痛む目を心地よく冷やしてくれる。
 何か言葉を、と思うのだが、口から漏れるのは熱い息とマッシュの名前ばかり。つい意味もなくマッシュ、と呼びかけては、ここだよ、ここにいるよと返事をもらってほっとする。
 ──ああ、こんな気持ちだったのか。エドガーは苦笑いを浮かべて夢という記憶の沼に意識を潜り込ませる。
 フィガロの城、まだ王子と呼ばれていた頃。あれはいつの季節だったか……



 *



「マッシュはまだ眠っている?」
 もう何度目か分からない焦れた確認に、その都度イエスの返答を寄越されエドガーは肩を落とす。
 父と兵たちは準備を終え、後はエドガーが隊列につくだけという状況は理解しているのだが、せめて一言でもマッシュに声をかけてから出立したかった。
 昨夜から高熱を出し寝込んでしまった弟は今回の視察の隊には当然加われず、移ってはいけないと遠ざけられてエドガーはまともにマッシュと話すことができなかったのだ。──サウスフィガロへの視察、二人揃って行くのをマッシュは楽しみにしていたのに──エドガーは唇を噛み、後ろ髪引かれながらも父王に付いて城を後にする。
 せめてこの目であらゆるものを記憶しよう。帰城したらマッシュに話して聞かせられるよう、マッシュが同じものを見て来たと錯覚するほどに、鮮やかに伝えられるように。

「え、マッシュが……?」
 夜更けに隊列は城に戻り、真っ先にマッシュの寝室に向かったエドガーが神官長に聞かされたのは、昼間のマッシュの取り乱した様子についてだった。
「よほど楽しみにされていたのでしょう。隊がすでに発ったと聞いて、ショックで混乱してしまって」
 ──あにきは? ねえ、あにきは? いやだいやだ、あにきがいないといやだあ──
 エドガーは胸元のボタンごと服を握り締めた。
 せめて一言だけでもマッシュに声をかけて行けたら、そこまで悲しませることもなかったかもしれない──申し訳なさで胸が苦しい。
「今マッシュは?」
「眠っていますよ。昼間騒いだせいでまた熱が上がってしまって」
 少し考える素振りを見せたエドガーは、きっぱりと決意した目で神官長に向き直った。
「ばあや、今晩のマッシュの看病は私がする」
「え……? エドガー様、お気持ちは分かりますが」
「できるよ、大丈夫。何かあったらすぐばあやを呼ぶから、お願いだ」
 困ったようにエドガーを見ていた神官長だが、エドガーの性格をよく知る彼女は説き伏せることは無駄であると充分理解していたのだろう。大きな溜息と共に陛下にお尋ねします、と零したその言葉は、エドガーにとっては許可を得たも同然だった。

 ううん、と苦しそうに小さく唸りながら身動ぎするマッシュの額に、懸命に絞った冷たいタオルを乗せる。その感触にマッシュは薄っすら目を開き、カラカラの声であにき、と呟いた。
「うん。ここにいるよ」
 静かに囁くと、マッシュがほっとしたように口元を緩ませた。エドガーはそっとマッシュの頬と首筋に触れる。まだ熱い。
 マッシュが再びあにき、と呼びかけた。エドガーはマッシュの髪を優しく撫でた。
「ずっといるよ。安心しておやすみ……」
 マッシュが目を閉じる。エドガーは額のタオルをひっくり返し、その瞼にも被さるようにかけてやった。
 城はすっかり静まり返り、物音一つ聞こえない。城中の人間が寝静まったとしても、眠るものかと自分を叱咤した。視察の疲れがなんだ。病と戦い続けている弟に比べたらなんて事はない。
 明日マッシュが目覚めたら、サウスフィガロの話をたくさん聞かせよう。道中見た世界の全てをマッシュに伝えて、次こそは必ず一緒に行こうと励ますのだ……



 *



 慌ただしい足音の後、予想通りこの部屋にノックがあり、マッシュは一呼吸置いてから返事をした。
 開いたドアから現れた侍女は、入るなりさっと室内を見渡して何かを探しているようだった。それから失礼致します、と恭しくベッドの上のマッシュにお辞儀をし、
「エドガー様はいらしていませんか?」
 思っていた通りの台詞を告げた。
 マッシュは首を振り、来ていないよ、と答える。侍女は疑わしげにもう一度室内を見渡したが、エドガーの影がないことを確認して再び深いお辞儀と共に部屋を後にした。
「……行ったよ、あにき」
 マッシュがぽつりと呟くと、マッシュが体を預けるベッドの下、カバーをめくってひょこっとエドガーが顔を出した。
 立ち上がったエドガーは体の埃を払い、悪戯っぽく笑ってみせる。
「これでしばらくは時間が稼げるな」
「いいの? もうふたつめの授業も終わっちゃうよ……?」
「いいの! 今日は一日お前のそばにいるって決めたんだ。さ、話の続きをしよう? どこまで話したかな……」
 快活に言葉を並べるエドガーの目の下にはクマができている。昨夜から一晩中、呼びかけるたびに返事をくれたのは夢ではなかった──マッシュは寂しさで空いた穴が急速に塞がっていくのを感じて顔を綻ばせた。
 エドガーの献身的な看病のお陰で熱は少し収まりを見せ、上半身を起こしても頭がフラつかない程度には楽になった。自分よりも、夜からずっとそばにいて食事もろくにとっていないエドガーの方が辛いのではないかと不安になる。
「あにき、疲れてない?」
「疲れてるもんか! お前はどうだ? 横になるか?」
「平気。……あにきの話、聞きたい」
 伝えると兄はにっこり笑う。昨日あんなに泣いた自分に呆れてしまうほど、今のこの時間が嬉しくてたまらない。
 きっともうすぐ城の人間に見つかってエドガーは連れて行かれてしまうだろうけど、それまで一分でも一秒でも長く優しい兄を独占したい。
 景色が目の前に広がるような兄の話を聞きながら、きっと今自分たちは同じ世界を共有しているとマッシュは確信していた。



 *



「……なるほど、こういう気持ちか」
 独り言として呟いた声に、ベッドの上のエドガーが反応して少し頭をずらす。
「何だ? マッシュ……」
「なんでもないよ。ちょっと昔を思い出してただけ」
 腰掛けていた椅子から少し身を乗り出し、エドガーの額に触れる。それから頬を触り、首筋も。
 昨夜に比べて熱は少し引いたようだが、まだ下がりきってはいない。それでもそろそろ食欲も湧くだろうかと、剥きかけだった林檎の皮に再び目を向けた。
「マッシュ……疲れていないか? 休んできてもいいんだぞ?」
「これっぽっちも疲れてないよ。……さっきどこまで話したっけ? そうだ、カイエンが甲板で技の稽古してて、刀が操舵に刺さっちまってセッツァーがブチ切れて……」
 エドガーはまだ熱に潤んだ瞳でくつくつと笑う。その笑顔を見るとマッシュの心もまた暖かくなる。
 あの日小さな体で一生懸命に自分の看病をしてくれたエドガーが、片時も離れまいとしていた気持ちが今ならよく分かる。大好きな人が辛い時にそばにいたいのは当然で、何でもしてやりたいし何でも話して聞かせたい。それが苦だとは思わないのも身を持って体感した。
 そして今のエドガーもまた、自分がそばにいることで救われているに違いない。──いつかの自分がそうだったのだから。
 マッシュの話にエドガーは聞き入り、笑う。これはかつてエドガーが見た景色と同じなのだと、林檎を剥きながらマッシュは微笑んだ。