確信




「マッシュ!」
 それは、覚えている声とはほんの少し違っていた。記憶しているより低く、落ち着きのある、でも昔と変わらないハリのあるよく通る声。
 無意識に、兄貴、と唇は呼ぼうとしていた。その声がすぐに出なかったのは、振り向いた先に見つけたその姿が、自分が知っているその人とはやはりほんの少し違っていたから──、いや、ほんの少しではなく……
「……兄貴?」
 恐る恐る尋ねると、その人はふわりと微笑んだ。まるで花が咲いたみたいに鮮やかで、気高い王者の装いでありながら子供の頃と変わらないその懐かしい笑顔を目にして、ようやく目の前の人が十年間会いたくてたまらなかった兄であると認めることができた。


 フィガロが同盟国である帝国に叛旗を翻す──マッシュは兄エドガーが城を離れて旅をしている理由と目的を聞き、自分も力にと同行を申し出た時、兄の表情に若干の躊躇いが浮かんだように感じていた。
 十年前の自分を連れて行くのは不安かもしれない、しかし今ならば。鍛えた心身を見て欲しいと言わんばかりに至近距離で向かい合った時、強烈な違和感に襲われてマッシュは大いに戸惑った。
(あれっ……?)
 十七で城を出るまで常に共に在った兄のことを忘れた日は一日たりともなかった。その鮮明な記憶の中の兄はいつもマッシュが見上げる位置に顔があったというのに、今目の前にいる兄は上目遣いで自分を見ているではないか。
 顔立ちに身体つき。弱々しさはなく適度に鍛えられた兄の体躯は寧ろ雄々しい部類であるというのは、一緒にいる仲間らしき青年と比較しても歴然である。
 それがどうしてここまで小さく見えるのかとしばし悩み、マッシュはようやく自分が大きくなったことを理解した。この十年で確かに着る服のサイズは大きく変わったが、改めて身長を測ったりすることもなく、周りの人間も皆マッシュと同等かそれ以上に大きな体をしていたために気づかなかった──すでに自分は兄を超える体格になっていたのだ。
 この角度から兄の目を見下ろすのは初めてだった。伏せがちだからだろうか、下から見上げていた時より金色の睫毛が長く揃って見えた。
 幼い頃は向かい合うだけで鏡のようだと城中の人間に言われた互いの顔つきが、作りは同じであるのに何かが確かに違う。それが環境の差から産まれた個性であると、マッシュは子供ではなくなった兄と自分を比べて目を細める。
 この人を守るために十年屁古垂れずにやってきた。王の風格が備わった兄を前に、マッシュの胸が早鐘を打つ。果たして自分は王を守るに相応しい存在に成り得ているだろうか──?
 ふと、兄が迷いをそのまま表したかのように足元を彷徨わせた。ほんの数歩動いたその先が切り立った崖になっていることをよく知っていたマッシュは、咄嗟に腕を伸ばす。
 兄の足が宙を切る寸前、しっかりとその二の腕を掴んで──過去に同じ景色を見たことを思い出す。
 あれはまだ十にも満たない頃、城の中庭に人工的に池が作られた時。池を囲む岩の上をひょいひょいと歩いていた兄をおどおど見守るばかりだった自分が、バランスを崩した兄の腕を思わず掴んだことがあった。
 しかし兄の体は自分より重く、そのまま引っ張られて一緒に池に落ちたあの日──引力に負けた遠い日の記憶が蘇り、今度こそ落とすまいと渾身の力を込めて腕を引いて──すとん、と呆気なく、実に他愛もなく胸に収まった兄の体に驚き、力を込めすぎて崩しかけたバランスを取り戻して両脚を踏ん張る。
「──……」
 腕の中にすっぽり入ってしまった兄もまた声を失ってマッシュを見上げた。その戸惑いの瞳にはもうひとつ、違う輝きが潜んでいるようにマッシュには見えた。思わず喉をごくりと鳴らす。
 ああ、この腕もこの体も、今度こそ兄を守れるだけの力を得たのだ──確信したマッシュは兄の肩を優しく掴んでもう一度尋ねた。
「……俺の技もお役に立てるかい?」
 兄は苦笑混じりに微笑み、来てくれるか、と嬉しそうに自分の名前を呼んだ。