片恋




 長い回廊を駆け下りて、小間使いたちの部屋の前を通り過ぎ、また現れた回廊を今度は駆け上り、突き当たる少し手前の衣装部屋へ。
 二人でほとんど同時に飛び込んで、素早く閉めた扉の向こうからやや遅れて大人たちの足音。
 エドガー様、マシアス様──……
 声が遠ざかると同じ顔をした少年二人は顔を見合わせて笑った。
「やっと撒いたな」
「ここならバレないね」
 今は亡き母の衣装が揃ったこの部屋は、普段鍵こそかけられていないものの、王の許可なしに入り込むことは許されない。一日に一度は侍女が清掃にやって来るが、それも昼前には終わっているはず。日盛りの稽古をすっぽかし、二人の王子は大人相手の隠れんぼを楽しんでいた。
 後から食らう小言の存在を忘れている訳ではないが、悪戯盛りの兄と弟は一度調子づくと止まらない。父からもらう拳骨の痛みも二人で半分こすれば耐えられる。
 エドガーは部屋をくるくる回って豪奢なドレスの間をすり抜ける。レースがひらひら、フリルが揺れてシルクがきらきら、エドガーの髪のリボンも同じ動きでゆらゆらと。
 マッシュは小さなステンドグラスが嵌め込まれた高い窓を見上げてうっとりと目を細めた。きれいだなあと呟くと、ドレスで遊んでいたエドガーが背後からひょいと顔を出す。
「母上のドレスも綺麗だぞ。ここに飾りっぱなしはもったいないな」
「そうだけど、着る人がいないから仕方ないよ」
「だよな、お前か俺がお嫁さん連れて来ないとな」
 エドガーの言葉にマッシュは微笑む。
 狭い部屋が物足りないのか、エドガーは相変わらずドレスの下に潜り込んだり落ち着かなく遊び続ける。
 ドレスをかけているハンガーが大きく揺れた。あにき危ない、と声をかけるのと、重量のあるドレスがエドガーの真上に落ちたのはほぼ同時だった。
「あにき」
 慌ててドレスを掻き分けると、輝く青い宝石がふたつぱちぱちと瞬きをしていた。
 レースとリボンに囲まれてエドガーが笑う。やけにお似合いのその様子を見てマッシュも笑った。エドガーはそのままふんわりと背中から倒れ込み、ドレスに埋もれて天を仰ぐ。
「あにき、ドレス皺になっちゃうよ」
「少しくらい大丈夫だよ。……母上の匂いかな」
 夢見るように瞼を伏せたエドガーの言葉を聞き、マッシュも少し躊躇いながら隣に転がった。柔らかいドレスは思った以上にふっくらと体を受け止めてくれる。
「父上には内緒な。めちゃくちゃに怒られる」
「うん……秘密だね」
「二人だけの、秘密」
 寝転んだまま小指を差し出すエドガーの、細いそれにマッシュも小指を絡ませた。
 こうしていつも秘密が増える。二人で見つけた隠し部屋、こっそりくすねた夜会の茶菓子。父王秘蔵のワインを舐めて、エドガーが目を回したのも二人の秘密。
 ふわふわ優しいドレスの温もりは、母に抱かれているようで、エドガーはうとうとと微睡み始める。それに気づいたマッシュが慌ててエドガーを揺するが、うん、少しだけ、大丈夫と呟いてエドガーはついに寝息をたて始めた。
「あにき……」
 声をかけても返事がない。夕べ夜更かししてゼンマイ仕掛けの人形を解体していたと聞いた、寝不足が祟ったのだろう。
 さてどうしようと天井を睨む。自分より大きな兄を抱え、おまけにこの倒してしまったドレスを元通りに戻すだなんて、マッシュ一人でできるはずがない。エドガーを置いて行くことはできないし、目覚めるまで待つとなると一体どれだけかかるのか。
「あにき」
 なんとか起こそうと声をかける。エドガーはぴくりとも動かない。
「あにき」
 肩に触れても反応がない。指先で頬を突き、薄っすら浮かぶ頬の紅色に気づいて思わず手を引っ込めた。
 僅かに開いた唇の隙間からあどけない寝息が漏れている。マッシュはごくりと喉を鳴らした。
「……、ロニ……」
 そっと自分の体を起こす。カサリとレースが音を立てて心臓が縮む。長い睫毛は伏せられて、動く気配のないエドガーを見つめながら、マッシュはゆっくりと頭を下げた。
 体を支える腕がカタカタと震え、心臓の音が頭の中でガンガン響く。殺した息が漏れないように、結んだ唇から血の気が引く。
 起きませんように。起きませんように。
 寝息がかかる距離で躊躇って、頬より赤い紅に引き寄せられるように最後の数センチを振り切った。
 重なるほどの強さもない、たった一秒、押し当てるだけ。
 触れた唇の柔らかさにびくりと体を震わせたマッシュは、その動きでエドガーが目を覚ましていないかと様子を瞠る。
 エドガーの寝息は変わらない。
 ほっと撫で下ろした胸が安堵に包まれたのは一瞬、じりじりと握り潰されるように痛みを感じ始める。
 してはいけないことをした。
 いつも二人で作ってきた秘密。──これは二人の秘密ではない。一人だけで抱えなくてはいけない許されない秘密だ。
 ごめんね、と眠る兄に呟いて、マッシュは自分ひとりの秘密を握り締める。いつも一緒、何でも一緒……二人の間に何もなかった隠し事が、きっと今日から増えて行く。
 もう一度ごめんねと囁く。エドガーは目を覚まさない。兄は今よりもっと大きくなって、いつか母のドレスが似合う素敵な女性をこの部屋に招くだろう。その時笑って迎えられるように、決してこの秘密を暴かれないように、マッシュはざわめく心をそっと宥めた。
 ごめんね、想いを抱いてしまって。
 溢れ出るものをひとつひとつ閉じ込める。
 柔らかい髪が好き、器用に動く指が好き、明るく通る声が好き、光を湛えた笑顔が好き。
 あなたが好きあなたが好きあなたが好き……
 レースと一緒に揺れるリボン、フリルの間から覗かせた宝石みたいな青の瞳、ドレスに埋もれて眠るエドガーの、綺麗な綺麗な薄紅色の唇……全て抱えてしまっておこうと、騒ぐ胸を押さえて目を閉じた。

 その後衣装部屋を滅茶苦茶にした罪で二人はたっぷり絞られて、予想通り父からの愛の拳骨を賜った。
 目配せを寄越しぺろりと舌を出すエドガーへ、マッシュは痛む胸で微笑み返す。
 衣装部屋には鍵がかけられ、マッシュも自分の心に静かに鍵をかけたのだ。