渇望




 ベッドの上で苦しげに息を吐く弟は、朝見た時よりも青白い顔をして見えた。
 ドアが開いた気配を察したのか、薄っすら目を開けたマッシュがあにきと唇を動かす。熱に潤む青い瞳を元気づけるために笑ってみせた。心配そうな顔を見せてはいけないと、ごく自然に優しく気高く微笑んでみせる。
「チョコボの……遠乗り、行ってきた……?」
 マッシュが力なく尋ねる。掠れた声が痛々しく、大きな声を出させないようベッドのすぐ傍まで早足で近寄り、床に膝をついてマッシュと目線を合わせてやった。
「行ってきたよ。お前も今度は一緒に行こう」
「でも、おれ、あんまり練習……してないから……うまく、乗れないかも……」
 苦しそうな息の合間に言葉を繋ごうとするマッシュに、無理をするなと肩を優しく摩ってやる。
「大丈夫、俺が乗せてやるよ。俺がお前を連れてってやるから心配するな」
「ありがと、兄貴……」
 熱で潤んだ目元がふにゃと緩む。頭を撫でてやるとより嬉しそうに笑う。
「機械工学の、宿題、終わって……ないや……」
「元気になったら一緒にやろう、分からないところは教えてやる」
「マナー講習も……二日も、サボっちゃった……」
「熱があったんだから仕方ないだろ。大したことはしてないよ、俺が全部教えてやるから」
 少し早口にまくしたてたエドガーを見て、マッシュが小さく笑う。少し哀しげな、自嘲気味の笑みだった。
「俺、情けないなあ……全部、兄貴に、頼りっきりで……」
「何言ってるんだ。そんなこと気にするな。いいんだよ、俺はお前の兄貴なんだから」
 力無いマッシュの手を取り握り締める。
 その言葉は呪縛に等しい。



 ***



 可愛いマッシュ、同じ日に産まれた同じ顔の弟。だけどマッシュは小さくて、体も弱くて甘えん坊で、おまけに少し泣き虫だ。
 守ってやらねばならないのだ。
 ほんの少しの違いとは言え、兄としてこの世に生を受けた。幸い体は丈夫だし、手先も器用で大人たちが期待することはおおむね何でもそつなくこなせる。
 マッシュができないことは、全部自分がやればいい。
 この先ずっと一緒なのだから、自分がマッシュを守ればいい。小さくて弱くてすぐ泣いてしまう弟は、兄である自分が支えてやればいい。
 国と弟を守るには力を備えなくてはいけない。頭も身体も鍛え上げ、この背に全てを背負おうとも潰れない心を作らなくては。
 強くなろう。強くなれる。守るものがあるということは、何にも代え難い力になると偉大な父王も説いてくれた──



 ──そう思っていたから、マッシュとの別れは身を切られるような痛みを伴った。
 手離さざるを得なかった。兄と弟を取り巻く状況が共に在ることを許さなかった。国内で対立した二つの勢力が自身とマッシュをそれぞれの札とし、産まれた時から離れたことのなかった二人に争えと嗾しかけた。
 マッシュがその動きに取り込まれるような愚ではなかったのが唯一の光であり、自身の逡巡でもあったのだ。
 国を出よう、と全ではなく個を優先したマッシュが望んだのは、自分たちを縛る王族という枷からの解放──自由だった。
 そして自身が目指したのは、王族で在ることを全うし国の混乱を統制する道だった。
 偉大な父の志を棄て去る訳にはいかない。しかしマッシュをこの国に留める危険は計り知れない。
 彼の口から出た『自由』という言葉に未来を託さざるを得なかった。



 『自由を譲ってやった』と思ったことはなかった。
 この道を選んだのは己で、弟もまた自分の意志で自由を選んだ。
 目を閉じれば浮かんでくる、病床で寂しげに天井を見つめ青白い顔をしていた弟が、たった一人で振り返らずに夜の砂漠をチョコボに跨り駆けて行った。
 己の庇護がなくとも自らの足で歩いて行ったマッシュは、考えていたよりずっとずっと強い男だったのだろう。
 ならば己は彼に恥じない存在でいなければならない。
 この背の後ろには幾千もの民の命がある。
 指し示した方向ひとつで幾多の人間を幸と不幸に分けられる場所で、舵取りを誤らずに前に進まなくてはならない。
 周りの人間は信頼たる者ばかりではない。こちらの腹積もりを読み取られぬよう一枚硬質な仮面を用意し、笑みには誇りと余裕を。どれほど腸が煮え繰り返ろうとも胸を張り、前途を睨んで進まなければならないのだ。
 隙を見せるな。眼を瞠れ。振り返るな。不敵たれ。
 この背には先人達の遺志が掛かっている。
 理想に敗れて絶望を繰り返し、しかし歩みを止めてはならない。孤高であり悠々たる王で在れ。弱味は噛み潰し呑み下そう、王とは使命であり己は最早人ではない──



 ***



 リターナー本部を目指す途中、超えなければならないコルツ山の山肌でその男は現れた。
 体躯の大きな鋭い眼をした男の口から確かにマッシュの名前を聞き、薄い空気も伴ってらしくなく冷静さを欠いていたのかもしれない。女性相手でも容赦なく手を挙げた男から、ティナを庇いきれなかったエドガーが吹き飛ばされた体を振り返った。
「ティナっ……!」
 岩に叩きつけられる寸前、ロックが間一髪ティナの背後に回り込み、自身の腰を岩に打ち付けながらも彼女に傷を許さなかった。そのことにエドガーは一瞬安堵の息を漏らしたが、ロックのダメージは少なくない。
 引く訳にもいかず前方を睨むが、男を取り巻くモンスターが邪魔でボウガンの狙いが定まらない。この標高で頭もフラつく。
 この男はマッシュのことを知っている──エドガーは腰を低く構え相手に隙を見せないよう目つきを鋭く尖らせた。すると、男が奇妙なものを見るような目でエドガーをねめつける。
「お前……似ているな」
 誰に、と問い返す暇はなかった。男を守る二頭の熊と見まごうモンスターがエドガー目掛けて爪を振り下ろす。一頭にボウガンの矢を放ち、もう一頭の腕が届く前に体を伏せて地を転がったが、体勢が悪くすぐに立ち上がることができない。しまった、と見上げたすぐ頭上に迫ったモンスターの咆哮は、しかしふいの炎に包まれ仰け反り離れる。
 ティナが魔法の詠唱を終えていた。エドガーはふっと笑みを零し体を起こす。
「エドガー、大丈夫!?」
「助かったよ。頼もしいレディだ」
 エドガーはティナを庇うように前に立ち、更に後ろで腰を押さえて立ち上がろうとするロックの無事も確認する。状況はあまり良くない。
 この男が何者で、何故自分たちを攻撃してくるのか問い質す余裕はない。倒さねば前には進めない。そして二人のみならず自分自身も守り切らねばならないのだ。
 さて、どうする? エドガーは自分が薄っすら笑みを浮かべていることに気づいていた。苦境の際に自分を鼓舞するためいつの間にか身についた癖だった。
 この身を呈して切り抜けられるならば迷うことなどないものの、それができない立場であることは重々承知している。
 男がニタリと笑い、その前方を守る二頭のモンスターも唸りながら間合いを詰めてくる。
 エドガーはボウガンを投げ捨て腰の剣に手をかけた。その時だった。

「やめろっ、バルガス!」

 耳に飛び込んできた声。
 記憶よりも少し低い、よく通る凛とした声の持ち主がエドガーたちの眼前に背を向けて男に立ちはだかった。
 太陽を正面に受け、こちらに向けられた背中は影を背負う。その体躯の逞しさ、大きさに圧倒され見上げたエドガーの目は凍りついていた。
 陽に透ける金の髪。
 エドガーが記憶を繋ぎ合わせるより早く、対峙する男がその名を口にした。
「……マッシュか!」

 ふと、ちらりと背後を伺うように首を回したその横顔に煌めく青い瞳を見て、
 見まごうほどに成長した父よりも自分よりも大きくなった背中の頼もしさを見て、
 貼り付いていた笑みがぽろりと落ちたように消えてしまったこの顔をどう取り繕えば良かったのだろう。

 その一瞬、エドガーは自分が王であり兄であることを確かに忘れた。


 ──初めて縋りたいと思った。