決意




 最後の薪を割り終えて、大きく息をついたマッシュは額からぽたぽた落ちる汗を左腕で拭った。右手に持ったままの斧から手を離せば、手のひらがぷるぷると震えている。潰れた豆に血が滲んでいた。
 足も腰も情けないほどに揺れて鈍い痛みで顔が歪む。このまま膝を折ってしまえば体は楽になったかもしれないが、マッシュはそれでも斧を拾い上げて背筋を伸ばした。
 割ったばかりの大量の薪を掻き集め、修練小屋の脇に積む。何度も繰り返して全ての薪が片付いた頃、小屋の中からいかつい顔のダンカンが現れた。
「おっしょうさま」
 マッシュはすぐに姿勢を正して頭を軽く下げた。ダンカンは無言でマッシュが薪割りをしていた場所や積み終わった薪の様子を見て、すっかり片付いた様子を認めたのかひとつ深く頷いた。
「よし。昨日より早かったぞ、マッシュ」
 マッシュの表情がぱっと輝いた。
「ありがとうございます!」
「うむ。今日はこれから町に降りるぞ。お前もついて来なさい」
「はい、分かりました!」
 マッシュは大袈裟なほど大きく頭を下げ、支度をするため走って修練小屋へ戻る。着替え、荷物、と呟きながら小屋の中で、麻のリュックをごそごそと探り、汗だくの体を清めるための着替えともうひとつ、小さく畳まれた鮮やかな青のリボンを手に取った。手の中に握り締め、愛おしそうに拳に口付けてまたリュックの奥に大事にしまう。
 元・フィガロ国の王子であるマッシュは、二ヶ月前から武闘家のダンカンに師事し心身を鍛えることに専念していた。
 生まれついて病弱だったマッシュは成長期を経ても腕も脚も細く、元々の色の白さも伴って実に頼りない見た目の青年だった。日々の雑用と武術の訓練で一日を終えれば、身体中が軋むような痛みに襲われて眠ることもままならない。それでもマッシュは一度も弱音を吐かずに師であるダンカンの教え通りに毎日を過ごしていた。
 月の半分以上をコルツ山の傍の修練小屋で過ごし、時折ダンカンの家があるサウスフィガロへ物資の調達に向かう。町に降りた日はそのままダンカン家に泊まるのがほとんどで、おかみさんと呼び親しむダンカンの妻の手料理にありつける機会に内心マッシュはほくそ笑んでいた。
 大量の荷物を薄っぺらい背中に背負い、ダンカンに続いてしっかりと土を踏みしめるマッシュの青い目は、空よりも澄んでいた。


 おかみさんの愛情のこもった夕食を平らげて、後片付けを手伝うマッシュにダンカンが声をかける。
「酒場に行くぞ。お前も付き合うか」
 マッシュは洗い途中の皿を手に返答を迷うが、おかみさんがさっとその皿を取り上げた。
「いってらっしゃい。最近バルガスが付き合わないものだからつまらないのよ、この人」
「お前余計なことを言うな。行くぞ、マッシュ」
「……はい!」
 マッシュはおかみさんに頭を下げ、泡だらけの手を洗ってから急いでダンカンを追いかけた。
 酒場に付き合うと言ってもまだ頼りない体のマッシュは酒を許されず、茶を啜りながら師匠の話に付き合うだけだった。それでも酒が入るといつもより饒舌になるダンカンの話を聞くのは好きだったし、酒場の雑多な空気は城にいた頃には味わえない不思議な魅力があって、お供をするのを密かに楽しみにしていた程だった。
 その日もマッシュは師と差し向かいでガタつく木製のテーブルに置かれた摘みのナッツを口に運びながら、武道とはなんたるかを懇々と説くダンカンの言葉を熱心に聞いていた。その日の酒場は盛況で、さして広くもないスペースにみっしりと並んだテーブル同士の間は狭く、周りの人間の会話も近くの人々に筒抜けになっていたのは不運だったかもしれない。
「帝国の侵攻は止まらないようだな」
 耳に飛び込んで来た『帝国』という単語にマッシュがピクリと眉を動かす。
「うちは同盟組んで日が浅いけど大丈夫かねえ」
「ステュアート様が生きてりゃなあ」
 マッシュは思わず振り返る。背後に座る初老の男性客らが赤ら顔で語る父の名は、何故か酷く権威を傷つけられて聞こえた。
「マッシュ」
 諌めるように名前を呼ばれ、ハッとしたマッシュは目の前のダンカンに視線を戻した。すみません、と小さく呟きカップの持ち手を握り締める。
 余計な言葉を聞かないようにダンカンの話に集中しようとした。しかし一度意識してしまった耳は、後ろから聞こえる無粋な会話を拾わんとそばだてて音を取り込む。
「まだ毛も生えてないような子どもが王様だろ。舐められてるだろうなあ……」
「お飾りだろうよ。とりあえずでも王は据えなきゃならん。まあ不運な時期に即位せんきゃならんかったのは同情するがね」
 マッシュの眉間がピクピクと震える。唇を噛み締め、歯を食い縛って懸命に堪えるが、すでにダンカンの声が耳に届かなくなっていたことにマッシュは気づくことができなかった。
「しかしエドガー様は亡くなった王妃様に似て大層見目麗しいそうじゃないか。政治は無理でも、帝国の連中をタラし込んでくれればフィガロも安泰じゃないのか」
 ははは、と品のない笑い声が響いたのとマッシュが立ち上がったのはほとんど同時だった。
 振り返ったマッシュは今しがた発言した男の胸倉を掴み、血走った目で睨みつけた。
「……今、何て言った」
 ダンカンの制止の声も届かず、マッシュはギリギリと男の襟を締め上げる。
「な、なんだこのガキ」
「おい、離せ!」
 男の仲間に腕を掴まれるが、マッシュは手を離さなかった。
「もういっぺん言ってみろ!! ぶん殴ってやる!!」
「マッシュ、よさんか!」
 ダンカンの命令を振り切り男の頬を拳で殴りつけたマッシュは、しかし男の仲間に鳩尾を蹴られて吹き飛ばされる。
 もう一人の仲間も飛びかかって来て、マッシュに馬乗りになり顔を殴りつけて来た。マッシュも殴り返そうとするが、男たちは体格が明らかにマッシュよりも大きく、ささやかな抵抗は何のダメージも与えられていないようだった。
 殴られ、蹴られ、朦朧とする意識の中、やがて静まり返った店内をダンカンに担がれて出る頃には、マッシュの瞼は完全に下りてしまっていた。


 目が覚めるとそこはすでにダンカンの家の客間で、がばっと起こした身体中が鈍い痛みに包まれていた。思わず呻いたマッシュの傍で、厳しい眼をしたダンカンが佇んでいた。
「馬鹿者が」
 マッシュの頬が赤く染まる。すみません、と口にしかけて、震える唇を抑えきれずに噛み締める。
 睫毛が震えてじわりと瞳を水面が覆い、瞬きをするとぽたりと水滴が溢れ落ちた。
 この拳は無力で、離れて生きる兄の力になることはできない。酒場で無様に暴れたところで何一つ変わりはしないのに、どうしても我慢ができなかった。
「……兄貴は……、俺よりずっと頭が良くて……、鈍い俺と違って、何でも知ってて。だから、あんな聞きたくないことだって、全部知ってるはずなんだ……」
 人を殴りつけた拳を硬く握り締め、手のひらにめり込む爪の痛みでかろうじて理性を保つ。その甲にぽたぽたと涙が落ちた。
「でも、兄貴は強いから。俺みたいに泣けないから。何を言われても、一人で全部背負って黙って笑う人なんだ。あんな、あんな酷いこと言われても、誰にも泣き言言わないで、一人で……」
 しゃくり上げて言葉が続かなくなったマッシュに近づいたダンカンは、静かだがはっきりした声色で尋ねた。
「それで、酒場で暴れてすっきりしたか」
 マッシュは首を横に振る。
「今のお前にできることは何もない。兄の力になりたいのなら、お前がすべきことはなんだ」
 マッシュの表情が引き締まり、涙を湛えた瞳に鋭い光が宿った。
 ──強くなりたい。これまで何度となく思ったその希望を、今ほど強く願ったことはなかった。


 強くなりたい。強くならなくてはいけない。何もできないこの非力な両手を、鍛え上げて何者からもあの人を守れるように。
 いつもその背を追い続けた。常に遠くを見据えていたあの高潔な眼差しが曇らないよう、必ず強くなって傍にいくから。

 貴方の隣に並ぶに相応しい男になって、必ず貴方を守るから。