欠落




 エドガーがマッシュと十年ぶりに再会して初めて分かったことがあった。マッシュは酒に強い。水でも飲むようにガバガバと煽り、顔色も変わらずけろっとしている。
 それが一定の量を超えると途端に首まで赤くなり、ぱっちり開いていた目が据わる。ここから記憶が綺麗さっぱり消えるということも分かった。それまで明瞭だった会話が噛み合わなくなり、翌日に尋ねると記憶の途切れたタイミングと見た目が変わるタイミングが見事に符合した。
 セッツァーも同じことでぼやいていた。あいつ、覚えてねえとか言って賭けの負け分払いやがらねえ──酩酊したマッシュ相手に賭けを仕掛ける時点で彼に非があるとは思ったが、仕方なくエドガーが支払ってやった。
 ロックもまた泣きついて来た。マッシュが酒代奢るって言い出したからバカ高い酒散々頼んだのに、あいつ俺が手洗い行ってる間に支払いもしないで部屋戻って寝ちまってた──人の奢りで高級な酒を大量に頼むロックもどうかとは思ったが、エドガーはやはりその分を渋々支払った。
 二人の証言に加えてエドガー自身も何度か経験したマッシュの記憶の欠落について、本人に問うと「そうなんだ」と意外にも自覚はあった。
「おっしょうさんにも何度か言われた。途中まではばっちり覚えてるんだけど、一定のライン超えるとすこーんと忘れちゃうんだよ。全っ然思い出せない」
「ならそこまで飲まなければいいんじゃないのか?」
 エドガーの尤もな意見にマッシュは渋い顔になる。
「そうなんだけどさ、ホントに急に酔うから。それまで平気すぎて、どのくらい飲んだらそうなるのかいまいちよく分かんねえんだ」
 頭を掻く弟を呆れたように眺めるエドガーだったが、今後彼がエドガーの目の届かぬ場所で酔い潰れる機会もそうそうないだろう、自分が面倒を見れば済む話かもしれないと楽観視していた。

 その夜は再びやってきた。
 珍しくエドガーとマッシュ二人揃って飛空艇の留守番役を請け負い、いつも賑やかな艇内が静まり返っている居心地の悪さを解消しようと、アルコールを手にして思い出話に花を咲かせていた。
 二人は饒舌に語らい、それはとても楽しい時間だった。つい酒量を考えずに瓶を開けていたエドガーは、それまでごく穏やかな表情だったマッシュが急に瞼を半分ほど下ろしてしまったことに気づく。
 限界が来たらしい。ここから先はマッシュの記憶はなくなってしまう。兄弟水入らずの時間もこれまでか、とエドガーは杯を下ろした。
「マッシュ、そろそろお開きにするか」
「……ん……」
「そのまま横になっていいぞ。俺も部屋に戻る」
 マッシュは頷かず、しっとりと赤く潤んだ目で物欲しそうにエドガーを見る。エドガーの胸がキュッと嫌な音を立てた。
 再会してから、お互い表面上は仲の良い兄弟を演じながら、それぞれ触れまいと隠していた気持ちが燻っているのに気づいていた。
 兄と弟であり王と僧である。許されるはずがないのは分かりすぎるほど理解していた。だから相手の、自分の気持ちにも気づかないフリをして、日々をやり過ごせばいつかは風化していく想いだろうと真実から目を逸らしていた。
 それが今なら。マッシュは全て忘れてしまう。もし過ちを犯しても、明日になればマッシュは覚えておらず兄弟の仲が拗れることもない。
 エドガーはごくりと喉を鳴らす。今なら触れても良いだろうか、今なら触れてもらえるだろうか。恐らくは浅ましく顔を赤らめて、不純な目で弟を見ている自分の表情を想像して目眩がした。
 マッシュ、と掠れ声で呟いてテーブルを躱し、マッシュが座るベッドの隣にエドガーは腰を下ろす。至近距離で見つめ合う視線は実に雄弁で、言葉などなくともお互いの気持ちは分かりきっていた。
 ふいにマッシュがエドガーの肩に手をかける。ドクンとエドガーの心臓が跳ねる。両肩を力強い腕で押し倒されてしまえば、呆気なくエドガーの背中はシーツに埋められた。
 期待と怖れが入り乱れエドガーは息を飲んだ。見上げるマッシュの欲に揺らぐ瞳がエドガーを捕まえて離さない。どうにでもして欲しくて、エドガーは目を閉じた。
 ところが覚悟を決めて長らく経つのにマッシュの体は動かない。不安になって薄目を開けると、すっかり酔いの回った赤ら顔でへの字に曲げた唇を震わせ、眉を寄せて何かに耐えるマッシュが絞り出すように呟いた。
「……できない」
 一瞬エドガーは自分が拒絶されたのだと思った。ひやりと全身が冷えたが、エドガーの肩を掴むマッシュの手の力は弱まらず、エドガーを逃がそうとはしない。
 マッシュは頭を垂れ、エドガーの肩口に顔を埋めるように倒れてきた。体が重なりまたエドガーの心臓が縮む。しかしそれ以上のことをマッシュはしようとはしなかった。
「……忘れたくないから、できない」
 エドガーは目を見開き、苦々しげに細めた。そして震える弟の頭を抱き締めた。
 朝になればマッシュは全て忘れてしまうだろう。また気持ちを誤魔化し続ける日々が始まり、エドガーがこの夜を忘れることはない。