音を立てないように開いたドアの向こうは薄暗く、闇に目を慣らすべく一度瞼を下ろしてから、エドガーはそっと室内に滑り込んだ。蝶番が小さく鳴いたのを聞きつけたのか、ベッドの傍に控える大きな塊が振り返るように動く。日付が変わってしばらく経つがしっかりと起きているらしいマッシュに安堵し、エドガーは足早にベッドに向かった。
「どうだ、調子は」
 小声で問いかけると、背凭れのない木の椅子に腰掛けたマッシュはベッドで眠る息子に顔を向け、軽く頷く。
「まだ熱が高いな。三時間前に少し吐いた」
「可哀想に……今までこんなことなかったのに、大丈夫なのか」
「悪い風邪をもらっちまったかな。でも水分は取れてるし、何日か休めばきっと良くなるよ。心配するな、兄貴」
 僅かな灯りに照らされるマッシュの穏やかな笑みにもエドガーは浮かない顔のままだった。
 二歳になったレグルスが熱を出したのは昨日の昼間。それまで病気らしい病気にかかることがなかったレグルスはいつも元気で、やんちゃ過ぎて困るとエドガーも苦笑混じりに周囲に零したことがある程だが、いざ病に伏してしまうと高らかな声が聞こえないことが不安でたまらなかった。
「マッシュ、代わろう。お前昼からずっとついているだろう、風呂にでも入って少し眠れ」
「いいよ、俺は大丈夫だ。兄貴こそこんな時間まで仕事してたんだから寝なきゃダメだ。明日も早いんだろ?」
「しかし」
「普段好き勝手させてもらってるからな、これくらいなんてこと無い。病気の時にどうしてもらいたいかはよく知ってるしな。安心して任せてくれよ」
 マッシュは少しだけ語調を強めたが、エドガーの表情は晴れない。その視線は熱のせいか荒い呼吸で眠る息子にじっと注がれている。マッシュは苦笑いを浮かべ小さく息をついた。
「……まあ、心配だよな。俺も、この立場になって初めて分かった」
 マッシュはレグルスを見つめ、昔を懐かしむように目を細める。
「俺も小さい頃しょっちゅう寝込んでたろ。昼間はまだ部屋も明るいし、人もちょくちょく見に来てくれる。たまに兄貴が忍び込んで来るのも嬉しかった。……でも夜になると、二時間に一回くらいかな、水を替えに女官が来てくれるだけで、暗い部屋で独りぼっちでさ。淋しかった」
 エドガーは、月の半分はベッドの中にいたマッシュの幼少時を思い出して軽く眉尻を下げる。今でこそ筋骨隆々とした体躯のマッシュだが、過去を知らない人間には信じてもらえないほどすぐ体調を崩す子供だった。
 マッシュはそっと手を伸ばし、レグルスの額に置かれていたタオルを取る。すでに温くなっていたのだろう、足元に置かれた桶の氷水に浸して固く絞ったタオルを再びレグルスの額に乗せたマッシュは、そのままふわふわの前髪を掻き上げるように撫でた。
「いつだったかな。真夜中、何時頃なのか分からないけど、寝込んでてふと目を覚ましたら枕元に親父が座ってたことがあったんだよ。公務中の格好のまんまでさ。今の兄貴みたいに仕事終わりに見に来てくれたんだろうな。ちちうえ、って呼んだら頭を撫でてくれた」
 初めて聞く話にエドガーは瞬きをし、思わず腰を屈めてマッシュに耳を近づけた。
「親父が看病を?」
「どのくらいいてくれたのか分かんなかったけどな。大丈夫か、って聞かれて、なぜか『りんご食べたい』って答えたんだ。それしか思いつかなくてさ。そしたら親父が分かった、って、いなくなった」
「ほう」
「で、それからまたすぐ寝ちまって、気づいたら朝でさ。傍のテーブルに、歪に皮剥かれたりんごが置いてあったんだよ」
 エドガーが目を丸くして口元を手で覆う。
「……親父、料理したことあったか?」
「記憶の限りでは無いよな。ナイフ持ったこともなかったんじゃないかな、ひどい形だった。皮剥き過ぎだしでこぼこだし、そのまま皿に置いてあるから乾いてパサパサになってるし」
 レグルスを起こさないよう笑いを堪えて話すマッシュの肩が揺れる。エドガーも口を覆う手を離せずにくつくつと笑い声を噛み殺した。
「……親父なりに息子に何かしてやりたかったんだろうな。見た目は悪かったけど、朝起きて最初に食べたそのりんごは甘く感じた。今なら親父の気持ちがよく分かる……」
 マッシュはレグルスを振り返り、もう一度頭に触れてしばらく手を当てたままにした。エドガーもマッシュの肩越しに息子を見つめて、ゆっくりと頷く。
「親父も仕事で疲れてただろうにな。子供が辛いと、親は自分のことなんかどうでも良くなるんだなって、よく分かったよ」
「……ああ、その通りだな……」
「でも兄貴は眠らないとダメだ。レグルスには俺がついてるから、兄貴は休んでくれ。俺にはレグルスも兄貴も同じくらい大切なんだから」
「それを言うなら俺だって──」
「……ちち、え。とうしゃま……」
 大人二人の声にか細い声が混じり、つい会話のボリュームが大きくなっていたことに気づいたエドガーとマッシュが慌ててベッドを見ると、薄っすら目を開けたレグルスがぼんやりした表情で二人を見上げていた。
 身を乗り出したエドガーが背中を曲げてレグルスの頬に触れる。
「すまんな、起こしたか。……ああ、まだ熱いな。大丈夫だ、すぐに良くなるからな」
「水を飲むか、レグルス。欲しいものがあるなら持って来てやるぞ」
 エドガーとマッシュが優しく囁きかけると、レグルスはまだ夢を見ているような覚束ない様子ながら、小さな唇をもぞもぞと動かしてりんご、と呟いた。
 その言葉にエドガーとマッシュは顔を見合わせ、思わず笑う。
「よし、とうさまが剥いて来てやる。じゃあ兄貴、少しだけ代わってもらうか」
「ああ、任せろ。レグルス、ちゃんと傍にいるからな」
 レグルスの顔がふにゃりと笑ったように弛み、それを暖かな眼差しで見つめた二人は確かに眠気を忘れていた。

(2017.11.01)

閉じますよ