1/31 愛妻の日によせて


「よし、ここまでにしよう」
 エドガーの穏やかな声にホッと表情を緩ませたレグルスが「有難うございました」と頭を下げる。親譲りの達筆な文字が書き込まれた図面の束を二つに折り、忙しい王の邪魔にならないようにと早々に立ち上がった息子を見て、エドガーは時計を確認してから軽い調子で口を開いた。
「お前、三時頃は何か予定があるかい」
 レグルスは振り向き、頭の中に完璧に書き込まれているスケジュールを確認する。
「いえ、今日は特に」
「そうか。では俺のティータイムに付き合わないか」
「父さまとご一緒では?」
 あと数年で齢も五十を迎えようというのに、昔と変わらず仲睦まじい両親の夫婦水入らずの時間を邪魔しないよう気遣ったレグルスに対し、エドガーはやや不貞腐れたような顔で視線を斜めに逸らしてしまった。
「あいつ、少し前から城の子供達に武術を教えてるんだよ」
「ああ、父さまからお伺いしています」
「ティータイムと時間が丸被りしてるんだ」
 面白くなさそうに呟くエドガーを見て、思わず頬が緩んでしまいそうになるのを堪えたレグルスは、控え目に苦笑して小首を傾げながら尋ねた。
「少しお時間をずらされては……?」
「もう何年も同じ時間なんだ、ずらしたりしたら体内時計が狂う」
 拗ねた口調のエドガーの前で吹き出さないよう努め、レグルスはこのプライドの高い母親がたった一言「寂しい」と父であるマッシュに告げられずにいることを理解して、全てを飲み込みゆっくりと頷いた。
「分かりました。ご一緒させていただきます」
「ああ、三時にな」
 レグルスは失礼しますと一礼して執務室を後にして、その足でマッシュの姿を探すべく城内を歩き回った。
 思い当たる場所をいくつか覗き、ようやく見つけたそこは厨房だった。
「父さま」
 周りに誰もいないことをしつこい程に確認してから小声で呼びかけると、調理台で何かを使っていたマッシュが顔を上げて破顔する。
「レグルスか。どうした?」
「お話ししたいことが……、……何を作ってらっしゃるのですか?」
「ああ、これか」
 グラスを容器にし、中を満たすチョコレート色のムースの上にオレンジピールを飾り終えたマッシュは得意げに胸を張ってみせた。
「ショコラオランジュのムースだよ。なかなか上手くできてるだろ」
「……母さまのお好きな組み合わせですね、チョコレートとオレンジ」
「うん、ティータイムに食べてもらおうと思って」
 出来上がったムースをトレイに乗せて冷やすために運ぼうとするマッシュを引き留め、レグルスは内緒話をするようにこっそりと囁いた。
「実は、今日は私も母さまのティータイムにお誘い頂いているのです」
「そうなのか? お前の分も作ろうか」
「いえ、そうではなく……、父さま、そのムースは是非父さまが母さまのところに持って行って差し上げてください」
 レグルスの頼みを受けてマッシュが困ったように眉を下げた。
「そうしたいんだが……、子供達への武術指南の時間が三時からなんだよ」
「基礎が中心の小さな子たちでしたら今日は私が代わりにお引き受け致します。……母さまはお寂しいようです」
 えっ、と小さく声を上げて目を丸くしたマッシュは、やや照れ臭そうに頭を掻いてレグルスから視線を斜めに逸らす。
「そう、か……。何年もティータイムは一緒だったからなあ……」
「可能でしたら今後は指南のお時間をずらせないでしょうか? 母さまのご機嫌が悪くなりますよ」
「そいつは困るな。そうだな、少し遅らせてもらえるよう頼んでみるか。今日は本当にお前に頼んでいいのか?」
「はい、お任せください」
 頼もしく微笑むレグルスを見て、マッシュもまた目を細めて優しく笑い返した。




「折角レグルスとティータイムを楽しめると思ったのに」
 テーブルを挟んだ向かい側で、ムースを掬ったスプーンを口に運びながらぶつぶつと零すエドガーのほんのり赤らんだ頬を眺めて微笑むマッシュは、うんうんと頷きながら素直ではない兄の文句を聞いていた。
「大体お前が考えなしに指南時間を決めるから」
「うん、ごめん」
「子供達への指導は有難いが、適当に安請け合いするのはお前の悪い癖だぞ」
「うん、そうだな……、兄貴、美味しい?」
「……美味い」
 あっという間に食べ尽くしてしまいそうな勢いのエドガーを優しい目で見つめたマッシュは、お代わりどうぞともうひとつグラスをエドガーの元に滑らせた。

(2018.01.31

閉じますよ