恋文




 会議が終わって疲れた心身をリフレッシュさせるかと、散歩がてら普段通らない回廊を回って自室に向かおうとしていた時。
 角を曲がりかけたその先に、よく見知った男と見慣れない女性らしき影を見つけてエドガーは思わず足を止めた。
 長身の男は間違いなくマッシュで、その向かいに佇む妙齢の女性の姿を認めたエドガーは、角からはみ出しかかっていた体を咄嗟に引っ込めて壁に貼りつく。そしてそろりと顔だけ角の向こうに覗かせて、何やら神妙な様子の二人を伺った。
 マッシュが困った顔をしている。エドガーの位置からでは女性は背中しか見えないためどんな顔をしているか分からないが、和やかな雰囲気とは言い難い。
 この距離では何を話しているかまでは届かないが、マッシュが女性に手のひらを向けて首を横に振っているのが見えるので大体の想像はついた。恐らく必死で断っているだろうマッシュのその手に白くて四角いものを押し付けた女性は、そのまま正面に走り去る。遠ざかる女性の背中を確認し、こちらに向かってくるのではなくて良かったとエドガーは胸を撫で下ろした。
 完全に女性の存在が見えなくなってから、エドガーはやれやれと角から姿を現した。珍しくエドガーの気配に全く気づいておらず、弱り切った顔で頭を掻いているマッシュに声をかける。
「見てたぞ」
 マッシュの大きな体が跳ね上がった。
 エドガーに気づいて目線を向けたマッシュは頬を薄っすら赤く染め、手に持っていたものを背中に隠す。その動きを目敏くチェックしていたエドガーが、瞼を軽く伏せてマッシュをちらりと流し見た。
「隅に置けないやつだな、お前」
「な、なんだよ」
「ラブレターか?」
 ひょいとマッシュの背中を覗き込んで隠されていた四角い封筒を取り上げると、マッシュが慌てて奪い返す。ちらりと見えた白を基調に上品な花の模様が施された封筒は、ほんのり甘い香りがした。
 怒ったように顔を真っ赤にして睨んでくるマッシュを前に、揶揄いたい気持ちとそれなりの面白くなさが混ざったエドガーはつい言葉に棘を含んでしまう。
「城に戻ってから随分と人気があるもんな、お前」
「そんなことないって」
「お陰で誰も俺の口説きに靡かない」
「それは前からだろ」
 弟の言い草にカチンときたエドガーは、手紙を隠し続けるマッシュの腕を掴んで引っ張った。
「見せろ」
「や、やだよ、放せって」
「いいだろう、減るもんでもなし」
「ダメだって、ちょ、破れるって……!」
 あと一歩で届きかけた手紙をマッシュが高く持ち上げてしまったせいで、身長で劣るエドガーは手出しができなくなる。ますます面白くない気分になったエドガーは、底意地が悪そうな表情でハッと短く笑う。
「そんなに大事か、その手紙が」
 マッシュもまた眉間に皺を寄せ、ムッとした顔で少し語調を強めて言った。
「もらっちまった以上は大事にしないとダメだろ。返事も書かないといけないし」
「返事?」
 エドガーは自分でも嫌味ったらしく余裕がないと分かる声で言い返す。
「わざわざご丁寧に返事なんか書くのか?」
「当たり前だろ? 書いてる方は真剣なんだぞ」
「どうせ断るのに?」
 ぴく、とマッシュの眉が不自然に揺れた。それに気づいたエドガーが次の言葉を発する前に、怒りに近かったマッシュの表情がみるみる失望を大きく描いた無になっていくのを見て、エドガーははっとして瞬きをする。
「……兄貴は、時々凄く無神経だよな」
 ぽつりと吐き捨てたマッシュは、エドガーの弁解も待たずに背を向けて歩き出す。おい、と躊躇いがちにかけたエドガーの声を無視して回廊の向こうに消えたマッシュに、エドガーは自分の悪手を悔いて唇を噛んだ。



 ──あんなに怒ることないだろ。
 遠回りして辿り着いた執務室でぶつぶつと文句を零しながら、エドガーは先ほどの会議で使った資料の重要事項をチェックしていく。目で追うもののなかなか頭に入ってこない。浮かんでくるのは別れ際に軽蔑したような目で自分を見るマッシュの姿だった。
 確かに言葉が悪かったとは思うが、目の前で手紙を渡されているシーンを見て、おまけにその手紙を大事に持ち帰ろうとするのに苛立たないはずがない──分かれよ、気づけよと愛しい朴念仁の鈍さを呪う。
 に、しても。珍しくはっきりと怒ったマッシュの態度にエドガーは少なからず動揺していた。マッシュは普段エドガーに甘過ぎるくらいに温厚だが、一度怒らせると案外長引くのだ。
 しかし何がきっかけとなったのか判断しかねる。意地の悪い言い方をしたのは認めても、そこまで怒らせるようなことを言っただろうか? 可愛らしく他の人からもらった手紙を大事にされるのは辛いと伝えれば良かったのか?
「……言えるか、そんなこと」
 ぼそりと呟く自分の声が惨めったらしく聞こえて、エドガーは軽く頬をぺちぺちと叩いて気持ちを切り替えようと努めた。
 怒らせてしまったものは仕方ない。原因が分かって対処できるか時間が解決するかのどちらが先かは分からないが、とにかく今はどうしようもない、と判断したエドガーが改めて書類とにらめっこを始めて少し経った頃、扉を叩く音がして顔を上げた。
「どうぞ」
 一縷の望みをかけて声をかけたが、現れた大臣を見てエドガーは分かりやすく落胆する。それを仕事絡みと受け取ったのか、大臣はいつもより気合の入った目つきでエドガーに詰め寄った。
「エドガー様。先程の会議で問題になった工事の中断の件ですが。エドガー様のお手元で止まっている書類がございませんか──もう一ヶ月ばかり」
「ん? 私のところで……?」
「そうです。下まで回って来ていない書類があると確信しております」
「そ、そうだったかな……調べておく」
「くれぐれも、お早く、よろしくお願い致します」
 泣きっ面に蜂か──今日はとことんついていないと、大臣が下がった後の執務室でエドガーは山積みの書類をひっくり返し始める。テーブル脇、引き出し、机の下、なるべく丁寧に目を通すがそれらしき書類は見つからない。
 ひょっとしたら少し前に私室に持ち帰った分に紛れただろうかと、溜息まじりに立ち上がって部屋に向かうことにした。


 私室の机の引き出しを片っ端から開け放し、紙という紙をめくってみたというのに目的のものが見つからず、エドガーは天を仰いでソファにどっかり背中を預けた。そのまま何気なくサイドテーブルに目をやり、そこに置かれた数枚の書類に気がつくと、がばっと体を起こして飛びつくように手に取る。
「……あった」
 書類に記された日付は確かに一ヶ月前。
 ようやく見つけた件の書類を発見して大きく安堵の息をついたエドガーは、無関係の書類が散乱する机周りを見て失望の溜息をも漏らす。
「……片付けが大変だな」
 この惨状をマッシュに見られたら何を言われるだろうか、と想像しかけて、いやしばらくマッシュが来ることはないのだろうと自虐的に落ち込む。のろのろと立ち上がったエドガーは、散らかった紙の一部を拾い集めて適当にまとめ、分類するのを諦めて卓上に放る。
 まだ散らばっている紙を集めようとして、ふと床に転がっている文箱に気がついた。木製の古びた文箱は幼少時から使用している大切なもので、床に転がしてしまったことに心を痛めて注意深く拾い上げる。
 手に取ったのは何年振りか覚えていないほどだった。懐かしさに片付けを忘れて思わず箱の蓋を取る。中には子供の頃から大切にしてきた手紙の類が収められていた。
 一番上に置かれたカードを開き、エドガーは目を細める。父の流れるような字で誕生日を祝うコメントが書かれていた。字が読めるようになって間もない頃、自分用にカードをもらったことで大人の仲間入りをしたような気分になったことを思い出す。
 年齢が上がる度に難しい言葉が含まれるようになっていくカードを順に眺めて、愛しさに胸をじんわり疼かせていた時、カードの下から少し皺の寄った封筒を見つけて目を留めた。
 はてこれは何だろうと摘み上げて、宛名部分に拙い文字で自分のミドルネーム、差出人に同じくミミズのような字でReneと記されているのを見て目を丸くする。
 そして脳裏に蘇る映像に目を瞠る。二十年以上は昔だろうか、小さなマッシュが覚えたての字で書いた手紙を真っ赤な顔で渡してくれた。ありがとうと受け取って、ぞんざいにポケットに突っ込み、後から一人で部屋で読んだこの手紙。
 エドガーはそっと中の便箋を取り出した。開いた紙の中央に書かれた『あにきがだいすき』。
 思わず口元を手で覆う。──そうだ、確かに覚えている。これはマッシュから初めてもらった、そして今までで唯一の手紙だ。
 照れ臭くてマッシュの前で読めず、返事すら書けなかった。翌日に素知らぬフリをしたエドガーを見て、少し淋しそうな顔をしたマッシュの揺れる瞳すら覚えている。
『書いてる方は真剣なんだぞ』
 ──そういうことか。
 エドガーは前髪を掻き上げ、そのままくしゃりと握り潰した。
 幼い手で懸命に書いただろう歪んだ文字を一文字ずつ何度も読み返し、エドガーはおもむろに散らかった机上の書類を乱雑に脇に寄せ、革張りのチェアに腰掛ける。それから真新しい書簡紙を引っ張り出して、ペンを手に取り──随分と長い間難しい顔で悩んだのち、そのペンを真っ白な紙に走らせた。



 時間的に人の利用がほとんどない訓練場を覗くと、思った通りそこで黙々と腕立て伏せをしているマッシュがいた。
 戸口で少しの間様子を伺ったエドガーだったが、腕立て伏せの回数が百を超えてもまだやめる気配のないマッシュを見て意を決する。
「マッシュ」
 声をかけてから訓練場の中へと踏み入ると、マッシュの動きがぴたりと止まる。ちらりとこちらを見る目つきから、まだ彼の機嫌が直っていないことがよく分かった。
 エドガーは視線が泳ぐのを堪えながら、なるべく平静を装って近づいて行った。心臓の音が足音を追い越して加速する。
 いよいよ傍に来たエドガーを気遣ってか、マッシュはようやく体を起こした。汗だくの顔を汗が伝って顎の先から滴り落ちる。
「……何?」
 低くてぶっきらぼうな声に胸が痛むが、エドガーは細く長く息を吐いてから、小さく「すまなかった」と呟いた。眉を顰めるマッシュが追求する前に、続けて言葉を紡ぐ。
「……昼間は、俺が悪かった。お前の言う通り、確かに無神経だったと思う」
「……」
「……その、思い出した。お前が、昔くれた手紙のことを」
 マッシュが目が一回り大きくなったのが分かった。
 エドガーはそんなマッシュを直視できず、視線を逸らして軽く唇を尖らせる。
「さっき、読み返したんだ。それで」
「読み返したって……あれ、まだ持っててくれたのか……?」
 一気に言ってしまおうと思ったのに、マッシュが横槍を入れてしまうと頬が熱くなってしまう。
「ま、まあな……」
 エドガーの肯定に、先程までマッシュが纏っていた不機嫌を絵に描いたような気配がふっと消えた。信じられないという表情でエドガーを見る目に、みるみる暖かさが溢れていく。
 そんな目をされては言い出しにくい──エドガーは軽く唇を噛んで、なるようになれと背中に隠していたものをマッシュに突きつけた。
 マッシュは四角い封筒を眼前に出されて目を丸くする。エドガーはマッシュの手に封筒を押し付け、ぷいと首ごと顔を逸らした。
「……遅くなったが、返事、だ。後で、部屋で読ん……ってこら! ここで開けるなっ……」
 受け取るなり封を開こうとするマッシュの手を押さえようとしたが、マッシュは素早くエドガーを腕でガードして中から一枚の便箋を取り出す。
「待て、俺の前で読むな……!」
 首まで赤くなったエドガーの制止を聞かず、マッシュは紙を開いた。そして目を見開いてからふっと眉を下げ、泣き出すのかと思うほど柔らかく目を細めた。
 エドガーは右手で顔の下半分を覆い、すっかり真っ赤になってしまった自分をマッシュから隠すように体ごと背を向ける。あまりの恥ずかしさに取り繕う言葉も出て来ず困っていると、突然背中からぎゅうと抱き締められて心臓がどきんと収縮する。
 首に埋められたマッシュの頭が汗で濡れていて、エドガーは思わず身を捩った。
「マッ……、お前、汗っ……びしょびしょだぞっ……」
「うん……、一緒に、風呂入ろ……」
「風呂って……まだ陽が高……こら、軽々持ち上げるなって何度言ったら……!」
 抱き竦められた体をひょいと横抱きに抱えられ、真っ赤になって抵抗したのがうるさかったのか唇で唇を塞がれて連行される。
 マッシュのポケットに捻じ込まれた二十年来の手紙の返事にはたった一行。


『俺も愛しています』