後会




 埠頭に佇み、畝るような黒い海を無言で見下ろす。分厚い雲に覆われた暗い空は光がなく、港に立つ街灯の頼りない灯りが水面に光を散らして蠢いていた。
 風に靡くマントと緩く編まれた長い髪はこの海にも似た鈍色だった。目的もなくただ揺れる海面を見つめ、耳が思い出したように波の音を拾う中、ふと背後から聞こえる砂利を踏んだような靴音に意識が引き戻される。
 靴音は声が届くギリギリと思われる位置で止まり、そこから動かなくなった。振り向かなくともそれが誰かは分かっていた。昼間会った二つの顔を思い浮かべ、そのうちのどちらが自分の背中を何も言わず見つめているのかは容易に想像できた。
 目が合ったあの時、僅かに開いた瞳孔が察知を物語っていた。問い詰めるセリスに対して無言を貫いた懐かしい姿を思うと脈が乱れる。何をしようとしているか、理解してくれたのだろうか。──してくれたに違いない。昔から肝心なところはいつも聡い男だった。
 だから今もこうして言葉が届く距離にいるのに、決して声をかけてこようとしない。自分が存在に気づいていることを彼もまた気づいているだろう。振り向くべきか否か。迷った挙句に小さく溜息を漏らした。
 振り向いたのは賭けだった。動じずにいられる自信がなかったからだ。薄い赤銅色のレンズに包まれた瞳で、この宵闇にも際立つだろう青い瞳を見返すことができるのか、怖れのような不安があった。
 振り返った先に捉えた精悍な姿にほんの少し目を細める。真っ直ぐな眼差しも広い肩幅も伸びた背筋も一年前と少しも変わらない。窶れた様子のない姿に安堵で胸が熱くなる。
「……何か用かな」
 声を聴きたくて思わず自分から問いかけた。まだまともにあの低く優しい声を聴くことができていなかった。淡い期待は、彼が軽く首を横に振ったことで呆気なく裏切られる。
 怒っているのかもしれない、と自嘲気味に微笑んだ。彼が自分を分からないはずがない。知らぬフリを押し通そうとした自分に静かな怒りを訴えようとしているのだろうか。──罵りでもいいから一言声が聴きたかった。
 そうしてどれだけ無言で見つめ合っただろうか。何も言わない静寂の青い瞳がただじっと自分を縛り付けることに息苦しささえ感じ始めた。
 先に嘯いたのは自分だ。責める資格など無いというのに、動かない彼の口と瞳に情け無くも焦れてしまっている。顔に出すまいと堪えてはいるが、この煤けた赤い目が揺らいでいるのをどこまで見抜かれているだろうか。
 もう寸時、そのままでいたら全てを投げ出して手を伸ばしてしまったかもしれない。暖かさが滲む沈黙の瞳は旅に疲れた胸を簡単に支配してしまう。そうなる前に目を伏せ、視線を再び海に戻して優しい眼差しに背を向けた。
「……用がないのなら宿に戻るんだな。……おやすみ」
 波音に消えそうな声しか出せなかった。
 全てが終わった時、彼は自分を責めるだろうか。いつものように笑ってくれるだろうか。あの優しい声で呼びかけてくれるだろうか……
 ──いや、そうじゃない、と心の中で首を振る。あの悪夢のような世界の崩壊から、ようやく見つけた大切な存在に、かけたい言葉がかけられなかったもどかしさ。伝えたい言葉は山ほどあった、そのどれも口にできなかった愚かしさ。
 目的を果たせばこの胸を締め付ける自責の念は消えてくれるのだろうか──
 ふと、最初に聴こえた時から一度も変化することのなかった靴音が再び砂利を鳴らした。
 そのまま遠ざかると思われた音が近づいていることに気づいたのは、もうかなり近い距離に気配を感じた頃だった。
 振り返るという意識が働く前に、背中から力強く抱き締められて声を失った。
 耳元で苦しげに漏れる吐息に体が竦み、夜の闇に目を見開く。
「……生きていてくれて……」
 ありがとう。
 低い囁きは耳から頭に入り込み身体中に広がって溶けた。
 痛いくらいに締め付けられた体からふわりと熱が離れていく。走り去る靴音を確かめるために首を動かすこともできず、そのまま地べたにへたり込んだ。
 わななく手のひらで顔を覆い、それは俺の台詞だ、と震える声で呟いた。

 生きていた。生きていてくれた。
 この一年、逢いたくてたまらなかったあの優しい目が変わることなく見つめてくれた。
 生きていてくれてありがとう。再び出逢えた喜びにようやく胸を愛しい痛みで焦がすことができ、ほんの一瞬感じた熱を取り戻すように肩を抱いた。