胡桃




 沿道は人々でごった返していた。
 昨年即位したばかりのまだ二十歳にも満たない若き国王の御姿を一目見ようと、好奇心を瞳に乗せたサウスフィガロの住人たちは集まってそわそわと囁き合う。
 ──先月十八になられたのだったか。まだほとんど子供のようだろうな。
 ──いやいやどうして、なかなか頭が切れるらしいよ。この前卸された新作の武器も陛下自ら考案されたとか。
 ──亡き王妃様譲りの美貌を拝みたいね。戴冠式は遠くて豆粒にしか見えなかったからな……そら、来なすった。
 歓声の中、臣下を引き連れて颯爽と歩く若き王は、蒼玉のような青い瞳を不敵に輝かせて口元には穏やかな笑みを湛え、ふたつのリボンで結った金色の長い髪を靡かせていた。
 沿道から溜息が漏れる。顔立ちの整った王の美しさは見た目だけではなく、溢れ出る自信に満ちたオーラのためか内から目映く輝いていた。
 すらりとした長身であるが華奢ではない。観衆を前に怖気付くこともなく、手を振る沿道の女性たちにスマートに手を振り返す様子には余裕さえ伺えた。
 ふと、浮かれムードに不似合いな子供の泣き声が水を差した。若い王が軽く眉を持ち上げて声の出所を振り向く。人混みで押されて転んだのか、王の腰の丈程度の小さな少年がわあわあと膝を押さえて泣いていて、母親らしき女性が青ざめた顔で抱き起こそうとしていた。
「不躾な」
 傍に控えていた臣下の一人が呟いたのを聞き逃さず、王は彼を目で制す。隊列の中心から一歩外れた王は、腰を屈めて少年に目を合わせ、強い眼差しで微笑みかけた。
「一人で立てるかい」
 優しくもきっぱりした口調で語りかける王をぽかんと見上げた少年は、何度か瞬きをしてその大きな瞳から水滴を振り落とし、首を縦に振った。そして母の手を借りずにもぞもぞと立ち上がる。
 王はにっこりと目を細めた。
「強い子だ」
 少年の頭をひと撫でし、王はマントを翻して列の先頭に戻っていく。少年から憧れの視線を背中に受けた王は、どこか郷愁を感じる表情で遠くを見つめながら歓声の中を歩いて行った。






 わあああん、わあああん……

 懐かしい泣き声を思い出した。

 あれは自分も弟もまだ三歳くらいだった頃だ。父や数人の腹心と共に散策に訪れたサウスフィガロ近くの森で、弟が野生のナッツイーターに好物の胡桃をあげようとして指を噛まれたことがあった。
 元々泣き虫だった弟は火がついたように泣いた。噛まれた指は大した怪我ではなかったものの、ナッツイーターの鋭い歯に傷つけられて血が滲んでいた。
 大人たちは弟を宥めるべく声をかけたが、自分が泣きじゃくる弟に大人たちを近づけないよう庇った記憶がある。
 好意で胡桃をあげようとして裏切られた。きっと弟は悔しいに違いない。男は悔し涙を見られるのが一番辛いのだ──泣き続ける弟を抱き締めて、兄として弟の名誉を守らねばと勝手な使命感を燃やしていた。

 その夜いつものように隣同士で潜り込んだベッドの中、弟は大仰に包帯を巻かれた指を見つめながらぽつりと零した。
『ナッツイーター、くるみきらいだったのかな……』
 弟の頭に手を伸ばしてそっと髪を撫でた。慰めなどではなく、戦いに敗れた戦士を労う気持ちだった。ところが弟は意外なことを言い出した。
『いやなことしたから、おこったのかな。レネがわるかったのかな。でもレネはもうナッツイーターがきらいになっちゃった……』
 弟は身体を自分にくっつけて寝衣の肩部分をぎゅっと掴み、また微かに目を潤ませた。
『ナッツイーターごめんなさい……』
 何を謝ることがあるのかと、当時は弟の考えが全く理解できなかったのだ。嫌なことをされたのは弟の方だ。好意を踏み躙られて怒るのも弟の方だ。だから嫌いになるのは当然で、それが悪いことのはずがない。
 ──今思えば、他者の気持ちに敏感だった弟は自身を省みる能力にも長けていたのだろう。気持ちを押し付けず、悪いところがあれば素直に認める。それは簡単なようでいて到底この自分には無理なことだった。
 王たる資質があったのはきっと弟の方だったのだろう。泣きじゃくっていた小さなシルエットが頼りないながらも大きくなり、砂漠の向こうに消えた日のことを一年経っても昨日のことのように思い出す。






 街の視察は滞りなく済み、城に戻るべく準備をしている途中で王は群衆に目を留めた。
 先程転んで泣き喚いていた少年が何かを手に握り締め、物言いたげに王をじっと見つめている。
 穏やかな目の王が近づくと、少年は恐る恐る握り締めていたものを差し出した。少年の手の力で皺ができた紙袋を開くと、香ばしい匂いが仄かに漂う。黄褐色の胡桃の剥き身が炒られて一掴み分収められていた。
 王は優しく微笑みありがとうと少年に告げる。背後でうるさ方が渋い顔をしているのはお構いなしの様子だった。先程のように少年の頭に触れ、王はマントを翻す。


 捨てねばならないものだと理解はしていたが、どうしても処分できなかった。
 香ばしい胡桃を一粒静かに噛み砕くと、懐かしい味と共にあの泣き声が蘇る。
 ──あいつは胡桃が大好きだった。一年経って、少しは泣き虫が直っただろうか──
 王の仮面を取り払い、弟と戯れていた頃の個の自分に少しだけ戻って、微かにほろ苦い薄皮を飲み下す。