虚無




 さらさらと雨が降り続く闇空の下、一人の男が崩れた家屋の木片を素手で黙々と掘り続けていた。
 雨避けになるようなものは身につけておらず、長い金髪が水を含んで垂れ下がり、濡れそぼったマントが体に纏わりつくのを厭わしそうに時々払いのけながら、指先で瓦礫と化した板切れを掻き分ける。泥に塗れ爪は剥がれ、釘や尖った木片で傷ついたのか赤黒く染まった手を顧みずに男は掘り続けた。
 口の中でブツブツと何かを呟きながら掘り進める男の目の焦点は合わず、夜雨で冷え切っただろう体は小刻みに震えているというのに、当初は東にあった薄雲の合間に見えた下弦の月が南に限りなく近づこうとしている今になっても、男は手を休めることはなかった。しかし素手のためか時間の割に作業は捗らず、家一軒分が木片と化した山の手前を僅かに崩したに過ぎなかった。
 ふいに飛び出た釘が手のひらを貫き、そこで男はハッとして手を止めた。釘を引き抜き小さな穴から湧き出た血液を眺め、目の前に聳える無情な木屑の塊に今初めて気づいたような顔をして、がくりと膝をつき血に濡れた手で顔を覆う。

 ──出てこない……

 ぽつりと呟いた男の背後で砂利を踏む音がした。音は耳に届いていたが、男は振り返らず動きもしなかった。
「……こんな時間まで何やってる……。ボロボロじゃねえか」
 旅を共にする仲間の声は言葉とは裏腹に酷く優しかった。男はまだ動かず、足音がすぐ傍に来るのも咎めずにただ蹲って雨に濡れていた。
「お前の気持ちは分かるが……時間が経ち過ぎてる……こんなことしたって、」
「生きてる」
「……エドガー」
「……生きてる……、あいつは絶対……生きて、どこかに……」
「……」
 掠れて震えた男の声を確かに聞き届けただろう仲間はしばし押し黙り、待ってろ、と言い残して踵を返したようだった。足音が遠ざかっても男はまだ動かず、崩れた家屋の前で同じように雨に汚れ続けた。
 やがて再び足音が近づき、背後でガツンと金属の音がして男はようやく振り返る。
 戻ってきたセッツァーがスコップを二本、地面に突き立てていた。
「宿屋の主人叩き起こして借りてきた。……こっちの方が効率いいだろ」
 雨なのか涙なのか見分けがつかない程濡れて燻んだ顔で、エドガーは紫色に変色した唇を震わせることしかできなかった。



 雨音に瓦礫を掘る音が混じる。
 二人の男は一言も発することなくただ黙って掘り続ける。
 雨は強さを増し、風も伴ってずぶ濡れの体を刺し続ける。それでも二人は何も言わずに残酷な山を崩して行った。
 空が薄っすら白んできた頃、エドガーは木片を掬い上げたスコップの影に奇妙な空間ができていることに気づいた。
 目を見開きスコップを投げ捨て、その空間に手を突っ込む。横で気づいたセッツァーもまたスコップから手を離して素手で加勢した。
 まだ闇が色濃く残る紺色の空をほんの少し侵食した茜色の雲が空洞を照らす。その中に泥に汚れて元の色とは程遠い、しかしかつては葡萄色だったと思われる衣の一部分を見た瞬間、エドガーはへたりとその場に座り込んで両腕をそこに捧げた。
 かける言葉を失ったセッツァーは、青白いエドガーの横顔に目を瞠る。
 青い瞳から光が消え、そこからは懇々と紅涙が溢れるのみで、ただのガラス玉と化したうつろな目を一点に向けたエドガーは、うっそりと口角を上げて微かに唇を動かした。
 おかえり、と模った唇が震えて何の意味もなさなくなった時、エドガーはその身を地に伏せてかつて熱を持っていたものに触れた。そして手の中で崩れたそれを握り締め、そのままぴくりとも動かなくなった。
 セッツァーは何も言わず完全な夜明けが訪れるまで二人の傍に佇んでいた。